人魚の見る夢

西しまこ

満月の産卵

 わたくしは海でたゆたひながら、あの人のことを見てをりました。


 ざざああん、ざざああああんといふ波の音楽を聞きながら、ひねもす海でゆうらりゆうらりと泳ぎて、小魚や小動物や海藻たちとあざれあふのがわたくしの日課なのでございます。海の中のくくもりし音、常には緩やかな海藻の動きなどはわたくしの心持ちを柔らかにぬるんだ眠りに誘ふのです。


 嗚呼、光のちらちら降りゆきて、紺碧の海の中をさざめきさざめきてゆくさまをわたくしはどれだけ愛したことでせう。


 光降る海、たゆたふわたくし、ざざあああんといふ波の調べ、水の流れにゆく魚たち。広がる髪は海の水にのびゆき、わたくしの欲深きこころはかようなまでに果てのないものであつたのかと、わたくしに訴えるのでありました。

 

 ある日、わたしくは海から顔出し、地の生き物を眺めてゐたのであります。

 海の中を泳ぐ魚のやうに、空の中を飛ぶ鳥。鳥たちの鳴き声は遠くまで飛んでゆくのです。嗚呼、海の中とはなんと異なることでせう。わたくしはその澄んだ音色に浮き立つやうな心持ちになつたのであります。さうして、わたしくはしばしば海から顔出し、地の生き物たちを眺むことを密かな楽しみごとといたしました。


 地の生き物たちは、なんて忙しさうに動くのでせう。昼の間、光がいつぱいに満ち満ちてゐるからでせうか。わたくしは飽くことなく地の生き物を眺めたのであります。


 そのやうに過ごしていました折、大きな四角の建造物をふと見ますと、その小さな四角の中にそれぞれニンゲンがいることに気づいたのであります。わたくしの海の瞳は遠くまで見通すことが出来るのです。大きな建造物はニンゲンたちの棲み処であるやうでした。


 一人のニンゲンが、しきりに海を眺め深き溜め息をつくのを見つけました。


 黒き髪はなんといふ美しき輝きがあるのでせう。深く海の底まで潜りますと、そこは光のない黒き闇の世界なのです。しかし、しんとして静かなその黒さは不思議に優しくわたくしを取り囲み癒すのです。わたくしはその深海と同じやうなものをかの人の髪に感じたのです。愁ひを秘めた双眸、細くて長き吐息、語りかけてくるやうな唇。わたくしはそのニンゲンが建造物から出てくるのを心待ちにするやうになつたのです。


 細く糸のやうな月が浮かんでをります。かすかな光を身に受けながら、満月を思いやりました。満月の海で、わたくしたち人魚は産卵するのです。満月の海で乳白色に輝きて海をたゆたふ卵は、人魚の涙のやうでした。わたくしは、かの人を思ひながら産卵するさまを脳裏に描いたのであります。


 奇蹟のやうなことが起こりました。


 黒髪の方がうちへ来るかい? と言ふのです。わたくしは満月までならとお答えいたしました。満月まで、あの人と共に過ごすのです。なんといふ幸福なのでせう。わたくしは毎日深海の黒髪を愛でながら、たらひで夢見るやうに過ごしたのであります。海からゆらゆらと見てをりましたあの人がすぐそばにいて、その吐息がわたくしに触れるのです。わたしくはあの人の吐息に包まれ、満月に産む卵のことを考えるのです。


 あの人は満月が近づくにつれ、涙を流すやうになりました。涙をそっと舐めました。涙はわたくしの身体の一部になり、わたくしはあの人と混ざり合ふのです。


 満月の夜、わたくしは産卵のために海へ還ってゆきました。あの人は水平線のわたくしを見つけることが出来たでせうか。わたくしの卵を、あの人は大切にしてくれるでせうか。

 満月の光がひとつぶひとつぶ群青色の海に降り注ぎます。

 わたくしの卵たちは海を漂ひ流され、さうして麗しき人魚になる夢を抱きてゐるのです。




           了

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