天使になるもの

上雲楽

I want to be angel.

"だってだってだってだって大好きだから


どこどこどこどこどこでもついてく"


 あなたは演劇の脚本を書かなければならない。六年生を送る会実行委員長に選ばれてしまって、他のやる気のない同級生は頼れなかった。通学路から少し離れたところに住んでいる大学生のハカセはあなたと遠い親戚らしく、昔から勉強を見てもらったり、アイスを食べたりしていたから、相談するのに都合がよかった。

 ハカセの言葉で、あなたは以下のことを知っています。


テアトロメダ : ALEPH。これ。

憑依 : これ。

一神論 : あなたではない単一存在を信じる立場。

通時間的 : 時間を超越した、あるいは時間を通じて一貫しているさま。

収斂 : ある一点に向かって近づくこと。

宇宙 : 「天使になるもんっ!」を生み出すもの。「天使になるもんっ!」に生み出されたもの。あるいは「天使になるもんっ!」の発生しないシミュレート。

ナノマシン : 非常に小さな機械。神経系に作用し、目的に向けて心身を即時教育できる。この説明はテキストであり、ナノマシンではない。

自己言及 : これ。

川柳 : 日本の定型詩。

相対主義 : 物事の捉え方は個人や文化によって異なるとする考え方。

ニヒリズム : 虚無主義。世界や人生に意味や目的がないとする思想。

再帰的 : これ。

イメージ : あなた。

情報量 : あなたの量。

綾波レイ : 「新世紀エヴァンゲリオン」の登場人物。

人間原理 : 宇宙が人間に適しているのはそうでなければ人間は宇宙を観測し得ないという理屈。

「天使になるもんっ!」 : アニメ。ロゴス。テアトロメダ。

ピグマリオン : ギリシャ神話に登場する彫刻家。自らが作った女性像に恋をした。

SM : 私とあなたの関係。教育。

バンク : アニメーションにおいて、同一の動きを繰り返す場面のこと。

メタバンク : バンクのように繰り返されること。

擬態 : ハカセが行うこと。

ト書き : あなたの動作や舞台の状況を説明する部分。

ニコニコ動画 : 日本の動画共有サイト。

「美少女戦士セーラームーン」 : 武内直子による日本の漫画およびそれを原作とするアニメ。

「ラス・メニーナス」 : スペインの画家ベラスケスの絵画。自己言及的な構図と視線の交錯が特徴的。

媒介 : 天使。

六年生を送る会 : あなたに生じた必然。小学校の意志がもたらした儀式の一つ。

小学校 : 煉獄。

ルネ・マグリット : ベルギーの画家。

「イメージの裏切り」 : マグリットの絵画作品。パイプの絵とそれを否定する文章が描かれている。

「東方紺珠伝」 : 弾幕系シューティングゲーム。東方Projectの第15弾。

紺珠の薬 : 未来を見て、過去を消し去ることのできる薬。

グレイズ : 死の可能性。

かすりアイテム : 捏造され増殖した死の可能性。

ユートピア : 庭。これ。

大江健三郎 : 愛媛県の小説家。

「水死」 : 大江健三郎の小説。

パウル・クレー : スイスの画家。

「そこの上、そこの下」 : パウル・クレーの絵画。

人間機械論 : 身体を生理的・物理的分析によってすべて理解すること。

コンセプチュアルアート : アイデアや思想を重視した美術の方法。

京都アニメーション : アニメ制作会社。

「涼宮ハルヒの憂鬱」 : 谷川流のライトノベル作品『涼宮ハルヒシリーズ』を原作とする日本のテレビアニメシリーズ。

「エンドレスエイト」 : 長門有希のユートピア。

メタテアトロメダ : これら。

ベタテアトロメダ : これら以外のこれ。

フォウ・ムラサメ : 「機動戦士Ζガンダム」の登場人物。

「忘れっぽい天使」 : 谷川俊太郎の詩。

微分 : 極小の変化量。


「演劇は人々の会話を模しているから、私とあなたの関係と同じですね」

 ハカセは言う。

「それに対してあなたは、『私はあなたとまだ言葉を交わしていませんが、あなたの演劇観は観客視点での構図で、私がする執筆は、自己との対話だと思います。自問自答のシステムを提示してください』と言うつもりですね。私を知るためにテアトロメダを知りましょう」

 あなたは、いつもの行事で行うように、ただ粛々と儀式的に六年生を送るのに適切な言葉をパッチワークしたいだけだったから、ハカセの長そうな説明は聞き流す決心をしていた。なのに、現にあなたがハカセの言葉を求めてここにいるなら、ハカセの言葉を思い出すのは決定されていることだった。

 テアトロメダは正式にはALEPH(Absolute Logos Encoded Primordial Harmony)と言います。ALEPHを用いて最初にオープンにされたシステムの名前が「テアトロメダ」で、それがあなたたちに広まったから、ALEPH全般のことを一般にテアトロメダとも言います。テアトロメダとは一言で言えば、複数の可能な私から一つの私を一神論的かつ通時間的に収斂させるシステムであり、可能な私を操作することで、私と私の認識する宇宙そのものを操作するシステムのことです。難しそうに聞こえますが、ピアノを演奏したり、ドルフィンキックで泳いだり、空手の型を覚えたり、書道で綺麗な字を書けるようになるのと似たようなものです。ブラックホールの向こうの子宇宙に思いを馳せて憑依させる教育システムです。あなたが直観した通り、ナノマシンによる心身の調整と何が違うのか、という疑問は本質的です。事実、テアトロメダのシステムはナノマシンの発達によってほとんど追いやられてしまい、現在、教育分野では用いられていないのが現状です。しかし、テアトロメダが適用可能な領域、あるいはテアトロメダによって到達した「到達不可能な領域」について考えたり、利用することは、あなたにとって意味がありますね。

 ハカセの言葉と、テレビから流れている音の区別が時々つかなくなって、曖昧にはにかんだ。

 例えば川柳について考えると、「テアトロメダ」を直感的に把握するのに最適です。可能な川柳は五十音の十七乗です。従来、川柳は五七五を基準値として生成される語と、次に現れる語とのパースペクティブ=出現確率を調停しうる「私」の評価軸に依拠しながら、私の肉体が現に語を配置したことを根拠として自らは川柳であると自己言及していました。しかし、テアトロメダがあらゆる私の存在を提示し、あらゆる川柳を記述する私の集合と五十音の十七乗の集合が等価である以上、現にここに川柳が現れたという事態は何の意味も持ちません。

 あなたは、それは相対主義的なニヒリズムに他ならないと批判しましたが、そのように判断する価値体系もテアトロメダ内部において並置されています。一方でけっきょくのところ川柳、その他の領域でニヒリズムが蔓延しているのも事実ですが。川柳が私にもたらすワンダー(私に生じる、語の並びへの適切な違和)が確率として記述できる事実はニヒリズムではありません。テアトロメダは本質的に私の感覚器官を経由した価値創発装置です。ニヒリズムではなく、すべてに価値を創り出すものです。

 あなたは現・宇宙を目の当たりにすることはできても、他の可能性の宇宙を物理的に観測できることに疑問を持つでしょう。もちろん物理的には不可能なので、物理的には行いません。テアトロメダは、ある宇宙で川柳を配置した私を私に憑依させます。憑依は時空を超えますから。憑依された、ある宇宙で川柳を生み出すための思考があなたのうちにシミュレートされます。そのシミュレートによって、子宇宙を生み出した現・宇宙に子宇宙が憑依します。私が思考し、川柳を配置するための環境が改竄されます。その改竄結果によって生じた新たな宇宙と私を環境として、再びテアトロメダが起動し続けるのです。

 仮に、「もろともにうきよのなかはかみなれやおもうこころにみわたりつつ」が起動してしまえば、私が円空であり、宇宙は開闢し江戸時代に出家を迎え私まで連綿と結び、即身仏になりたい気持ちが憑依し、神に憑依されたい円空の気持ちを依代にして元禄の気持ちが憑依します。「ぬりほあふひすのむたこをてよまうめもくおんれなわせきはるさしい」が起動してしまえば、私が景行天皇であり、宇宙は開闢し古墳時代に即位を迎え私まで連綿と結び、現人神でありたい気持ちが憑依し、景行天皇があってほしい人々の気持ちを依代にして(現・宇宙において)存在しない気持ちが憑依します。

 それは川柳ではなく和歌ではないか、というあなたの声を無視するように、ハカセは朗々と何かを詠ったが、子音が多すぎて日本語には聞こえず、そのハカセの言葉が川柳なのか和歌なのかわからなかった。

 今・ここの私の肉体を依代にして憑依され、現に発生した川柳に対して再帰的に私がワンダーを感じたのなら、その川柳の文字列は完全にランダムではありえず、あるいは見知った文字列ではありえないはずです。前者は文字の並びが発するイメージのパターンが減る、つまり情報量が今・ここの私にとって少なく、凡庸であるという評価を与えられ、後者の川柳は語と語のパースペクティブが近く連想の確率が上がり、今・ここの私以外にも容易に記述が可能だと感じられるために凡庸であるという評価を与えられがちであり、結果共に現に肉体を用いてまで発生する事態は減るため、発生確率に反して現出する蓋然性は低くなります。もちろん、「サラリーマン川柳」や「シルバー川柳」のようなそれ固有の論理によって蓋然性は変化しますが。その結果、私に生じた特権的川柳は特権的であるがゆえに、川柳による私の情報の拡散と統一の作用が平均的なものであるというある種のパラドクスを備えています。

 あなたは人間原理を思い出した。人類の脳のように宇宙がこのような性質を持つことを観測する私・認識システムを獲得するには環境が整っていなければならない。すなわち私がいるという事実が環境の性質を決めている。川柳が存在する事実が私の性質を決めており、その川柳/私は特権的かつ平均的である。

 弱い人間原理においてこの宇宙の中に様々な種類の環境を想定することにより、この環境が奇跡的に見えることを説明し、強い人間原理が様々な種類の物理法則に支配される様々な宇宙が存在すると説明するように、テアトロメダは私が認識する私に支配される平均的私を観測し、コントロールします。私への眼差しは無限に後退し続け、シミュレートされ続け、憑依され続ける。

 あなたは三十二人のクラスメイトの中から六年生を送る会実行委員に選ばれ、十二人の六年生を送る会実行委員の中から六年生を送る会実行委員長に任命されたことは、始めから普通の出来事のように思っていた。あなたは何度も委員長を繰り返していて、きっと六年生になっても何かの委員長になると確信している。ハカセはハカセ(呼ばわりされるよう)になるのは嫌だったと言って、テレビの音量を上げる。「天使になるもんっ!」の再放送が流れ、委員長として学校内部に配置されることは学校の教育として必然であったとふてくされる。テレビで無限に見た光景が繰り返されている。

「家族なんて所詮は他人の集まりと同じさ。皆自分のことばかりに夢中になっている」

「自分のことばかり……」

「愛情という仮面の裏には争いや憎しみが渦巻いている」

「渦巻いている……」

「完璧に見える家族ほど本当は不完全なのさ。ああ、崩壊していく家族はなんて美しいんだ」

「……」

 少女が言葉を反復し、ピグマリオンじみたSMが再演されます。「天使になるもんっ!」前半クールでの「お約束」は同一の構図を繰り返し、相手の言葉を反復してみせることで、あたかもバンクを擬態します。アニメのバンクはすべての画面が同一であるがゆえにアニメ内部での演劇性を際立たせます。演劇とは私の肉体をト書きと台詞に基づいて、再現可能なものとして教育するものですが、バンクは一寸の身体の狂いもなく再現がなされることで、それを見る私の狂いを発見させます。

 あなたはニコニコ動画で「美少女戦士セーラームーン」の変身バンク集を無限に見続けていたから、ドキリとした。「ラス・メニーナス」的な円環以外の環境を想定した時点で、変身バンクを永遠に見ることは不可能かもしれない。

 それを踏まえて私の外部でバンクに擬態した「天使になるもんっ!」が再放送されることは「メタバンク」として作用します。つまり、バンクが、テレビの前に一つの私の肉体がある事実を前提にして、私がずれる事態を露呈させるのに対し、「天使になるもんっ!」は私がずれ、それが統一され、統一されるがゆえにずれる連鎖のシステムとしてのアニメを、私の肉体が一つであるという前提を介さずに作品内部で人形/天使のイメージで提示しています。ト書きとして、肉体を経由せず、私を規定するものです。

 ト書きは演劇内部で発されることはありませんが、強力な法則として演者/観客を支配します。ト書きが、重力定数や「光あれ」の形で擬態していることをあなたは現・宇宙の内部で推測できますが、「天使になるもんっ!」を通じてテアトロメダの運動に行き当たったことを根拠として、「天使になるもんっ!」こそがこの宇宙のト書きであると考えられます。「天使になるもんっ!」が存在し得ないような宇宙は「天使になるもんっ!」を用いて観測され得ないので、宇宙は「天使になるもんっ!」が存在するような構造をしていなければならない。宇宙は私たちが「天使になるもんっ!」を生み出し、観測し、「天使になるもんっ!」によって再び生まれるよう教育を施しているのです。「天使になるもんっ!」の観測によって私の改竄が非私として実証されており、それこそが私の存在を成立させる環境が「天使になるもんっ!」によって生成されているのを示しています。素朴に歴史的な事実として、「天使になるもんっ!」の視聴によって、反復される私の可能性がすべて並列に統合される運動がおそらく始めにALEPH=テアトロメダと名付けられました。

 お決まりの、テレビを見るときはここを光で満たし、テレビと私の場所をコントロールしなさいという指示を思い出したが、ハカセはテレビに入り込み過ぎているな、と思った。頼りがいのない同級生もテレビばかり見ていて、あなたの話を聞いてくれない。

 あなたは宇宙/「天使になるもんっ!」/私を媒介する透明な媒体に自分を重ね合わせて、天使のようですね。六年生を送る会は小学校のシステム内部で発生した六年生を送りたい意志の現れで、六年生を送る会実行委員会はその意志を物理的に六年生―六年生ではない者との間で媒介し、伝達します。非小学生化を促す運動が小学校内部で構築されることは自然です。私が生成されるのに、非私としての環境=場所の想定が必要なように、小学校が自らを小学校という場所であるとみなすためには非小学校の場所の想定が必要になります。それが六年生を送りたい意志―ト書きとして小学校に満ちるのです。

 あなたはそのような六年生を送る会は、ルネ・マグリットが「イメージの裏切り」で、この絵は単にパイプのイメージを描いているだけで、絵自体はパイプではないということを言いたかったと伝えるのと同じだと思った。それを伝えたら、六年生を送る会実行委員としての役割は終わる。早く、すべて終わりにしたい。

 だけどあなたは、「美少女戦士セーラームーン」の変身バンクを永遠に見続けることをまだ確信していて、六年生を送る会実行委員長ではない私をテアトロメダを介さなければ、不可能に感じます。「美少女戦士セーラームーン」の変身バンクは永遠に私を縮小コピーし続ける機構です。バンクを見続ける私の中で、変身前の火野レイと変身後のセーラーマーズが乖離し、イメージに対する言語の決定的な後発性が露見し、変身バンクが一つの記号であり、シニフィアンとシニフィエ、歴史的意義、作画したアニメーターといった問題意識が些末な問題に過ぎず、無限のあなたの鑑賞行為の中で無限に変容を繰り返し、発散し、現に見ている肉体の下で統合されます。バンクシーンとそれ以外のアニメ、アニメとあなたとの距離、亀裂が生まれます。バンクを見ると同時に再修復され、無数の亀裂が入り、亀裂と亀裂の間に亀裂が入り、その隙間に天使が入り込むのです。無限に毎週「美少女戦士セーラームーン」のバンクが繰り返されていたと考えることで、あなたはバンクの内部へと無限に後退し劣化する眼差しを送り続け、動くことができなくなっているんですね。 

 パウル・クレーも同様の戦略をとっています。クレーは作品に引き込むのに読み解きをコントロールする文字や記号を使いますが、それは制作プロセスに遡行するための装置であり、その装置を用いた生成のプロセスの共有こそが主眼となるのです。クレーの「そこの上、そこの下」を思い出しましょう。赤い長方形に囲まれた黒い線があり、画面上方に逆さになったフェルマータ、画面下方に団子状の形態があります。逆さのフェルマータはメタ的な眼差し、創造者=クレーの眼差しです。団子状マークは無限大のマークみたいです。全体像は封筒のよう。クレーからそれ以外の場所へ、それ以外の場所からクレーへ往復し続ける手紙であり、私というテアトロメダでズタズタに引き裂かれた亀裂を媒介にします。天使ですね。ズタズタに引き裂かれているといっても、すでに再統合はなされています。隙間こそ天使なのであり、完全に開かれても閉ざされても天使はいませんから。こうしてテアトロメダは引き裂かれた死にゆく私を無限に提示しますが、それを観測できる私は決して死ぬことがないです。

 例えば、「東方紺珠伝」では一ステージが複数のチャプターで構築されており、「完全無欠モード」ではミスをするとそのチャプターは「紺珠の薬」による未来視だったとしてチャプターの始めに巻き戻り、全体としてノーミスプレイを強要されます。また、敵弾に掠る行為「グレイズ」=死への漸近によってボムが増えます。一定時間以上同じ弾と密着していると「かすりアイテム」が放出され、一つの弾で五(プラス一)回グレイズしたものとみなされ、死にゆく私の蓋然性の増殖を示します。最終的にゲームをクリアした場合、死=ミスはすべて未来視ですが、死への漸近は(事実上)必ず生じることになります。「東方紺珠伝」は可能であった私を被弾の下に束ねて一つの私=ノーミス通しプレイを作り上げます。グレイズ=死にゆく私が濃密でありながら死の臨界は越えないラインにあり続けることを強要されます。

 私は自機キャラクターに憑依し、すべての私を死の可能性を内包し続け絶対に死なない私に統合して、肉体を教育します。「東方紺珠伝」がテアトロメダだとすれば、自機こそ天使なのです。ノーミスプレイに擬態して、未来視の排除された、教育された、歴史だけが演劇なのです。天使の宿る「東方紺珠伝」はあなたにとっての中間領域であり、あなたの身近に宇宙の雛形をグレイズさせるユートピアであると言えるでしょう。つまり、宇宙の全てを手に入れたいという純化された不可能な欲望の宿る子宇宙です。テアトロメダの一神論性はその子宇宙の集合として私があり、私の現れとして子宇宙の集合が束ねられることを意味します。

 同様に、大江健三郎は自らの小説技法を、「私」自身を根本的に批判しうる書き方として書き手と語り手を同一視し、その結果語り手を死に至らしめることができない、いつまでも生きている「私」の限界に縛られつつ語るほかない方法で小説を書き、それが自らに訪れる死を支える思考そのものとなる、と要約しました。その制作過程を辿るあなたは、自らの記憶と小説の虚構が互いに私として憑依し合います。

「たぶん私は三人目だと思うから」

 綾波レイの言葉です。綾波レイはこの台詞を発する主体自身を指すものと同時に、自らを非私として想像しえます。大江健三郎の「水死」で演劇化された「こころ」の上映場面において、舞台上のウナイコ、「こころ」からの引用、演劇を見た記憶を思い出しながら手紙を書いているアサなどがすべて私に統合され、綾波レイと化し、綾波レイの自身に向けられた「あなた誰?」の眼差しが「天使になるもんっ!」の反復そのものとして結実します。

六年生 「あなた誰?」

実行委員長 「……」

 でも、そうなるのが目に見えていた。

 逆に、テアトロメダが可能かつ適用されていない宇宙について考えましょう。その宇宙であなたは「天使になるもんっ!」を経由することなく生まれ、教育され、六年生を送る会実行委員長になります。あなたは「美少女戦士セーラームーン」の変身バンクを見続け、動体認識をハックされ、有限枚数の静止画の集合が限りなく連続して脳内でイメージが結びつき、火野レイを見るあなたとセーラーマーズを見るあなたが一つのあなただと擬態するゆえに、逆説的に、「火野レイを見るあなた」と「セーラーマーズを見るあなた」の差違が見出されます。あなた内部で場所を占められたあなたは八百万のあなたと一対一の関係を持っています。アニメーションが一方通行の時間通念の上で不可逆的な連続を擬態するのと同様に、多神論的にあなたの下に生まれたあなたが時間の経過、つまり場所の移動/異同とともに一つのあなたへとなります。素朴な、時間経過に伴う心身と環境の変化です。

 テアトロメダを適用してしまえば、火野レイとセーラーマーズのイメージを同時に、あなたを分裂させ一対一関係を持たせる必要なく、ただのあなたと並立できます。そして、セーラーマーズがセーラームーンやセーラーマーキュリーやセーラージュピターやセーラーヴィーナスらと並び立つセーラー戦士であると知り、そのすべてとあなたは同時に関係することができます。その中ですべてのあなたはすべての非あなたから教育される立ち場にあります。すべての非あなたはすべてのあなたが非あなた化するように要求するのですが、もちろん不可能なことです。不可能ゆえに、すべてのあなたとすべての非あなたは互いに憑依可能であり、お互いが占める場所を憑依し合う、という意味での対話性を帯び、絶えず裂け目が生じ、天使になるのです。あなたは非あなたによって演じられ、教育される人形/天使に過ぎないと同時に、非あなたはあなたによって発生し、発散しながら統合された人形/天使に過ぎません。

綾波レイ 「私は人形じゃない」

 あなたはまさに、脚本もなければ練習もしていないけど、すべての意志が六年生を送る会に収斂していると知りそうだった。なら、これをそのまま脚本として、六年生を送ればいいかもしれないと思った。例えば、以下のような言葉が編集された。

実行委員③⑦ 「私、六年生を送るためにこの会を企画しました。皆で、『天使になるもんっ!』を見ます。楽しんで下さい」

実行委員②⑤ 「楽しんで下さい……」

実行委員①⑫ 「あなたは、六年生ではない自分を想像できますか。私、六年生になってないから、六年生の気持ちはわかりません」

実行委員②⑤ 「わかりません……」

実行委員④⑪ 「あ、そこにいるのは、どちら様?」

実行委員⑥⑨ 「そこにいるのは……」

実行委員⑧⑩ 「家族の中に、あなたを名乗る誰かが割り込んで、現れてしまったのです」

実行委員②⑤ 「あなたを名乗る誰か……」

六年生 「あなた誰?」

実行委員③⑦ 「家族なんて所詮は他人の集まりと同じさ。皆自分のことばかりに夢中になっている」

実行委員⑥⑨ 「自分のことばかり……」

実行委員①⑫ 「愛情という仮面の裏には争いや憎しみが渦巻いている」

実行委員②⑤ 「渦巻いている……」

実行委員⑧⑩「完璧に見える家族ほど本当は不完全なのさ。ああ、崩壊していく家族はなんて美しいんだ」

六年生 「……」

 このようなあなたの現れはやはり単一の意志の発露です。単一の意志に向けて肉体を教育するなら、ナノマシンを用いればいいですね、と多くの人は考えました。素朴な人間機械論が蘇り、心身や記憶や運動を数値化し、そのパラメーターを、私が知覚する環境=場所からの要請に応じて、操作するのが、エコロジーかつエコノミーで善いとされています。百メートルを九秒台で走りたいとして、テアトロメダが二秒で走る私や、バイクで走る私や、二百メートルを走る私や、寝ている私を提示し、それを我が事と認容するよりも、筋肉や神経を直接今・ここの望み通りに操作する方が評価されたのです。

 実際、忘れがたい、学校で学ぶ記憶はナノマシンが用意してくれたものだった。一部の教師の介入によって、作文や、合唱や、ドッヂボールや、六年生を送る会などでは、ナノマシンの操作を排された。だがそれも先生の意志を体現する肉体に近づいた者が評価されるだけで、所詮皆人形だった。ハカセも言いたいことがあるなら、ナノマシンを使えばいい。

 何の役に立つの? という現・私中心主義者の要請に対して、テアトロメダはナノマシンに勝らなかったと言えるでしょう。その結果、テアトロメダは単なる空論のこねくり回し、現物(鑑賞)の否定と捉えられ、テアトロメダはコンセプチュアルアート、あるいはその手段とされています。知覚的経験によって鑑賞者を刺激する方法論の放棄は、俗に、今・ここの私の価値体系を独りよがりに私内部で反復することだとみなされました。

 京都アニメーションは、テアトロメダの利用方法として、「涼宮ハルヒの憂鬱」のエンドレスエイトを一万五千五百三十二の宇宙で作り出したことがあります。厳密に言えば八回分のエンドレスエイトが一万五千五百三十二の宇宙ですべて異なる表現方法で作られました。しかし、惑星の配列で金魚すくいを表現したり、非光学的な交信を行う群体知能を持った甲殻類がエンドレスエイトを二週間に渡って語り継いだり、宇宙の内部にいながら宇宙の法則を無意識に操作可能な人類の女性が一万五千五百三十二回、同一時間平面を再演するなどの、一万五千五百三十二の宇宙で作られたエンドレスエイトは、なるほど、コンセプチュアルアートとして理解は可能かもしれません。しかし、テアトロメダは、コンセプトではなく、結果的に知覚的経験が無化されるだけで、知覚経験のシステムではあるのです。

 オリジナルとして放送されたエンドレスエイトは、素朴な自己言及=レディメイド性の提示に留まり、芸術的啓蒙を図りながら単なる娯楽であることから脱却できず、コンセプチュアルアートとして半端であるとして、あまり好意的に評価されませんでした。逆に、テアトロメダを用いた一万五千五百三十二(×八)回のエンドレスエイトは、それを導入する私が複数に発散されているのに、私が現に一万五千五百三十二(×八)回体験するという事実を根拠として、私が一つに仮構してしまう事態を露呈させることをテアトロメダを用いて提示する「メタテアトロメダ」というコンセプトが成立します。ゆえに、テアトロメダの運用としては退屈なものと言わざるを得ません。伝えたり、考えたり、表明したりする方法はテアトロメダを必然とせず可能だからです。では逆に、あなたが六年生を送るためにテアトロメダを経由したこの事態は、メッセージ化し得ないト書きに支配されていると考えるのが自然です。

 なら面白いテアトロメダで面白い六年生を送る会を実現させてほしい、とあなたは思い、あなたはあなたが書かなそうな言葉を考えてみた。

フォウ・ムラサメ 「所詮人形じゃないか」

 誰かの見知った言葉があなたの中で反芻され続け、私の意志が摩耗していると思いたかったが、考えつくことは、ただの六年生を送る会実行委員長が考えそうなことのままだった。

 メタテアトロメダを退け、ベタテアトロメダで私を処理する私であるあなたは、「私を処理する私」を制作プロセスの素材として、私というものがある事態から不可避であることに気がつくでしょう。メタテアトロメダは、フィクショナルで一神論的かつ通時間的な私の現れの情報として過剰であり、ゆえにその情報「テアトロメダによる一神論的かつ通時間的な私の現れ」として固定された、有限のメッセージとして伝わるのでテアトロメダと比較して過小です。

 もしも、私のことを、テアトロメダを理解するための教育装置だと思ったなら、そうでしょうが過小です。もしも、あなたのことを、テアトロメダを理解するための教育装置だと思ったなら、そうでしょうが過小です。もしも、テアトロメダのことを、テアトロメダを理解するための教育装置だと思ったなら、そうでしょうが過小です。

 だからけっきょくテアトロメダは如何なる私にとってどうでもよかったのかもしれません。テアトロメダは常に凡庸で平均的で、あなたが限られた情報を処理できない私でしかないことを露呈するくだらないコンセプト以外にできませんでしたね。


"くりかえすこと


くりかえしくりかえすこと"


 六年生を送るにはこれで十分でしょう。あなたは六年生を送る会実行委員長以外の何者でもなく、テアトロメダを可能としても、収斂の結果が今・ここでしたね。

 私はセーラーネプチューンの変身バンクを見ることにします。バンクの内部へと無限に後退し劣化する眼差しがテアトロメダを排してくれて、私が微分され、私が私について持ち得る情報量が限りなくゼロに近づけて嬉しい。

 あなたはこれまでの言葉を六年生を送る会の脚本として再び書き連ねるだろう。書き続けている限り、「書き続ける意志と運動」が今・ここにあり続け、六年生を送る会には到達できない。使い古された、ゼノンのパラドクスだ。ハカセは肝心なことは何も教えてくれず、ただテレビを見ることに終始している。あなたは「天使になるもんっ!」の視聴に途中で飽きているから、これから、テアトロメダ――正式にはALEPH――のシステムが告げられることにうんざりしそうだった。

 しかし、あなたはハカセの言葉を導入しなければならない。六年生を送る会実行委員長に選ばれてしまって、他のあなたは頼れなかった。ハカセの言葉があなたの内側でシミュレートされ、ハカセの思考が憑依し、互いに対話性を帯びていて、都合がよかった。

 ハカセの言葉で、あなたは以上のことを知っています。


"夢の中であなたの名前を呼んだ"

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