羽化

縦縞ヨリ

羽化

 少し長く眠りすぎたようだった。

 意識を取り戻すと、まだ殻の中いて、ほっとする。どうやら死ななかったらしい。

 日差しの温もり。命の光だ。

 わたしは殻を破る決意をする。

 身体は眠る前とは随分違っていて、殻を破るだけの硬さがあり、頼りなかった前の脚はしっかりと力が込められる様だ。

 外は恐ろしい。でも、目覚めたなら、直ぐに必ず出なければならない。

 

 わたしが眠ろうと決めた時、夜の空気は既に冷たくなり始めていた。

 兄妹達はわたしのように長く眠るのを選んだだろうが。

 それとも夏の盛りにうんと栄養を蓄えて、直ぐに眠りにつき、そしてしばらくして小さな殻の中で目覚め、殻を破り、青空に飛び立ち、そして照りつける日差しの元で子を残すべく余生を注いだのだろうか。


 実の所、そんな幸福な生涯を過ごしたのはほんのひと握りだろう。

 実際、羽ばたく獣達は容赦なくわたしたちを遅い、地を這う虫達は容赦なく隙をついて、わたし達のことなどあっという間に平らげてしまう。 

 わたしは、たまたまそれを横目に見ながら、夏の終わりまで何とか生き延びたものだ。


 わたし達は大抵、寒くなると身体が動かなくなって、ものを食べられなくなって、そのまま死ぬ。

 それでも春を迎えるものがひと握り居る。それは死の季節を殻の中で乗り越え、温かい季節を迎えて殻を破る変わり者が居るためだ。

 実際これは結構危なくて、寒すぎて殻の中で死んでしまう事も結構ある。と、うっすら知っている。

 たぶんわたしの母のそのまた母の、もっと遡ったどこかの母が、寒い冬を眠って耐えたのを身体が覚えているんだろう。

 

 わたしはどうやら、運が良かったらしい。

 どうして夏のうちに全てを終わらせなかったのかと問われれば、もう少しだけ、小さな世界を見ていたかったからだ。寒い寒い季節の先に、どんな世界があるのだろう。

 それだけで、死の季節を越える事にした。


 思い切り力を込めると、背中のあたりの殻がピリピリと破れるのが分かる。

 早く、早く、急げ、そうしないとまともな羽を得られない。

 何とか殻から這い出る。便利な柔らかい脚は無くなり、代わりに小さかった前の足が力強く殻を掴んでいた。

 どうやら間に合ったらしい。

 背中から、何か大切なものが流れていくのがわかる。

 羽を広げるための水だ。

 わたしは極力じっとして、祈るように羽が広がり、乾くのを待った。今怪我をしたら羽の水が抜けてしまい、そうしたらもう二度と、羽が伸び切ることは無いのだ。


 どれくらい待っただろうか。

 ふと、少し先に獣が居るのが見えた。三角の耳に長い尾の、大きな獣だ。それがじっとこちらを見据えながら、尾を振り、後ろの脚に力を蓄えるのが見える。

 わたしを食べる気だ。

 羽は大丈夫だろうか。少し動かしてみる。

 それは思ったより重く、しかし、獣は地面を蹴る。

 動け!

 そう思うと同時に、空気を蹴ったら宙に浮いた。

 獣の爪が、私の殻を押し潰すように飛んできて、その風圧でバランスを崩す。しかし一度空気を掴んだ羽は、私の身体を地面に落とすことは無い。

 獣も再度振り被る。

 不安定な羽根をバタつかせる。

 高く、もっと高く。

 捕まるな。

 振り切れ。

 逃げろ!

 そうじゃなければ、この春に生まれた意味なんて無い。

 やっと大きな木にしがみつくと、獣は観念したのか、にゃあと一声捨て台詞を言って、何処かに行ってしまった。

 ほっとしてふと辺りを見回す。高い木には小さな花が沢山ついていて、喉の乾きに任せて、細長い口で密を吸う。 初めて吸う密は、甘くて、爽やかな花の香りがした。

 小さな白い花は見渡せば無限にあるんじゃないかというくらい沢山あって、私はどうやらそれを独り占めできるみたいだ。

 私の命が尽きるまで、あと半分、月が欠けるくらい。

 その中で恋をできるだろうか、できたら、子供を沢山作ろう。

 見渡す限り、私と同じ生き物は居ない。少しだけ不安になる。風はまだ少し冷たかった。

 

 でもきっと大丈夫だ。

 だって、あの熱い夏に生まれ、命も凍る寒い季節を乗り越え、寝すぎてしまうくらい長く眠って、春に目覚め、獣の爪を避け生き延びた、わたしなのだから。


 終

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