第4話
1983年の年末。
翌年の四月から一年間務めるつもりで、怜於の家庭教師を引き受けた。
当時私は無職だった。その年の八月、大学を出てから、およそ十五年勤めた役所を退職した。その後どこにも勤めず、はじめての作品を書いていた。作家になれるとも思っていなかったし、なりたいとも思っていなかった。けれど、これは書き上げたい。そう思っていた。書き上げたら、次の仕事を探す。再来年の三月までには書き上げて、次の仕事を見つける。そのつもりだった。だから一年の約束で引き受けた。だが しかし。
はじめての作品を書きげたのは、1984年の十一月。
書き始めてから、一年以上が過ぎていた。
書きあがったと思えた翌日。龍明に原稿を見せた。まず彼の感想が、聞きたかったから。
「美しい作品だ。何度でも読みたくなる」
龍明はそう言ってくれた。そして言った。
「これ、とりあえずオチをつけたってところだろ。続きを早く読みたい」
痛いところをつかれて、私の口元が笑った。
私の顔を覗きこんで、龍明は言った。
「これ。木村に見せてもいいか」
木村くんは、龍明が学生時代から親しくしている、本の編集者だった。この頃は、大手出版社に勤めていた。龍明の友人のなかでは、久世くんに次いで、頭が良くて面白い人間で、良く破綻している。私は少し不安になった。
「彼とは趣味も合うが。これを読んで、なんというかな」
龍明は笑った。
「出版するから。続きを早く書けというさ」
一週間後木村くんから電話がかかってきた。その通りのことを言われた。しかし私は、書き続けることを躊躇した。どうしようかと考え、龍明を呼び出した。
困ったときはいつもそうした。龍明と話していると、よく目の前が開けてきたから。開けてこない場合でも、心持は落ち着きを取り戻した。
龍明は散策がてら話をするのが好きな男なので、二人きりで話したいときは、たいていどこかを歩きながら、話をしたものだ。
この日は船から近い大仏に、龍明を呼び出した。私は車で出向き、大仏近くの駐車場に、車を預けた。二人で一時間と少し、歩いただろうか。大仏を見て、由比ガ浜へ出て、海岸を歩いた。
「書き出したら、働きたくなくなる。しかしそろそろ、定職を探さないとならない」
自分が何を着ていたのかは覚えていないが。龍明が、着古したトレンチコートを着て、ツィードのパンツを履いていたのは覚えている。龍明はトレンチコートが好きだったし、良く似合った。
「あれは次の号にねじこむと言っていた。原稿料がいくらか入るだろ。もう少し、家庭教師代も値上げする」
「これは結構長くなる。いつ書きあがるかが見えない。節約すれば、パートタイムの仕事でしのいで、書き続けることは可能だ。だが、僕はもう四十近い。だんだん条件の良い定職を得るのは、難しくなってくる。それに来年の春、彼女から、返事を貰うことになってる」
彼の外見は、我々よりも古い時代の男のようだった。背丈と体格は、無骨な服が似合う欧米の男で、顔立ちは、重く立派な、明治の日本男児だった。全体の雰囲気が優雅なのは、顔つきと態度に優しさと余裕があり、姿勢と身のこなしが美しかったためだろう。
「あの人はあんたと結婚する」
「そうだな。良い返事が、貰えそうな気はしてきた。しかし。そうなるとだ。定職について、まともな稼ぎがある状態で、彼女のご両親に、挨拶をしたい」
龍明は、私の身近にいる男のなかで、最も風采の良い男だった。顔立ちも体つきも、知毅のほうが美しかったけれど。年々その姿は立派になって、四十になる頃には、知毅より見栄えのする男となった。私はそんな彼を、気が付くと眺めて、こっそり喜んでいた。
「あれはきっと、素晴らしい作品になる。経済的に成功するかどうかは、天の采配だ。そこについては何とも言えないが。書かなければ、あんたは後悔するぞ」
「定職について、結婚してから、少しずつ書こうかと」
「今、書きたいんだろ。できるだけ集中して。部屋に一人籠って」
「書きたいが。良い返事をもらって。彼女に待ってもらうというのは・・・。いつまで待ってもらうことになるかも、わからない」
「彼女から良い返事をもらったら、結婚すればいい。知っているとは思うが。彼女は優れた読書家だ。あれを読めば、あんたの良き味方になるはずだ。彼女のご両親は、今のあんたに良い顔をしないかもしれないが。あの人が結婚について、ご両親の意見に左右されるとも思えない」
「彼女に、不自由な生活をさせたくない」
龍明は微笑み、迷う私に、当然のことを言った。
「俺に相談するより。あんたの今の状況と気持ちを、彼女に話してみるべきだな」
彼女と結婚したいが。あれも書き上げたい。龍明の仲介で、出版してくれそうな会社と繋がった。
そうするしかないか。目の前に現れた由比ガ浜を見て、私は息を吐いた。
「二人で暮らすには、逗子マリーナのあの部屋は狭い。結婚したら、適当な家が見つかるまで、うちに住まないか」
「船に?」
「一緒に暮らせば、二人とも俺と怜於に、今までより纏わりつかれる。それが下宿代だな」
「この話をしたら、結婚を断られるかもしれない」
「それはない」
私のはじめての作品を読んだ信乃は、「早く続きを読ませてください」と言ってくれた。
私は彼女に、当時の状況と、彼女によせる気持ちを語った。私の話を聞き終えると、信乃は言った。
「結婚しませんか」
私は驚いて尋ねた。
「僕と結婚してくれるの?」
「蓮實さんが、今も私との結婚を望んでくださっているなら。喜んで」
「いつ?」
「いつでも」
「今すぐでもいいの?」
「今から市役所に行きますか?」
「結婚式は?」
「蓮實さんは、御式を挙げたいですか?」
「なくてもいいの?」
「ええ。でも。私のために就職とか、考えないでくださいね」
「本音を言えば、これを書き上げるまでは。時間をとられる仕事に、就きたくない。でも、いつ書きあがるかわからない」
「慎ましい生活にはなりますけど。私の収入で、食べてはいけると思う」
「君の収入で?」
「ええ。でも、前にも言いましたけど。私、家事は得意じゃないですよ」
「そういう生活になったら。家のことは、僕がするけど」
「バイトもして、書きながら?」
「手伝っては貰う。でもほんとに嫌じゃないの。そういう生活?」
「嫌になったら、そう言います。その時は、専業主婦になりたいというかもしれないけど。今は。好きな職場にいて、楽しく働いてますから」
私たちは、私の住処の、リビングのソファで、向かい合っていた。私は立ち上がり、窓辺に寄った。黄昏に光る海を見下ろして言った。
「僕の現状だと、君のご両親に、反対されるかもしれない」
彼女の目元が笑った。
「私、親の承諾がなくとも結婚できる年齢になってから、ずいぶん経つわ」
励まされた私は、恐る恐る彼女に訊ねた。
「書きあがるまで、待ってほしい。かなり長くなるかもしれないけど。僕がそう言ったら、君は何と答える?」
信乃はソファから立ち上がり、私に歩み寄ってきた。私を見上げて、小鳥のように首を傾げた。
「婚約指輪を下さる?」
私は寝室に行き、彼女に渡すものを手にして戻った。彼女の前に跪いて、その左手の指に、真珠の指輪をはめた。
「母からもらったものだ。受け取ってくれないか」
私が立ち上がると、信乃は私に抱きついてきた。
この日彼女は、白い襟のついた、紺色のワンピースを着ていた。暖かで滑らかな、ベロアのワンピースの感触が、私を幸福にした。
162㎝の信乃は、私の恋人たちのなかで、最も小さな人だった。腕のなかにおさめると、大層可憐に感じた。その感触が、私を幸福で満たした。
1984年。十一月二十四日。
私たちは婚約した。
腕のなかの信乃に、私はそっと訊ねた。
「二人で住むには、ここは狭いから。結婚したら、船にしばらく下宿しないか。この前、龍明がそんなことを言った」
信乃は顔を上げずに、小さな声で呟いた。
「私、あの家、大好き」
私は言った。
「美しい家だ。僕は昔、実家が嫌で、あそこに転がり込んでたことがある。君は怜於と仲が良いし。結婚したら、僕らの家を整えるまで、あそこに居座るのもいいかもしれない」
龍明のその提案を聞いたとき、私は思った。 二人と信乃の仲を、かつてのように、信乃が知毅の許婚だった頃のように、近づけたいと。二人の傍にいるという幸福を、信乃に与えたいと。
信乃は私を見上げて、澄んだ瞳で言った。
「あなたが好きです。今は誰より信頼していると、最近気づきました。その時、あなたと一緒に生きていきたいと。そう思った。でも私、今でもあの二人と一緒にいるだけで、嬉しい。目が合って、笑ってもらえると、それだけで、幸せな気分になるの」
短い髪のなかで、上気している信乃の小さな耳に、私はそっと指で触れた。
「僕もだ」
信乃は微笑んだ。
「あなたは時々、あの二人の恋人のように見える」
私も笑った。
「付き合ったことはないよ。でもどっちも、永遠の恋人だと思ってる」
信乃は言った。
「私、あの子の恋を応援しています。もう宗形さんに、自分から近づきたいとは思わない。知毅さんの目が気になって、近づけない。でもあなたは、ほんとに、私で良いんですか?」
抱き寄せる腕に力を込めて、信乃の唇を唇で塞いだ。
信乃は、私の腕のなかで力を抜いた。私に身を任せる、暖かく可憐な人形となった。
戦慄く信乃を開き、導くことに、私は暫し熱中した。
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