第3話
「お母さんは、今年幾つになるんでしたっけ」
「君たちは、今年二十歳になる。君たちが生まれた年の四月一日、怜於は二十一歳になった」
1988年の五月、裁判所は、怜於の性別の変更を認めた。この年怜於は二十歳となった。六月には
「去年のクリスマス。お母さんから、カードじゃなくて、メールがきたんです」
私は阿門の一手に、眉を顰めた。
七歳の阿門に、囲碁の手ほどきをしたのは私だが、阿門が十六歳になった頃には、対局十回のうち、七回は負けていた。
碁盤を睨んで、私は言った。
「そのメールに、何が書いてあった?」
阿門は言った。
「遺伝子上の、おまえたちの父親は誰か。おまえたちは、気にしないようにして、ずっと気にしてた。子供に教えることじゃないから、ずっと黙ってたけど。いつかはこの話をするべきだ。ずっとそう思っていたと」
私は碁盤から顔を上げ、阿門の顔を見た。
似ている。そう思った。写真で見た、龍明の祖父の若い頃に、とても似ていると。
龍明は彼の祖父に、よく似ている。つまり阿門は、龍明にも似ているのだが、その顔立ちは、龍明より彼の祖父に近い。背格好、体の形は、龍明に、とても似ている。
阿門は微笑み、淡々と言った。
「1987年。八月八日。お母さんは十九歳。フェリーで愛車とともに、北海道に渡った。道東を車で巡る旅をした。同行したの慎兄さんとナオミさん。道東で十日目の朝。阿寒湖近くのホテルで、お母さんの姿が見えないことに、ナオミさんが気づいた」
知らせを受けた龍明は、戸籍上の養父である莞爾さんとともに、現地に向かった。知毅とチカちゃんも、二人の後をすぐに追った。
龍明、知毅、チカちゃんの三人は、現地の警察に任せておけず。怜於を必死で探し回ったが、彼らもまた、怜於は見つけることはできなかった。
怜於が発見されるのは、翌年の三月。摩周湖近くの雪原に倒れていたのを、付近の人が見つけてくれた。
「僕らの誕生日から逆算すると、お母さんが僕らを身ごもった時期は、発見されたあとか、その前か。とても微妙だ。だから色々噂する人間がいる。そう書いてあった」
「君らは誰から、そんな噂を聞いたんだろう?」
「何人かいますよ。こそこそ話していた人。僕らの父親は、誰なんだろうってね。はじめて聞いたのは、十歳の時でした。その時、燈がお母さんに聞いた。お父さんは、ほんとのお父さんじゃないのって」
「怜於の答えは?」
「世の中には、おかしなことを言う、馬鹿な奴らがいる。そういう話を信じちゃいけない。お父さんにも俺にも、結構敵がいるんだ。にっこり笑って、そう言った」
「ふむ」
「質問したのは、その時一回。なんで今、この話をする気になったのかな」
「どうしてだろうな」
「お母さんが意識を取り戻したのは四月。目を開けると、ベッドでお父さんの腕の中にいて、とても驚いたそうです」
当時怜於は、龍明にしがみついて離れなかった。龍明は毎日怜於を抱きしめて、眠っていた。
「十七歳の三月から、この時までのことは、あらかた覚えていない。ところどころ思い出したが、ほんの一部で。旅行に出かけたことも。行方不明だったとき、どこにいたのかも。北海道で何があったのかも。いまだに思い出せない。そう書いてあった」
さて真実か。怜於は、必要とあれば、平然と嘘を吐く。
「お母さんが意識を取り戻した時。お父さんは、お母さんが妊娠していることを、すぐに伝えたそうです。そして俺の子供だと言った。俺と結婚して。子供を産んで欲しいと求婚した。お母さんは再び大変驚いたが、求婚を承諾した。お父さんと結婚したかったから。メールには、そう書いてあった」
「十四歳の頃から。怜於は龍明が好きだった」
「お母さんは発見された時。病院に運ばれる途中で目を開けたが。まともな様子じゃなかったみたいですね。そう聞いていると、メールには書いてあった」
龍明が到着するまで、誰も傍に近寄れなかった。近寄ろうとすると、大暴れするので、医者も警察官も、困っていたとという。
私は怜於が見つかったことを、知毅からの電話で知った。
俺とチカが近づくと、龍の影に隠れる。龍にしがみついて離れないが。龍が話しかけても、答えない。
知毅は些か重い声で、そう語った。
言葉が理解できていない。そんなふうに見える。世話を焼くのが一苦労で、まるで狼少女だ。龍のことも、ちゃんと宗形龍明だと認識しているのかどうか。
「俺たちがお父さんの子供だとすれば、お母さんが意識を取り戻す前、まともじゃなかった時期に、二人は関係をもったということになるが。その頃のことも、まるで思い出せない。お母さんはそう言っている」
「何も?」
「お父さんって。そんな状態の人に、手を出す人かな」
「ふむ」
私もそう思った。しかし。
ほんとうに?何度そう訊ねても、俺の子供だと、龍明は主張した。
「そこのところ。お母さんも、いまだに疑問を感じているみたいです」
結婚式の前日、怜於は私に言った。
(産んで欲しいって頼まれてさ。断ったら、結婚もなかったことになりそうで。うんと承諾したけど。でも。これ、ほんとに龍の子供なのかな)
「お母さんは、子供の頃からお父さんが好きだった。でもずっと相手にされなかった。二度はっきり振られた。あなたは俺の恋人になるには若すぎる。そう言われたそうです」
そう。そして。
語らなかっただけか。それとも覚えていないのか。
怜於が十六歳の六月、龍明はチカちゃんと離婚。それから一年と十か月ほど、複数のガールフレンドとの交際を楽しみながら、決まった相手を作らなかったのだが。 怜於が十七歳の二月。ある女性と付き合い始めた。怜於は焦り、龍明に迫った。そして、龍明に言われた。
俺はあなたを愛している。でもあなたを恋人にする気はない。この気持ちは、変わることがないと思う。
この三度目の拒否で、怜於の龍明への求愛は止まった。
ホルモン療法も中止してしまった。目つきが荒々しすぎて、いささか乱暴で活発すぎたが、十七歳の怜於は、『美少女』に見え始めていた。その姿は、ゆっくり悪ガキへと戻っていった。
北海道に出かけた頃は、性別を女に変更する気を、完全に失ったように見えた。男子生徒として、大学生活を楽しんでいる。そう見えた。
ホルモン療法の結果か。男としては、線が細い体形だったが、身長は180㎝まで伸びた。鍛えていたせいか。顔つきが烈しいためか。軟弱には見えなかった。喉はなめらかだったが、そういう男もいる。髭と体毛が極度に薄い男だって。小麦色の肌が綺麗で、瞳は生気に輝き。笑い顔には愛嬌があって。頭の中身がスマート。女の扱いは龍明譲り。いつも女の子たちに囲まれていた。
「二度もお断りした相手と、どうしていきなり結婚する気になったんだろう。お母さんはそのへんも、いまだに不思議に思ってるようだ」
「怜於は龍明の、二回り年下だ。それに龍明は、怜於の保護者の一人だった。怜於の求愛に応えようとしなかったのは。人としては、まともな態度だ。しかし怜於の行方が分からなくなって。かけがえのない相手だと、一生傍に置きたい相手だと、気づいたのかもしれない。当時龍明には、付き合っていた女性がいた。怜於が見つかった直後に、別れた。それはそういうことかもしれない」
「・・・・・」
「発見されてからひと月程度。怜於は放っておくと、食べることも、着替えることもしなかった。龍明にしがみついて離れず。他の人間に、体を触らせなかったから。龍明がすべての世話をした。怜於が離れないから、毎晩一緒に眠っていた」
「春琴抄ですね」
「この子がこのままだったら、一生世話をするんだろうなと。僕は暗澹たる気持ちで、そう思ったが。今思い出すと、本人は幸福そうだったな」
「幸福そう?」
「龍明には、誰かを溺愛したい、強い欲求がある。チカちゃんに昔そう言われた」
「男にしては、まめな人でしたよね。僕らのことも、良く世話してくれた。ぼんやり覚えています」
「大切に思う相手に、毎日べったりしがみつかれていた。その中身は赤ん坊に逆戻りしていたが、外見は成熟している。うっかりその気になっても、おかしくはない」
並の男なら、その気にならないほうがおかしいような、そんな有様だった。私には龍明が、並の男とは思えないのだが。あの時期の様子を思い出すと、ひょっとしてと、思わなくもない。
「お父さんは、お母さんの妊娠を、いつ知ったんだろう」
「いつかな。意識を取り戻すまで、龍明以外近づけず。病院で診察できるような状態じゃなかったが。彼は一応医学部を卒業して、医師免許を持っていた。毎日怜於の世話をしていたし。勘の鋭い男だ。結構早くに気づいたいたかもしれない」
「蓮實先生は、僕らの父親は、お父さんだと思ってるんですか」
「君は龍明に似ている。顔立ちは、彼のおじいさんにそっくりだ」
「お父さんの子供じゃないとすると、そこは、たしかに不思議ですね。お母さんもそう思ってるみたいだ」
「もし彼が父親じゃないとすると。怜於に子供を産ませたがったのも、おかしな話だ」
「俺たちの父親はお父さんか。そう思えなくて、堕胎を何度も考えた。しかしもしお父さんの子供なら。そう考えると、どうすればよいかわからなくなった。お母さんはそう言ってる」
(産んだほうがいい。俺の直感がそう言う。でもこれ、ほんとに、産んでもいいのかな)
何度かそんな相談を受けた。その度に、私も考えこんだ。
「僕らが三歳になった頃には、お父さんは忙しくなって。あまりかまってもらえなくなった。手紙とプレゼントをたくさんもらったけど」
「ずっとのらくらと、趣味人の人生を送っていたのに。四十を超えてから。あくせく働き始めた。おかしな男だ」
「あんな場所に、砂漠に水道を通した。凄いと思うけど。生涯金儲けには、縁のない人でしたね」
「お貴族様だった」
「僕らが十歳のとき、どこかに消えてしまった」
「・・・・・」
「大好きだったこと以外。僕らはもう、お父さんのことを、よく覚えていない。お父さんは、どんな人だったんですか。ほんとうのところ、僕らのことを、どう思ってたのかな」
私の置いた黒い石ににやりとして、阿門はすぐさま、白い石を置いた。
私は両手を上げた。
「また僕の負けだ」
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