第2話
2008年 12月13日。午前5時55分。
四十五分前に目覚めて、これを書いている(正確に言えば、PCのキーボードを叩いている)。
このところ、良く夢をみるんだ。見たことがある風景。懐かしい顔。懐かしい声。懐かしい会話。忘れていたことも。
夢はいつも生々しくてさ。目覚めた時は頭が混乱している。どちらが夢で、どちらが現実か。胡蝶の夢を見た男の感覚を味わうわけだ。
四十五分前に目覚めた俺も、混乱していた。今そのことについて考えても、少しばかり胸の鼓動が速くなる。
昨夜から今朝目覚めるまで。俺は十六歳だった。『船』にいた。あの二人が、目の前にいた。大昔に思える過去、十六歳だった年の、七月某日。その数時間のなかに、俺はいた。
あの日俺は、嫌な夢を見て目覚めた。今でも嫌なことがあると、あの夢を見る。子供の頃は、よくこの夢に
目覚めた俺は、すぐさまベッドを飛び出して、パジャマ姿で、龍の部屋へとひた走った。空はすでに白み始めていたようだが。窓は鎧戸で覆われているから、廊下は薄暗い。
樫の扉を押して入り込んだ龍の部屋は、カーテンと鎧戸のために、さらに暗かった。俺は何も見ず、ダブルベッドを二つ並べた、龍の大きなベッドへと、突撃した。大急ぎで、夏用の羽布団の中に潜り込んだ。
布団のなかは暖かく、良い匂いがした。あの、龍の匂いだ。その匂いと体温にしがみついて、俺は龍のパジャマに頭をこすりつけた。龍の大きな手が、俺を宥めるように、そっと背中を叩いてくれた。暖かく力強い声が聴こえた。
「どうした?」
俺は訴えた。
「誰もいない。疲れていて、腹がへって。怖くて。でも、誰もいないんだ」
「夢だ」
「こっちが現実?」
「現実だ」
俺は安心して、体から力を抜いた。そしてぎょっとした。ベッドが軋んだから。自分が滑り込んだ反対側に、龍の向こうに誰かがいることに、やっと気づいたんだ。
「おまえ。あの夢。まだみるのか」
慌てて布団から顔を出した俺に、そいつはそう言った。俺を見下ろす顔に目を凝らせば、暗い部屋のなかでも、輪郭が見えてくる。眼光炯炯。切れの長い目。顔の下半分を隠す髭。通った鼻筋。
その顔を、
「なぁ。おかしくないか?」
「何がだろう?」と、龍は言った。
俺は体を起こして、ベッドの上で胡坐を組んだ。俺と知毅の間で横になったままの龍に訊ねた。
「あんたたちはカップルじゃないんだよな」
龍は目元で笑った。
「と、思うが」
知毅は自分の顎鬚を引っ張って言った。
「俺もこいつもホモじゃない」
俺は知毅に言った。
「カップルでもない、三十代半ばを超えた、大の男二人が。一緒に寝てるのって。おかしいだろ?だいたいあんた、何時に来たんだよ」
知毅はベッドから立ち上がった。紺色のパジャマを着ていた。船にはいつでも、知毅のものがいくらかはあった。一週間くらいは生活できる最低限の着替えや日常品が。
「十一時を過ぎてたかな。おまえはもうぐっすり眠ってた」
「オレの部屋。のぞいたな!」
「おまえが食いたがってたケーキを買ってきた。あとで、律さんに出してもらえ」
知毅の手が、勢い良くカーテンを開け、窓を開け、鎧戸を開けた。部屋のなかに夏の光が差し込んでくる。空はすっかり朝だった。
窓辺にあった椅子に、知毅は腰を下ろした。龍が知毅に、優しい声で言った。
「疲れてるようだな。一杯飲んだら、眠い、だめだって、横になった。顔を覗きこんだら、もう熟睡してた」
俺は知毅を見て、唸り声をあげた。
「オレの部屋をもう勝手にのぞくな!」
龍の胸倉を、白麻のパジャマを掴んだ。
「一緒に寝てるのもおかしいけど。あんたとこいつが、相変わらず仲が良いのもおかしい。こいつは、あんたと
俺は九歳の年、船で龍と暮らし始めた。龍はもう一凛と結婚していた。知毅はいつから一凛に惚れてたのかな。あんたはそのへん、どう見てるんだ。
俺は中学に上がった頃気づいた。俺が気づいたとき、知毅はまだ、自分の気持ちを自覚してなかった。一凛のほうは、知毅の心に首を傾げはじめていた。ただしまだ、まさかねという段階だったと思う。龍はたぶん、知毅の気持ちをわかっていた。今思い出してみると、そんな気がする。
俺は龍が好きで、知毅が好きで、一凛が好きだった。知毅と龍と一凛に守られている、当時の自分の生活に、すっかり満足していた。だから、あの三角関係には参った。
誰の味方をすればよいかを検討すると、頭が混乱したし。知毅と一凛の恋の進展は、俺の生活を危うくするように思えた。
誰にも何も言わなかった。三人の様子を、そっと伺っていた。
で、ある日気づいた。一凛への気持ちが、日毎複雑になっていくことに。そして、わかっちまった。大好きな知毅と龍。俺の師匠で恩人。俺の守護神。二人に思われる一凛。俺は一凛の立場に立ちたいんだってさ。
龍「怜於。知毅はあなたの師匠だ。『こいつ』は止めなさい」
俺「もう師匠じゃない」
龍「あなたは知毅から、色々なことを教えてもらっただろ」
俺「四か月前。俺に結婚するつもりがあるなら。俺と付き合う。こいつはそう言ったんだ。そうだよな」
知毅「おまえは俺と結婚すると言った。それで俺は、おまえと結婚を約束した」
俺「なのに。三ヶ月も経たないうちに。他の女に惚れてるって告白してきた」
知毅「酷い話だ」
俺「そんな男、もう信用できない。尊敬できない。つまりもう、師匠とは思えない」
知毅「思わなくていい」
龍「知毅はずっと、彼女が好きだった。諦めるつもりだったんだ。婚約したときには、本気であなたに応えるつもりだった。つまり、俺が悪いんだ」
知毅「おまえのどこが悪い」
龍「俺はあんたの気持ちも。彼女の気持ちも知っていた」
知毅「おまえは昔からあいつが好きだった。だが、あいつが俺に惚れてると思ってたから。あいつが振り向くまで、あいつの友達でいた。俺は昔あいつに告白されて、振っちまった。だからあいつはおまえに近づいて、おまえの求婚を受け入れた。おまえにも惚れてたからな。おまえのどこが悪い」
怜於「あんた、一凛を一度振ったんだ。じゃあ、いつ彼女に惚れたんだ?龍と一凛が仲良くやってるのを見て。逃した魚がデカく見えてきたわけ?」
龍「怜於。俺が悪かった。知毅があなたと婚約する前に、俺が彼女に、離婚を申し出るべきだった」
俺「一凛に惚れてる。諦めるつもりでいたが。龍と一凛は離婚する。だからもう諦めきれない。婚約して三ヶ月も経たないうちに、あんたから、そんな告白をされるとは思わなかった」
知毅は椅子から立ち上がると、龍に言った。
「昨日は悪かった。二階で、もう少し寝たい。起きたら風呂に入って、話を聞く」
俺は声を上げた。
「あんたが、龍と一凛の結婚を壊したんだ。一凛はここから出ていきたくないのに、出ていった。なのにあんたは」
龍の腕が俺を引き寄せて、その右手が俺の口をふさいだ。
知毅が俺に近づいてきて、その右手が俺の髪の毛をかき回した。
つい最近まで、この手が大好きだったのに。俺はそう思って。知毅が憎らしくなった。乱暴に知毅の手を振り払った。
俺の腕を、優しく強く捕まえて、何気ない調子で、龍は知毅に尋ねた。
「朝食はどうする」
「昼近くまで起きないかもしれないが。放っておいてくれ」
知毅は穏やかにそう答えて、龍の部屋を出ていった。いや、俺の前から去ったというべきかな。
扉が閉まると、龍の腕のなかで、俺は体から力を抜いた。龍は俺を抱きしめて、暴れ馬を宥めるみたいに、俺の体を優しく叩いた。どうどうって感じだ。
俺は龍の体にしがみついて、その顔を見上げた。
「龍」
言葉が出てこないもどかしさで、龍の顔を見つめた。
「龍」
龍は不思議そうに俺を見ていた。あるいは俺が言いたいことが、わからない振りをしていた。
十四歳になった年。俺は二人に、恋を求め始めた。どちらも困っていた。俺との恋を望んでなかった。でも俺は、めげずに迫り続けた。
十六歳になった年の三月。まだ十五歳の三月。結婚する気があるならという条件つきで、知毅は俺の求愛を受け入れてくれた。だけど俺たちの婚約は、三ヶ月もたずに終わった。
まぁ、婚約指輪を貰ったときは、勝ったと思ったけどさ。なんだか信じられない気はしたんだ。一凛に惚れてるって告白されたときは、やっぱりなって思った。
俺の初代マドンナは母親で。二番目は麻子。三代目は一凛だ。
麻子は母が死んだ後、俺の世話をしてくれた人だ。彼女のことは、だんだん好きになった。一凛には、一目惚れだった。美人で大きくて、粋で強くて。はじめて女を、カッコ良いと思った。女として、俺が張り合える相手じゃない。やっぱりかなわないよな。そう思った。
それに一凛は、知毅に似合いすぎる。
あの二人は同族の雌雄だ。あんたはそう言ったよな。同感だ。あの二人。半分くらいは、そっくりなんだ。で、半分は真反対。
一凛が龍と結婚してて、知毅が他の女と付き合ってて。悪友みたいに、いたってさっぱり付き合っていた頃も、あの二人はなんだか、お似合いの夫婦みたいだった。
あんたが言い出したことだ。俺はあんたと結婚する。俺がそう言い張れば、知毅が俺と結婚するなんて。そんなことはわかってた。そういう男だってことはさ。
そうしようかって。ちょっと考えた。わかってたんだ。俺のことだって、愛してるってさ。一凛を思っていても、結婚すれば、俺を嫁として、ただ一人の女として、尊重するはずだって。俺が言い出さなければ、離婚なんてこともないだろうってことも。
結婚なんて。知毅が言い出すまで考えたことなかったけど。婚約を解消した頃は、俺は知毅と結婚したいと、本気でそう望んでたからな。
でもさ。
俺がただ一人の女になっても、知毅の一番の女は、ずっと一凛なんだろうな。そんな気がした。だから知毅に婚約指輪を叩き返した。知毅との結婚も恋も、断念した。
知毅と龍に振り分けられていた俺の恋心は、その時から、龍一人に向かうことになったけど。
どうしたら良いかわからない。俺はこの頃、毎日そう思っていた気がする。
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