ホテルと呼ばれることのなかった或る廃墟について

川端 春蔵

ホテルと呼ばれることのなかった或る廃墟について

 記憶は歳とともに薄れるものらしい。

子どもの頃、私はこの言葉を信用していなかった。

父や祖父に、昔のことを訊いたとき、

「忘れた」

 と返されるのは、嘘だと思っていた。答えるのが面倒くさいか、答えるのが嫌な話題だったのだろうと。それが、どうやら本当らしいと考えるようになったのは、大人になってからのことだ。

 だが、それでも忘れられない思い出はある。子どもの頃に過ごした町にあった或る廃墟のことだ。


 ――木ノ岡レイクサイドホテル。

それが、この廃墟の名称になるはずだった、という。

だが、当時の地元の人間は声を揃えて〝幽霊ビル〟と呼んでいた。

 この建物はもうこの世にない。平成のはじめに爆破解体されたからだ。このニュースは大きな話題となり、爆破当日の夕方のニュース番組ではトップでその模様を伝えていた。


 まず、このホテルの来歴について語っておきたい。

1970年の日本でおこなわれた大規模イベントといえば、日本万国博覧会(大阪万博)だろう。象徴ともいえる岡本太郎デザインの太陽の塔は、このホテルとは対照的に現在も、大阪府吹田市の万博記念公園にその姿を見ることができる。

 このホテルは1968年に鹿児島県の業者が2年後に開かれる万国博覧会の見物客宿泊のために、高さ36メートル地上11階という大規模計画の下で建造を開始したという話が、爆破当時、地元で語られていた。

 しかし、外観の建設こそ、ある程度進んだものの資金ショートにより計画は頓挫、その際に建設業者の代表が、背面にある日本一大きな湖に身を投げたという真偽不明の噂があった。

 この噂が〝幽霊ビル〟と呼ばれる最初のきっかけだったのかもしれない。


 噂といえば、そもそも万博の来場者を当てこんで造ろうとしたホテルだった、という話も疑わしい。

このホテルを建造しようとしたのは、鹿児島県のH観光という会社だったが、万博の会場は大阪府吹田市だった。名神高速道路は開通していたが、京都府を挟むこの場所は会場から離れすぎている。

 もっとも、近くには先に温泉観光ホテルが営業しており、人工スキー場も冬場には賑わっていたと聞く。そして、大きな湖は釣りやマリンスポーツにはうってつけの場所ではある。

 現在では、ある有名俳優夫婦が別荘を構える土地でもあり、付近に県下初のタワーマンションが建った際には、ブラックバス釣りが趣味という、解散した某国民的アイドルグループで一番人気だった人物が、最上階を押さえたという噂もあった。

 地元民には理解ができないが、他の都道府県から来る観光客にとっては、それなりの旅とレジャーの拠点になる可能性はあったのかもしれない。

 

 ホテル建設計画が中断されて以降、その未完成の建物は雨ざらしとなり、時間の経過とともに黒ずんだ姿は、いつしか異様な迫力を備えたまま放置され続けた。

 この建物が役割を果たしたといえば、映画のアクションシーンの撮影時だけだったのかもしれない。

大階段落ちで有名な深作欣二監督 つかこうへい原作・脚本の『蒲田行進曲』で、平田満演じるヤスがビルの上から飛び降りるシーンがある(冒頭30分過ぎ)。あの撮影はこの廃墟を利用したものだ。


 この建物が〝幽霊ビル〟と呼ばれるに至った噂話は数多いが、そのなかに所有者が次々に不幸に見舞われたというものがあった。

 たしかに、土地と建物の所有者はどんどん変わっていった。だがそれは、田中角栄が唱えた『日本列島改造論』やバブル景気にもリンクする話だ。いわゆる〝土地転がし〟である。その舞台のひとつがこの廃墟であっただけの話で、所有した誰々が、急死したとか不幸な最期を遂げたとか、具体的な話は誰の口からも語られることはなかった。

 この時代の不動産業者には、現在でいうところの反社勢力そのものや、それに近い企業舎弟と呼ばれた人物が経営している会社が混ざっていた。

 そんなアンダーグラウンドで生きる人々が取引する物件に、素人はおいそれとは手を出せない。そして、反社勢力同士の抗争も各地で起こっていた。街中で銃弾が流れた。その際には多くの血が地を染めた。その中には、この廃墟の所有者がいたかも知れない。

  〝幽霊ビル〟が解体されてからもこの噂は流れ続けた。その理由は、爆破解体を手掛けた京都のレジャー開発会社が、倒産したニュースが流れたからだ。


 私がこの〝幽霊ビル〟をはじめて見たのは、まだ幼稚園の頃だった。父親の車で親戚宅へ向かう途中、ロードサイドに建つ異様な建物が迫ってきたのだ。

「あれが〝幽霊ビル〟や」

 父親はハンドルを握ったままで事も無げに言ったが、私には恐怖の象徴でしかなかった。一刻も早くこの場を離れたい、と願っていた。しかし、以後も父とのドライブ中に〝幽霊ビル〟を目撃することは何度もあった。私はその度に憂鬱を覚えた。


 やがて私はひとりで自転車に乗れるようになり、行動範囲が拡がった。

今までに行ったことのない場所へ行く機会も増えたが、私は自分からあの廃墟に近づこうとは思わなかった。

 その頃、ビルは暴走族の溜まり場となっており、また、住処としていたホームレスの遺体が見つかったという事件があり、その思いに拍車をかけた。

 そして、その名のとおり、女性の〝幽霊〟が出るとか、心霊現象が起こるなどという話は山ほどあり、オカルト漫画の第一人者となった漫画家が、この建物に潜入する番組がテレビで放映された影響も大きく、有名な恐怖の心霊スポットになっていた。


 ところが、私はそんな〝幽霊ビル〟の敷地に足を踏み入れることになる。夏休みに従兄から、

「なあ、〝幽霊ビル〟に行ってみようや」

 と誘われたのだ。

従兄は軽い気持ちで言ったのだろう。私は露骨に嫌な顔をしたと思うが、従兄に押し切られて、自転車で現地へ向かった。暑さと不安が混ざり合って汗ばんだハンドルを握りながら、先を行く従兄の気持ちが変わらないかと願った。赤信号で止まった際に、従兄が左右の何かを眺めていると、

「やっぱり、あっちに行ってみよか」

 と心変わりすることを祈った。

 〝幽霊ビル〟の敷地に入るのはたやすいことだった。管理が行き届いておらず、暴走族のバイクが出入りしていた場所だ。入ろうと思えば簡単だった。

私 は異形の建造物が目の前にあることに圧倒され、同時に恐怖を覚えたが、建物の周囲をうろついていた従兄は、非日常的な空間に魅了されたのだろうか、

「中に入ろうや」

 と言い出した。

 私は頭を強く横に振った。

それを見た従兄は、不満げな顔をすると、そこで待つように私に告げて、内部に入って行った。私は、自転車に跨がったまま、いつでもここから離れられる態勢を取っていた。

 やがて、私の名を呼ぶ声が聞こえた。

恐る恐る、声がしたほうに目を向けると、建物の2階部分の窓辺に従兄が立っており、手を振っていた。

「中は結構涼しいわ」

 暢気そうな声に脱力しながらも、私は力なく右手を振った。

 ジリジリとした夏の太陽に灼かれながら、どれくらいの時間が経ったのか、従兄は満足そうに私の前に姿を現した。

「落書きだらけ!暴走族の兄ちゃんがスプレーで荒らしまくったんやろなあ」

「そう」

 怖くなかった?と続けるのは憚られたので、それ以上言葉は続けなかった。


「帰ろうか?途中でアイスおごったるわ」

 従兄のその言葉に、私は心から安堵した。従兄が自転車を漕ぐ姿だけを見ながら、一度も振り返ることなく、私はその場をあとにした。

 約束通り、おごってもらったレモン味のアイスは、なぜだか、いつもより薄味に感じた。


「〝幽霊ビル〟がなくなるんやて!」

「何や、爆破するらしいで」

「そんなんできるん?」

 そんな噂が流れはじめたのは、私が小学校高学年に差し掛かる頃だった。

 そして、この噂は本当だった。

〝幽霊ビル〟はしっかりと管理され、道路側には高い防壁が建てられた。そして、ビルには、レジャー開発会社と爆破解体を実施するイギリスの業者の社名が書かれた白い横断幕が掲げられた。


 爆破当日。

 私は学校の屋上から、〝幽霊ビル〟がこの世から姿を消していく瞬間を目にした。

親から借りた双眼鏡で、その姿を見届けた。

 爆破時間は昼休み後だったが、担任教師が数日前から、みんなで屋上から見物しようと言いだし、双眼鏡を持参していいという許可もあった。

 現地では報道各社のヘリコプターが旋回して、4万人の見物客を集めたという。

今にして思えばおおらかな時代の一コマだ。

 

 〝幽霊ビル〟はその姿を消してからも、人々の記憶と噂話のなかで彷徨い続けることになる。

 前述したように、爆破解体をした業者が倒産し、瓦礫もそのままに、この地は10年近くも放置され続けたのだ。

 解体時に使用したダイナマイトが不発のまま残っているという噂が流れ、世間は平成大不況を彷徨い続けた。

 結局、跡地は県が買い取り、現在では整備されて公園になっているという。(了)

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