おわりのおわり

 誰がいなくなっても、何が消え去っても、季節は再び巡り来る。何度も繰り返す理だ。木々は豪奢に咲き誇ってくれたけれど、その年は子どもたちの誰も花見には行かなかった。


 父の薨去は家族にとって大きな衝撃ではあったのだが、氷も弛んで風が温かくなると、それでも日々はやってくるのだと、悲しさのなかにも立ち直る心が生じてくる。特に、男子はいつかこの日があるを考えて、それぞれに身を立てる方向を定めているようだった。


 本当に手を、離れたのね。

 夫の影響がなくなったことで、子育てはとっくに終わり、幼かった彼らも自分の足で歩いていると彼女は再認識した。彼女の役目も、終わりが見えている。

 今年も、来年も、何十年先でも桜は咲く。

 その花びらに触れて人は世の儚さを知り、その美しさに恋して、幻のなかに夢を見るのだろう。


 遊行は出来ずとも、と心ばかりの枝を持って頼宗と能信が山井第を訪ねてきた。母の傷心を慰めようという孝行からだ。今や彼らも三十がらみの立派な公卿である。折から、五女の尊子が二歳になった赤子を連れて泊まりに来ている。数年前に、彼女は長兄・頼通の正妻・隆姫の弟である源師房と結婚している。姉妹のうちで彼女ひとりが臣籍と婚姻するとあって頼宗たちの気に入るところではなかったけれど、夫婦仲は睦まじく、道長の娘たちのなかで最も幸せな家庭生活を営んでいる。

 それは、明子にとって数少ない救いとなった。


 几帳を立てた向こうに大納言・頼宗、同じく大納言・能信、こちら側に中納言・師房室の尊子と、三人の子どもたちを前にして、ここに顕信と寛子もいてくれたら、と思わずにはいられない。

 長禅こと顕信は、長家が破談して半年も経たないうちに比叡山で病死した。ご自分の寿命を悟っておられたと、従っていた僧都からは聞かされた。彼女の腹ではないが、不思議なことに同年に生まれた妍子もその数ヵ月後に病で薨じた。彼女も死期を知っているかのように粛然とした最期であったという。


 思い返してみれば、この次女と三男は双子ではないのに、どこか似たところがあった。同母のきょうだいたちのなかにあって、強く憤るのでも抗うのでもなく一定の距離を持って、両親やきょうだいたちを見つめていたように彼女には感じられる。おそらく、ふたりは共に逝くことにしたのだろう。この世に産まれ出でたときと同じように。


 想い出は、いつまでも尽きないものね。

 彼女は感傷を自嘲した。眠った我が子を乳母に託して、尊子は明子を案じて窺う。

「いいえ、何でもありませんよ」

 六十年も生きていると、桜ひとつにも纏わることがたくさんあるのです、と続けた。


 彼女と夫を縁結びした兄・俊賢も、昨年の夏に身罷った。そういえば、恋文の代書を頼んだ能書、一条摂政の末裔すえであった行成も道長と同日に急逝したと聞いた。あの恋の証人は、彼女しか残っていない。


 いえ、鷹司の尼君がいらっしゃるわ。

 彼が晩年を過ごした法成寺で形見分けをしたとき、そのように手配したのだろう、倫子とふたりきりになったことがある。何を言われるかと内心落ち着かなかったが、取りとめのない話題を幾つかして、最後に倫子は呟いた。

「贅沢な方でしたわね」

 え? とつい明子は問い返す。

「恋も栄誉も手に入れて」

 彼女は戸惑った。その言い方ではまるで……。

 もっとも、と倫子は続ける。

「貴女という人がいらっしゃらなければ、私にとっては、これほど満ち足りはしなかったでしょうけれど」

 どういう意味だろう。


 彼女は当惑し、それは、と口を開きかけた。倫子は、すてき、と婉然と微笑む。

「あの方も、そんなお顔をされましたのよ」

 貴女でよかった、と告げると、倫子はすっと立ち上がって部屋を出て行く。年齢に見合わぬ、美しい背筋だった。

 訳は今でもわからない。けれど、明子は何となく腑に落ちたのだった。このことは、すべて必要だったのだ。神なのか、仏なのか、何かわからない。多分、天が彼を、彼女たちをそのように配剤した。


 ゆったりと流れる空気を乱して、簀子を足早に移動する者がいる。誰だろう、と頼宗と雑談していた能信が腰を浮かせる。兄の方は、さてな、と慌てる素振りもない。

「高松の母上、私です。長家です」

 兄上たちもいらっしゃるとお聞きして、馳せ参じました、と大げさに言上する。まあ、報せもせず、と尊子は眉を顰めた。彼女は年齢が近いせいか、弟には厳しい。


「よいではありませんか。きょうだいが揃うなど、稀なことなのですから」

 二十代前半の長家は大納言にはなったものの、まだ少年のようなところを残している。能信も、落ち着きがないな、と弟をたしなめるが、当人は気にもせず母の許可を得て、南廂に上がってくる。やはり会えて嬉しい明子は几帳の隙間から、そっと息子を垣間見た。


「その桜は」

 屈託のない笑顔で、両手いっぱいに満開の桜を抱えた、直衣の青年がいる。

 はっと胸を衝かれ、明子の瞳に涙が滲む。


 あの春の日。あんなふうに彼はやってきて、そして彼女の心に入り込んだのだ。同じように無邪気に笑って、春を教える小鳥とともに彼女までも絡め取った。

 あの人がいた。彼女が恋した人が。


―― 私は、約束を守る男だろう?

 そんな声が聞こえてきそうだった。


「おまえ、よい枝だが、ちゃんと鷹司の尼上にお渡ししているのか?」

 能信は長家を今ひとつ信用していない。

「抜かりありませんって。大体、母上がこちらの母上にお持ちしろと、うるさいくらいなんですから」

 軽妙な口調も、昔の彼を彷彿とさせる。涙ぐむ明子にぎょっとして、母上? と尊子が気遣った。

「いいえ」

 明子は首を振った。

「大丈夫です。あの子が、あんまり父上にそっくりなものだから……。驚いてしまって」


 長家が? と兄姉はみなが怪訝そうに首を傾げる。それはそうだ。長家はどう見ても明子似だったから。

 事情を知らなければそう思うだろう。

「父上がとてもお若い頃……。そう、私たちが結婚する前に、このように桜を抱えて来られたことがあったのですよ。伯父上の名前を騙って、母屋近くまで知らぬ顔で入り込んでしまって」

 懐かしくて恋しい。こんなにも、愛おしい。


「あの父上が、ですか?」

 子どもたちは信じられずに、お互いを見合っている。

 そうでしょう。

 彼女は麗しい笑みを浮かべる。

 彼らは知らない。あのひとも知らない。

 だって、彼の恋人は私なのだもの。


「とても凛々しくて、それでいて楽しい方でしたわ」

 つらかったかと問われれば、その通りの人生だった。報われたのか、これで正しかったのか、多分確信を持てる日は来ないだろう。


 けれども、恋は残った。

 彼女の内で、知られずに煌いている。


 私に花枝を挿頭す―― 桜の少将。

 永遠に……。

 わたしだけのあなた。

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はなのかんむり~『御堂関白記』より(平安創作・藤原道長✕明子) りくこ @antarctica

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