2章 あやめながきね(11)

 死亡率の高い病気ではあるけれど、高齢者と幼児以外では助かる例もある。現に長家がそうだったではないか。


 まだ二十代半ばで体力のある寛子なら治る見込みはある、と明子は看病に必死になった。こんなに若い娘を失うなど、耐えられるものではない。世の人々は、亡くなった顕光と娘の祟りであろうと口々に言い合っている。実際に、寛子が怨霊を恐れて怯えることもあり、道長と小一条院は念入りな祈祷を繰り返した。


 手にしたものを奪われて無念のうちに命を失うのは、何も顕光に限ったことではない。明子の父・高明も、養父・盛明もそうだ。こんなことは間違っている、呪うのなら私に、と明子は願った。結婚は、寛子が望んだことではない。彼女たちは、常に限られた選択肢のなかから選ぶか、選ばざるを得ないかして、どうにか日々を過ごすほかないのだから。


 寛子は長く寝付いた。徐々に衰えていく彼女を看るのはつらかったけれど、明子は離れずに傍にいた。道長もできる限り、娘を見舞う。父親が来たときには、ふだんより元気になって、このまま治ってくれるのではと明子は幾度も期待した。


「お父さま……、そこにいらっしゃる……?」

 目を覚ますたび、彼女は母に問うた。いないときは、「今、向かっていますよ」と答える。そう、と寂しそうに娘はまた眠りに落ちた。その繰り返し……。


 そんな状態がしばらく続くうち、道長もそう寛子だけに気を配るわけにもいなくなった。東宮・敦良親王に入内していた六女・嬉子も同じ病に罹ったのである。そのうえ、東宮妃は初産を控えていた。

 ある日、寛子が眠ったのを確認して道長が退出した後で、彼女は目を開いた。さっきまで、ここにいたのに、とやせ細った腕で辺りを探ろうとする。


「お父さまは?」

 掠れた問いに、明子は同じ答えを口にしようとした。

「うそ」

 それよりも早く、病人とは思えないほど鋭い否定が被さる。青白く痩せこけた頬をしているのに、明子譲りの大きな黒い眸がじっと母を見つめている。責めていた。


「あちらに参っているのね……」

 嬉子の出産についてはほとんど知らせていない。寛子は教えられたかのように糾弾した。

「ひどい……。お父さまは、いつも、あちらの方ばかり」

 そんなことはありませんよ、と明子は急いで返す。


「父上は、貴女のことも大切に思っていらっしゃる」

 乾いていた彼女の目に、涙が浮かぶ。

「お母さまはそれでいいの……? 私、お父さまの望むような、良い子だったわ……。そうでしょう……」


 喋ると身体に触りますよ、と制止しても、彼女はもう止まらなかった。異変を察知して、隣りの間にいた小一条院も顔を出す。幼子のようになってしまった妻を目の辺りにし、彼は表情を曇らせた。


「褒めてくださるでしょう? ねえ、お父さまはどこ?」

 つうっと一筋、寛子の頬に涙が零れる。

「今だけでいい……。いて欲しいのに……」

 明子は袖で目頭を拭い、笑顔を作って話しかけた。


「お仕事でお忙しいのですもの。すぐにお着きになりますよ。さあ、ちゃんとお出迎えするのですよ」

 そっと娘の髪を撫でる。その仕種は、寛子の遠い記憶を呼び覚ます。


「お父さまは……、私の髪が綺麗だって」

 ええ、と明子は頷く。安心したように寛子は微笑み、それから夫に視線を投げた。彼はせめてもと、そっと彼女の手を優しくさすっている。彼女は夫の名を呼び、ありがとう、と呟いて、目を閉じた。


 次の明け方、寛子は息を引き取った。兄・長禅顕信の手によって出家を遂げられたことが、せめてもの慰めだった。

 臨終に間に合わなかった道長はひどく嘆き、短くなった娘の髪を手で漉いては、幼い日のことを繰り返す。彼は、娘の美しい髪が伸びていき、妻そっくりの女性になることを楽しみにしていた。


 そんな彼をふたつめの死が襲う。一ヵ月後、まだ二十歳に満たない嬉子が皇子を産んで亡くなったのだ。末娘を失った道長の悲しみは深く、蘇生させようと魂呼たまよばいまで実行させた。それで生き返るものでもない。

 同時期にふたりの娘を失ったのみならず、長家の妻である斉信の娘とその赤子も亡くなった。鷹司でも高松でも、こんなときまで等しく悲しみに包まれる。そんな皮肉な有様に気付く余裕もなく、明子は水すらろくに飲み下せないほど憔悴し、沈み込んだ。


 やがて喪失の痛みも、表面上ならふさがる。四十九日が過ぎ、周囲の喪の色も薄くなると、慶事を求めたものか、それとも年来不調である自らの健康を思ってか、道長は長家の再々婚を考え始めた。夫ながら、どうして彼はこんなにも切り替えが早いのか、と彼女は少し恨めしくもなる。そう反発しても、道長の言い分はもっともだ。二度の結婚を死別している末息子に、安心できる公卿の後見をつけたかった。


 道長が考えた相手は実資の娘である。明子との結婚の頃に育てていた娘は数年後亡くなり、実資が手元において育てているのは召人との間にできた子だった。しかし、他の娘たちがみな夭折してしまったため、彼はその子をとてもかわいがっているという。


 生まれの劣りはあれど、小野宮流を継ぐ右大臣・実資に婿取られるのは、考えうる最高の縁組といってよかった。最終的に、ここに落ち着くのか、と思うと妙な気持ちにもなる。道長と倫子の間で相談された縁談は、明子にも確認がなされ、そのまま滞りなく進行するはずだった。


 ところが、一年は妻の喪に服したいと言った長家は、さて占った吉日が近づくと、これを跳ね除けたのである。正月早々のことだった。


 驚きつつも、そうだったのかとすんなり納得する面もある。最初の妻が病没したときも、すぐに道長が再婚をまとめており、長家は随分嫌がったという。同じことが起きるだろうと、先手を打ったのだろう。次の妻との仲は決して悪くはなかったようだけれど、姉女院の御所に入り浸ってばかりだったとも聞いた。もっとも、それは長家に限ったことではなく、道長の息子たちはみな姉の女房を召人にしている。


 長家にはっきりと反抗されて、道長は苛立った。どれほど叱っても首を縦に振らない息子に業を煮やし、彼は明子にも説得をさせようとを東の京極大路並びにある山井第にやってきた。


 高松第は寛子の結婚ののち数年して火事に遭い、小一条院は妻子ともども自身の伝領した屋敷に移っていたのである。彼自身はまたすぐに頼宗に婿取られたため、今は明子が住んで孫たちを養育していた。


 父子は内裏でも派手に喧嘩をし……、といっても、一方的に道長が怒鳴ったのだけれども、長家は譲らず、しばらく出仕しなくていい、と謹慎を命じたという。


「あら、それは大変ですこと」

 孫息子をあやしながら明子はのんびりと答える。道長は、何がおかしい、と不機嫌そうだ。

「鷹司の方は、お味方してくださらなくなったのでしょう。あの子は、本当に母君をわかっておりますこと」


 長家が蟄居している先とは、鷹司第だ。彼は一周忌が過ぎると斉信の邸第を出て、「姉上を亡くしてお寂しい母上のお側にいたい」という名目で倫子の許へ帰ってしまった。それのみなら、却って息子を説き伏せやすくなった、と道長も考えることだろう。長家は、自分の父親をよく理解していた。彼が鷹司第に戻ったとき、外腹の子も伴ったのである。


 ふん、と気まずそうに道長は鼻を鳴らす。倫子はすっかり篭絡されてしまったのだ。さすがに心弱くなっていた倫子は、今や手許に置いてあれやこれやと世話を焼ける孫に夢中になってしまった。

 その話を聞いたとき、明子はおかしくて仕方なかったのだ。ふたりとも賢く、機を見るに敏で、どんなときも一歩先を想定していた。それなのに、あっさりと息子の手にやられてしまうなんて。


「あの子は、私には言われたくない、と」

 怒っているような、笑っているような、どちらとも取れぬ表情で、道長は零す。はい、と彼女は相槌を打つ。

 バカなことだなあ、と彼は僧都らしくもなく手足を広げて、少年のように空を見上げた。


「男は妻がらで将来が決まるものだ……。恋を選ぶなど、愚か者のすることだよ……」

 はい、と彼女は微笑み、居眠りをする孫を抱きながら、片方の手で彼の袖に触れた。布の下を滑って、彼は妻の指先を握る。


「だって……。私たちの息子ですもの……」

 彼は、掌に力を籠めた。

 心が近くなる。結ばれたばかりの頃、あのときと同じ空気を感じる。

 以前よりも、ともにゆったりとした時間を過ごすことも増えた。それは、ごくささやかな機会ではあったけれど、彼女にはとても満たされる瞬間だった。


 どんな人もどこかへ向かっている。離れたり、いなくなったり、迷ったり……。けれど、きっと人は一番最初に望んだ形へと、還っていくのだ。遠回りしながら。


 きっと。


 道長は、長家の縁談を諦めた。

 また春が来て、彼は桜の花で明子の邸第を満たした。孫娘は大喜びして、どんな貴公子よりもお爺さまが好き、と飛びついた。


 桜の少将だわ。

 あの、女童が言った通り。


 年を取って僧形になっても、優しい笑顔のまま。彼女の恋人のまま……。


―― その年の終わり、彼の体調は急激に悪化した。

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