第10話 鬼

 大江山は、丹後半島の南側に位置する大江連山の最高峰になります。標高は832mで、周辺の山と比較すると一番高い。その大江山の東側に、京都から丹後に向かうために歩かれた古道が残されていました。名前を元普甲道(もとふこうみち)といい、石畳が敷かれたその道は千年以上の歴史があります。石畳には落ち葉が積もり苔がむしていました。鬱蒼と生い茂る深い森の中を歩いていくと、至る所で岩が転がっています。小さな家くらいに大きな岩もありました。そうした岩々が緑色の苔で覆われており、森の中で沈黙している様子は宮崎駿のトトロの世界のようです。そうした中に「頼光の腰掛岩」や「鬼の足跡」といった名前がついている岩がありました。それは、ここ大江山が酒呑童子の逸話が残された場所だったからです。


 時は平安時代、この大江山に酒呑童子という鬼がいました。頭目である酒呑童子は、茨木童子、熊童子、星熊童子、金熊童子という四天王を従えていて、都をはじめとして辺りに出没し略奪を繰り返し女をさらいました。池田中納言の娘がさらわれるに至った時、一条天皇は源頼光に鬼賊討伐の勅命を下します。頼光は、武勇に誉れ高かった渡辺綱、坂田公時、碓井貞光、卜部季武の四天王を従えて山伏に扮し大江山に向かいました。


 山へ分け入ると、血染めの衣を洗う女と出会います。都からさらわれてきた女でした。この女の案内で鬼の居城にやってきた頼光は、一夜の宿を鬼に頼みます。その夜は酒宴が開かれることになりました。初めは警戒していた酒呑童子でしたが頼光に心を許します。自分の不幸な半生を語り、大いに酒をくらいました。酒宴が終わり童子は酔いつぶれてしまい高いびきをかき始めます。頃合いとみた頼光は刀を握りました。童子に覆いかぶさり、その首を切り落とします。ところが、酒呑童子の首が天に舞い上がり頼光を睨みつけました。大きく口を開けて噛みつきます。しかし、道中で翁からいただいた兜のおかげで頼光は助かるのでした。


 先ほどご紹介した「頼光の腰掛岩」と「鬼の足跡」は、そうした鬼退治物語から生まれた名所になります。周辺には渓谷を横断するための吊り橋が掛けられていました。その橋から続く階段を下りていくと、二瀬川があり渓流の清らかな流れを楽しむことが出来ます。山奥でありながら大自然を満喫できる工夫がなされていました。この「頼光の腰掛岩」から更に上流に向かっていくと大江山になるのですが、その中腹に「日本の鬼の交流博物館」があります。博物館の周辺は、大自然の中でキャンプが出来るように整備されていました。


 ところで、大江山に伝わる鬼退治の物語をご紹介しましたが、実はこの大江山には全部で3つの鬼退治伝承が残されているのです。一つは間人にある丹後古代の里資料館に訪れた時に紹介した、聖徳太子の義理の弟である麻呂子親王の鬼退治でした。もう一つは、丹後風土記残欠に残された「日子坐王伝説」になります。日子坐王(ひこいますのみこ)は、第9代開化天皇の子供で第10代崇神天皇の弟になります。時代的には箸墓古墳が建造された時代だと考えられるので3世紀中ごろの出来事だと推察されます。ただ、この伝説で日子坐王が討伐したのは鬼ではなく土蜘蛛と表記されていました。ここで「鬼」について博物館の説明文をご紹介します。


◇◇◇


 鬼は私たちの祖先が、自然の猛威や不思議な出来事、疫病の大流行など様々なことを体験する中で、人間の力を超えたものに対して恐れの気持ちを抱き、それが祖霊への信仰と結びつき造り出されたものであると考える。陰陽道や仏教の影響をともなった「鬼」という漢字が現れるまでは、「おに」は神の化身であり鬼神だった。

 鬼はもともと姿を隠し遠くから子孫を見守り、時に子孫を祝福にくる先祖神・来訪神的な性格を持っていた。「ナマハゲ」「アマメハゲ」「トシドシ」など、日本には来訪神的な鬼が登場する民俗行事が各地で継承されている。


◇◇◇


 日本における鬼の概念は、先祖と結びついていました。アミニズム的な精霊信仰で、自分たち一族を護る神様として崇めていたのです。古墳時代や飛鳥時代の古代豪族は、先祖の系譜を非常に大切にしていました。この丹後で足跡を残していた物部一族は、神武東征よりも早くに機内にやってきた饒速日命(にぎはやひのみこと)を神として祀っていました。大和王権の中心である天皇家の皇族は、天照大神を祀ると同時にその血筋を護ることを大切にしました。そうした神を祀る行為を具現化したものが神社になります。日本各地の集落には必ず神社がありました。村人たちは自分たちを神の子供である氏子としてまとまり、祭りを通して結束します。こうしたトーテム的な神社の存在が、豪族や村といったコミュニティーを維持していくのに必要な存在だったことが伺えます。


 ところで、先ほどから紹介してきた鬼退治の「鬼」は、祖霊信仰的な鬼神とはあまりにも性格が違います。神どころか、人間に忌み嫌われる存在で成敗される対象でした。この違いをどのように理解したらよいのでしょうか?


 「鬼」という概念は、飛鳥時代に漢字の輸入に伴って日本にやってきました。大陸から入ってきた鬼は、そうした日本古来の「おに」の概念とは性格が違います。博物館で紹介されていた鬼に関係する様々な存在をここで列挙してみます。地獄の鬼・妖怪・天狗・鬼婆・般若、夜叉、更には西洋の悪魔。それらの鬼の多くは、誕生した系譜が違います。地獄の鬼であれば、仏教的な地獄という世界観に出てくる獄卒でした。閻魔様と一緒に罪びとを懲らしめる存在になります。天狗は妖怪の一種であり、山の主でした。そうした天狗は後に修験道の山伏と重ねられていきます。鬼婆や般若も仏教的な世界観から生まれました。有名なのが鬼子母神の物語で、人を食う鬼でありながら自分の子供には強い愛情を見せる寓話に登場します。


 「鬼」という漢字は一つなのに様々な鬼のイメージが込められていく中で、鬼は悪いものという概念が一般的になりました。桃太郎に登場する鬼や酒呑童子は、人間よりも強い力を持ちつつ、人間に悪さをする鬼なのです。そうした鬼を懲らしめることには、大義名分がありました。正義と悪という、シンプルな対立関係を生み出します。これは、日本古来の祖霊信仰的な鬼とは全く違うものでした。


 博物館では、大江山の鬼について面白い考察がありました。大江山は古来から「タタラ場」でした。「タタラ」とは製鉄業のことになります。このタタラ師が、鬼として描かれているのではないかというのです。製鉄という産業は人間に有益な鉄製品を提供しますが、同時に鉱毒という汚水を川に流しました。そのことによって、里の農民からは恐怖や嫌悪感を抱かれる存在だったようです。そうした山の者と里の者の対立構造が、鬼退治という伝承に隠されているのかもしれません。


 また以前にもご紹介しましたが、麻呂子親王の鬼退治においては、物部一族の残党を懲らしめた蘇我一族という解釈もできます。「鬼」は、敵を懲らしめる大義名分として使いやすい概念でした。物部の支配地域だった丹後地域に蘇我一族が侵攻したという事実なのに、「鬼を懲らしめる」という大義名分で正当化した……戦争において何度も繰り返されてきた常套手段だったのかもしれません。


 「日本の鬼の交流博物館」は、とても良い博物館でした。鬼というワンテーマで色々と考えさせられました。展示物も、大量の鬼瓦や世界各国の鬼の面など非常に見ごたえがあります。もしご興味があれば、大江山の大自然と一緒に楽しまれてはいかがでしょうか。


 博物館を後にした後、元伊勢のひとつ皇大神社に立ち寄ったりもしましたが、ほぼ真っすぐに西舞鶴に向かいました。二日目のタスクは終了です。この後は、宿泊の準備でした。野宿は、キャンプと違って日が暮れてしまうと活動が大きく制限されてしまいます。なぜなら、宿泊する場所は管理された場所ではないからです。安心して野宿が出来る場所というのは案外とありません。一応、事前にネットでの下調べはするのですが、実際のところは行ってみないと分かりません。到着してから、「ここでは野宿できない!」ということは良くありました。野宿は、本当に肩身が狭い。

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