第5話 野営地

 丹後半島におけるゴールデンウィーク頃の日没は、18時45分くらいになります。暗くなるまでに、まだ2時間以上も余裕がありました。今晩の僕の寝床は経ヶ岬の周辺で探そうと考えていたのですが、間人からだとあと15kmくらいの距離になります。ゆっくりと走っても30分もかかりません。素晴らしいロケーションのなかテントを張って、更には夕日を見つめながら酒を呑みたい。そのような瞬間を最高のものにするために……これから汗を流します。ウキウキしながら、はしうど壮の駐車場にスーパーカブを停めました。受付で会計を済ませます。


 夕方の早い時間帯での入浴でしたが、露天風呂には3人の先客がいました。外から覗かれないように目隠しはされていますが、立ち上がると立岩が鎮座する砂浜を見渡すことが出来ます。かけ湯をした後、頭の上に畳んだタオルをのせて、ゴツゴツとした岩でできた露天風呂に体を沈めました。湯の温度は少しぬるい。個人的には熱い湯が好きなのですが、一日の疲れを癒すためにゆっくりと時間を掛けて湯を楽しむつもりだったので、このくらいの熱さがちょうど良かったです。


 30分近く露天風呂を楽しみました。普段は烏の行水の僕からしたら、かなりの長湯になります。それでも日没までまだまだ時間がありました。はしうど荘を出ると、目の前に「平七水産」という魚屋があります。出発前から、この魚屋さんで魚の干物を買う予定でした。店舗は、コンクリートできた2階建ての大きな建物になります。でも、商品が陳列されているスペースは案外と狭い。狭いのですが、商品は色々と陳列されていました。目当ては、日本海だからこその魚の干物を食べたい。アジ、ハタハタ、キス、カレイ……美味しそうな干物が並んでいます。高級そうな商品についてはガラス扉の冷蔵庫に納められていました。折角なので、新鮮なお刺身も食べたい。


 ――ん?


 値札を見つめます。感覚的に高いと感じました。素人感覚では、現地に行けば新鮮で安い魚が簡単に購入できるだろうくらいに考えていたからです。でも、どれも美味しそうでした。ここから先に買い物ができるような店はありません。……ていうか、これまでにも店は少なかった。色々と思案した挙句、大ぶりなカレイの干物と刺身を購入して店を出ました。


 実は、今回の二泊三日の旅で感じたことなのですが、港が近いからといって魚屋があるわけではないということを知りました。次の日の夕方のことですが、グーグルマップを頼りに舞鶴の商店街に向かいます。綺麗なタイルが敷かれたお洒落な商店街でしたが、魚屋どころか商店街全体にシャッターが下りていました。閑散とした商店街の中をスーパーカブでコトコトと走り抜けます。仕方がないので舞鶴にある道の駅に向かったのですが、そこは「平七水産」以上に高い価格設定でした。


 僕は大阪北部にある摂津市で生活をしていますが、周りには沢山のスーパーがありました。いや、沢山どころか飽和しているくらいです。そんなに沢山のスーパーがあっても商いが出来ているのは、それだけ人口が多いからでした。丹後半島で商いをする場合、地元の消費者だけを相手にしていたのでは商売が成り立たないのでしょう。観光客を相手にした商売なら、価格を高く設定することが出来ます。その構図は、日本の果実でも一緒でした。


 僕は中央卸売市場で果実の商いに関わっているのですが、相場が年々上昇しています。その原因は色々とあるのですが、一番大きな理由として海外が日本の果実を買い求めるようになったことが大きい。中国、台湾、タイ、マレーシア。円安も追い風になって、日本の果実は海外にドンドンと輸出されています。日本の消費者よりも海外の方が果実を高く買ってくれるから、関係業者も躍起になるのです。個人的には日本の農業の未来を考えると、これは自然な流れだと考えています。


 そうした背景を踏まえると、「平七水産」はかなり良心的な店であったことを、後から感じました。小さな店舗スペースでありながら、いろいろな種類の干物を用意していましたし、品質や鮮度にもこだわっていました。「平七水産」の名誉の為に宣伝します。とても良いお店でした。


 間人を後にした僕は、アクセルをいっぱいに回して経ヶ岬に向かいます。長閑な海岸線でした。太陽が沈むには、まだまだ時間があります。キャンプ場ではなく、僕は経ヶ岬周辺で野宿をするつもりでした。第一候補は経ヶ岬駐車場になります。今晩は雨の心配はありませんが、雨の場合はこの駐車場にある休憩所の屋根を利用することも想定していました。


 山と海しかない国道178号線を走っていくと、経ヶ岬に向けて左に分岐する道を見つけました。この先に経ヶ岬駐車場があります。経ヶ岬は標高200mほどの小さな山になっていて、駐車場は100m付近にありました。道は海岸線から離れていき、完全な山道に変わります。辺りは緑一色に染まっていき完全に森の中でした。坂道を登りきると駐車場に到着します。


 そこは、丹後半島の東側面の海岸線が見渡せる展望台のような駐車場でした。見渡す限り海が広がっていて、とにかく青い。悪くないロケーションです。でも、駐車場をぐるっとひと回りして退散しました。なぜなら、人が多かったからです。僕は、一人っきりで野宿をしたい。そのまま日没まで時間を潰したら、ひょっとすると誰もいなくなるかもしれません。でも、そこまで待つことが出来ないのです。なぜなら、太陽が海に沈むのを見つめながら、僕は酒を呑みたいからです。坂道を下りながら、次の候補地に向かいました。実は、当てがあるのです。先ほどの分岐点には、もう一本の道がありました。道といっても、車は通れません。林道ですから。


 その林道は、ジグザグに折れながら経ヶ岬の手前にある海岸線まで一気に降りることが出来ました。細い道ですが、スーパーカブなら問題ありません。坂道を下りきると、弓なりに広がった海岸に到着します。海岸といっても砂浜ではありません。岩場になります。ただ、護岸工事がなされているので足場はしっかりしていました。道は更に続いていて急な上り坂になった後、経ヶ岬の先端まで行くことが出来そうです。ただ、流石のスーパーカブも、そこから先は通行は無理そうでした。


 目の前に広い海が広がっていました。波はほとんどありません。潮の香りが僕の鼻孔をくすぐりました。太陽はまだ沈んではいません。左手は、緑色に覆われた経ヶ岬の急斜面が壁のように起立していました。背面も完全な山なので、自由に動けるのは整備された細い道がある海岸付近だけになります。誰もいませんでした。僕一人だけです。最高のロケーションでした。少し広がったところにスーパーカブを停めました。背中に背負っていたリュックを下ろして、荷物の開梱を始めます。


 まずはテントを手にしました。テントを広げて、ポールを刺します。地面はコンクリートで整備されているのでペグは打てません。でも、風がないので今晩は心配ないでしょう。テントの位置とスーパーカブの位置を決めたら、その間に椅子をセットします。椅子の前に七輪を置きました。手が届くところに荷物を置いて、スーパーカブにごみ袋をひっかけます。そこまでの準備が終わってから、まずは缶ビールを取り出しました。プルトップを開けます。


 プシュッ!


 夕日を見つめながら、冷たいビールで喉を潤しました。


「美味い!」


 誰に聞かせるでもなく、声に出すことは大事です。美味しさが倍増しました。缶ビールを足元において、次に炭を取り出します。ライターで火をつけ、七輪にセットしました。火が熾るまではまだ時間がかかります。手を伸ばして、またビールを飲みました。


 ――ん?


 草がすれる音が聞こえました。誰もいないはずのこの海岸で……。少し身構えました。缶ビールを持ったまま、首だけを曲げて辺りを伺います。整備された道と山の間に小さな湿地帯の様な空間があり、人間の背よりも高い草が生い茂っているのですが、その間から何かが現れました。距離は20mもありません。目を凝らしました。鹿です。案外と大きな鹿でした。僕よりも大きい。少し動揺しました。


 鹿はゆっくりと姿を現すと、人間である僕を警戒するような素振りも見せず、草を食みはじめました。僕は写真を撮ろうと立ち上がります。鹿が頭をもたげました。目が合います。動くことが出来ませんでした。しばらく見つめあった後、僕がスマホを向けると鹿はもと来た道を帰っていきました。恐怖心とかはありませんでしたが、僕は大きく息を吐きました。

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