第4話 間人ーたいざ

 丹後半島の北面は大きく二つのエリアに分かれていました。丹後半島の根元から中腹にかけては、久美浜や琴引浜といった大きな砂浜が広がっており、更に久美浜湾や離湖といった内海があります。夏になれば海水浴客で賑わうからなのか、街が発展していて住宅地が広がっていました。中腹から経ヶ岬までは砂浜が減少し岩場ばかりになっていきます。立岩や屏風岩といった巨大な岩が海岸縁で威容を誇っていたりと、ジオパークらしい大自然の景観でした。


 雲一つない青空から太陽の光が降り注ぎます。スーパーカブを走らせていると、国道178号線が崖の上に伸びていきました。緩やかなカーブが連続しており、車体を傾ける度に風景が変わります。右手は強い緑色の広葉樹に覆われた山が道路の際まで迫ってきており、左手は波に洗われる岩場が眼下に広がり、視線を上げると青い海と青い空が一本の線で繋がっていました。


 気持ち良くアクセルを開けていると、ツーリングを楽しんでいるバイクと次々とすれ違います。僕のようにソロでツーリングをしている方もいれば、6台7台とグループで楽しんでいる方もおられました。そうしたツーリングに慣れている方は、すれ違う時に左手を上げて挨拶をしてくれます。慣れていないこともあって慌てて手を上げるのですが、そうしたバイクツーリング特有の文化にほっこりさせられました。


 目的地である「丹後古代の里資料館」は、丹後半島の中腹にある立岩から600mほど内陸にあります。間人(たいざ)とはこの地域のことであり、名付け親の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)と息子の聖徳太子の銅像が、高さ20mもある立岩を眺めるような場所に建てられていました。ここで、丹後古代の里資料館で紹介があった立岩に関する説話をご紹介します。


◇◇◇


 聖徳太子には、当麻皇子(たいまのみこ)という母違いの弟がいました。ここ間人では、麻呂子親王と呼ばれています。推古天皇の御代、丹後半島の東南に位置する大江山に、鰾胡(えいこ)・軽足(かるあし)・土車(つちくるま)の3匹の鬼が首領となり、人々を苦しめていました。朝廷は用明天皇第三皇子の麻呂子親王を将軍に任命し、鬼の討伐に向かわせました。その道中、戦勝祈願のために大社に立ち寄ると、伊勢の神の化身である老人がどこからともなく現れて、「この犬が道案内をいたします」と白い犬を差し出しました。

 やがて鬼との合戦が始まりました。『斎宮大名神縁起絵巻』には鬼に切りかかる親王の姿や、鬼に噛みつく犬の姿が描かれています。山の奥に逃げ込む鬼。しかし、白い犬が持っていた鏡が鬼たちを照らし見つけ出し、鰾胡と軽足は官軍に討ち取られ、土車は現在の竹野で生け捕りにされ、未代の証拠として丹後の岩に封じ込められました。その岩が現在の立岩だと伝えられています。

 親王は鬼の平定は神仏のご加護によるものだと深く感謝し、7体の薬師如来像を彫刻し、7つの寺に納めたということです。


◇◇◇


 ちょっと驚きです。聖徳太子のお母さんを追いかけて間人にやってきたら、聖徳太子の弟である当麻皇子の英雄譚を知ることが出来ました。聖徳太子に直接は関係はありませんが、大きな収穫になります。この鬼退治に関する事柄は、次の日に大江山にある「日本の鬼の交流博物館」に立ち寄ったことで、もう少し詳しく知ることになるのですが、何れご紹介します。


 丹後古代の里資料館は、古代に存在した丹後王国の栄枯盛衰について紹介していたのですが、意外だったのは飛鳥にある大和王権と密接な関係を築いていたことです。第9代開化天皇は、この地域を出身とする丹波竹野媛(たにわのたかのひめ)を妃にしました。竹野媛(たかのひめ)が晩年にこの地に帰郷した際に、竹野神社(たかのじんじゃ)が創建され天照皇大神が祀られます。境内摂社斎宮神社には、日子坐王命、建豊波豆良和気命、竹野媛命が祀られており、先程ご紹介した麻呂子親王も同じように祀られています。平安時代の延喜式では、社格が「大社」となっており、天皇家と深い関りがあったことが示されていました。


 また、竹野神社の隣には神明山古墳があるのですが、全長190mで日本海沿岸では最大級の前方後円墳になります。建造時期は4世紀末から5世紀初頭とされ、大仙陵古墳がある百舌鳥・古市古墳群よりも早い時期に建造され、2m37cmもの巨大な蛇行剣が発掘された富雄丸山古墳とはほぼ同時期になります。前方後円墳ということからも、この地域が大和王権と深い関係性があったことが推察されます。


 いずし古代学習館では、新羅の王子であった天日槍(あめのひぼこ)と蘇我一族の関係を想像してみて、蘇我一族がこの丹後半島で影響力を持っていたのではないかと考えていました。ところが、丹後半島はそもそもが大和王権の支配下だったのです。穴穂部間人皇女が、丁未の乱の際に丹後半島に逃げてきても何ら不思議ではありません。


 ここで穴穂部間人皇女の、穴穂部(あなほべ)という名前について振り返ってみたいと思います。奈良県の天理市に石上穴穂宮跡があるのですが、これは第20代安康天皇が築いた王宮になります。古代の天皇は、代が変わるごとに執務を行う王宮を次々と引っ越しされました。大王が居なくなった王宮は、皇子皇女を養育する場所として機能していたようです。つまり、穴穂部間人皇女は、石上穴穂宮で育てられたから穴穂部という名前を冠しているのです。


 この石上穴穂宮跡を地図で確認してみると、丹波という地名が周りに残っていました。この事実から、当時この地域には丹波の人々が生活していたことが分かります。当時の丹波は、亀岡以北から丹後半島周辺という広大な地域を指しており、名前の由来は「谷間」がなまって丹波「たにわ」になったそうです。ところが奈良時代に行われた行政区分により、丹後と丹波に分けられました。ただ、従来の広大な丹波において中心的な役割を担っていた地域は、丹後半島の間人だったのです。


 ところで、この奈良の石上穴穂宮があった地域は、物部一族が支配する地域でもありました。近くには物部一族の武器庫にもなっていた石上神宮があります。つまり、穴穂部間人皇女は地理的な関係から、蘇我一族の血を引きつつも物部一族によって育てられたと推察することが出来るのです。更には、丹後半島の南東に位置する天橋立の近所には「物部神社」がありました。


 情報量が多いので説明している僕自身が混乱しているのですが、穴穂部間人皇女は丁未の乱の際に丹後半島に逃げたのは、物部一族の庇護を期待したかもしれないのです。ということは、穴穂部間人皇女が恐れたのは、物部ではなく蘇我馬子だったかもしれない。


 蘇我一族の皇子皇女は、母親が蘇我堅塩媛 (そがのきたしひめ)か蘇我小姉君(そがのおあねのきみ)かで運命が大きく変わりました。堅塩媛からは、推古天皇や用明天皇が誕生します。小姉君からは、穴穂部間人皇女と穴穂部皇子と崇峻天皇が誕生しましたが、ご存じの通り穴穂部皇子と崇峻天皇は叔父である蘇我馬子によって殺されてしまいます。蘇我一族でありながら殺されてしまった理由に、物部一族に育てられていたという側面があったのかもしれません。


 先ほど、聖徳太子の義理の弟である麻呂子親王の鬼退治の話を紹介しました。このことについても少し穿った推察を試みます。古くから大和王権と密接な関係があった丹後半島に、古くから大和王権を補佐してきた物部一族が支配権を持っていたと考えるのは自然なことです。そうした物部一族の影響力が丁未の乱以後も続いていたとしたら、麻呂子親王が退治した鬼とは物部一族のことだったかもしれません。本当のことは分かりませんが、一つ一つ事実を拾い上げながら、僕なりに当時の世界観を想像してみたい。この間人にやって来て、驚くことばかりです。


 夕方の4時に閉館する丹後古代の里資料館でしたが、閉館の30分前には退館してしまいました。これではちょっと早すぎます。日はまだ高い。スーパーカブを走らせて、海岸にある立石を見学に行きました。多くの観光客で賑わっています。過密なスケジュールで、ここまでやって来たので少し疲れました。ボーっと海を眺めます。寄せる波がリズムよく音を奏でていました。


 ――ザッパーン。ザッパーン。


 スケジュールは消化したので、後はゆっくりすることにします。近くに「はしうど荘」という宿屋がありました。「はしうど」とは穴穂部間人皇女のことになります。この宿の露天風呂は、宿泊客でなくても利用が出来ました。疲れを癒してきます。

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