第2話 いずし古代学習館

 最初の目的地は、警察官と別れたところから1kmほどの所にありました。スピードに気をつけてノロノロとスーパーカブを走らせます。見上げると空はスッキリとした青空なのに、僕の心は曇ったまま。眉間に皺を寄せながら学習館の駐車場にスーパーカブを停めました。


 「豊岡市立いずし古代学習館」は平屋の小さな博物館でした。見学した印象としては、古代の遺物を次々と展示するというよりも、古代に生きた人々の生活の様子をパネルを使って分かりやすく解説していました。学校の授業の延長として利用されているのかもしれません。博物館ではなく学習館とわざわざ名乗っているのも頷けます。


 現代に生きる僕たちは、生活に必要な要素を全て分業化しています。食に関する事柄だけでも、川上から生産者、加工業者、輸送業者、卸売市場、小売業者と多くの専従者が仕事をしているから、僕たちは食べることに困りません。他にも、電気・ガス・水道といったインフラまで設備されており、それらすべての利用をお金を通じて循環させています。


 対して、古代の人々は生活に必要な要素を全て自前で用意しなければなりませんでした。ここで学習館的に、当時の生活について箇条書きにしてみます。

 ・稲作が生活の中心だった。

 ・調理に必要な釜や皿は土器で作る。

 ・火をおこす技術は必須。

 ・麻や絹から布を織っていた。

 ・竪穴式住居を作っていた。

 ・木を切るために石斧を使っていた。

 ・狩りの為に弓矢の技術が必要


 他にも色々あると思いますが、要は古代に生きていた人々はそうした技術を個人レベルで習得していなければ生きることが出来なかった。お金があれば様々なものが手に入る現代とは大きく違います。そう考えると、お金っていう概念は凄い発明だと思います。食糧や食器だけでなく、土地や時間それから演劇や音楽といった芸住的な価値まで、有形無形問わずお金という一つの物差しで価値を決めているからです。


 お金という概念を利用して現代の僕たちは生活に必要なものを交換しています。でも、お金がなかった古代においても交換は行われていました。丹後は日本においてかなり早い段階で鉄を加工する技術を手に入れます。ただ、当時は原料となる鉄は朝鮮半島からの輸入に頼っていました。鉄を手に入れるためには、何かしらの対価を用意する必要があります。その対価で有名なのが新潟県糸魚川で採れる翡翠でした。


 翡翠はとても固い鉱物ですが、その翡翠を加工する技術を当時の人々は有していました。これを「玉作り」と言います。玉は丸い円にしっぽが生えた様な勾玉が有名ですが、他にも管玉といってストローの様に加工されたものもあります。学習館でも展示されていましたが、それらの玉は装飾品としてだけでなく呪術的な意味合いも付加されていたと思います。価値を高められた玉は、鉄との取引に大いに利用されていたでしょう。


 そうした海外との貿易にどうしても必要なものがあります。それが船です。学習館では、船の模型が展示されていました。縄文時代から使われた船は大きな木をくり抜いただけの丸木船になりますが、朝鮮半島と鉄の取引を始める頃になると、もう少しグレードアップします。丸木船の上部に板で囲いを作り大きな波による浸水を防ぐことによって、朝鮮半島までの航海に耐えられるようにしました。


 貿易という観点で考えると日本海側は大陸からの表玄関であり、鉄の鋳造といった最新技術を真っ先に取り入れることが出来ました。実際に、北九州や出雲地域それに丹後半島の周辺は、当時では大きな発展をしています。丹後半島において、その中心的な役割を担ったのが天日槍(あめのひぼこ)でした。この学習館に足を運ぶまで、僕は天日槍を知りませんでした。伝承が色々とあるので詳細は語りませんが、もともとは朝鮮半島にあった新羅の王子だったようです。第11代垂仁天皇の御代に大和にやって来て、最終的に丹後半島周辺を治めるようになりました。出石神社の主祭神はこの天日槍になります。天日槍は、鉄の加工技術を発展させ半島との交易を拡大させて丹後王国を発展させましたが、面白いのがその子孫になります。第14代仲哀天皇の皇后になった神功皇后は、天日槍の血を引いていました。


 出雲の大国主の国譲りや、越前国や近江国を治めていた第26代継体天皇もそうなのですが、日本海沿岸地域と大和国は様々な面で密接に繋がっています。今回、丹後半島に足を運んだのも、聖徳太子のお母さんである穴穂部間人皇女が丁未の乱の折に丹後半島に逃げてきたという伝承を知ったからでした。スーパーカブで走ってみましたが、奈良から丹後半島まではかなりの距離があります。とっさの判断で逃げるような距離ではありません。そこには何かしらの縁故関係があったのではないでしょうか。


 穴穂部間人皇女の祖父は蘇我稲目になり、蘇我一族が表舞台で活躍する最初の人でした。蘇我稲目は第12代景行天皇の頃から仕えた忠臣である武内宿禰の子孫とされていますが、これはかなり疑問視されているようです。また、稲目の父や祖父の名前が朝鮮系の名前だったりするので、蘇我一族の出自は今もなお研究の対象になっています。そんな蘇我稲目は、継体天皇の息子である第28代宣化天皇の御代にいきなり大臣に抜擢され、その地位を確かなものにしていきました。そうした事実を俯瞰すると、日本海沿岸に影響力を持っていた継体天皇と同じく、蘇我一族も日本海沿岸に何かしらの影響力を有していたのではないのかと考えるのです。同じ日本海沿岸に影響力を持つ関係から新しい大王家に大臣として優遇された……このように考えると蘇我稲目の急な躍進も腑に落ちるのです。


 僕の推論は、古事記や日本書紀には記されていませんし風土記にもない話です。信じられると困るのですが、僕が聖徳太子の小説を書くとしたら、まるで真実のように書く必要があります。調べられるだけの事実関係を拾い上げて、僕は決めなければなりません。出石にあるこの学習館で、そんなことを考えていました。


 豊岡市立いずし古代学習館を後にした僕は、次に同じ豊岡市にある玄武洞に向かいました。豊岡市は、円山川に出石川が合流した地域にあり盆地になっています。その盆地の形が「人」という漢字にそっくりでした。その円山川を日本海側に向かって下って行くと、右岸に玄武洞があります。玄武洞までの道のりはずっと川沿いで、田んぼが広がっていました。空を見上げると、白い鳥が大きな翼を広げて滑空しています。よく見るとコウノトリでした。


 コウノトリは国の天然記念物ですが、日本では一度絶滅しています。その後、この豊岡で保護増殖が試みられ野生化に成功したそうです。土手の上からスーパーカブを走らせながら田んぼを見下ろすと、何匹ものコウノトリが寄り添って何かを啄んでいました。野生でありつつ人間社会と共生できていることが、とても素晴らしいと思いました。

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