第2話:手にするものは


 十二月まで十日を切った、日曜日のことである。


 この日は全国的な秋晴れで、気温が二十五度を超える地域もあると、昨夜のニュースで伝えていた。京都、大阪の最高気温は二十三度だ。


 来週からは休日にも定演の練習が入ってくるので、のどかな天気の恵みを受けながら、家でゴロゴロ漫画を読めるのも今日が最後だ。思い切って一巻から漫画を読み返そうか、それともアニメを見ようかなどと、贅沢すぎる休日の過ごし方を悩みながら、グルグル思考をピタリと止める。


 ――いや、それはさすがにマズいやろ。今日はカラオケボックスで、クラリネットの練習をせえへんとな。


 次の演奏会ではラフマニノフの二番をする。三楽章のソロを演奏したくてたまらなくて、ようやく願いが叶ったやつだ。


 定演まであとひと月、ここで練習しなければ音楽の神様に嫌われる。神は北寄ススムだけではない。音楽の神様だって、真理愛の大切な推し人なのだ。


 昼ご飯を終えて財布と楽譜とクラリネットの準備をしていると、真理愛の妹である恵里香が部屋に入ってきた。


「お姉ちゃん、リード余分に持っとる? 一枚くれへん?」


 恵里香えりかは高校二年生、吹奏楽部で真理愛と同じクラリネットをしている。恵里香の方が背は高く、がっしりとした体格で(腹筋は毎日五十回、目指すはシックスパックらしい)、部長をするほどのしっかり者であり、四つも下だというのに姉と見間違えられることがある。


「前にもリード何本かあげとんやん。もうあげへんわ」


 クラリネットのリードは一枚三百円もする高価な消耗品だ。道真グッズ購入欲を抑えつつ、なけなしの小遣いから捻出しているものであり、欲しいとせがまれて簡単に渡せるような代物ではない。


 ツンと澄ましてお断りすると、強気さを誇るような恵里香の黒い眉がピクリと上がり、一枚の紙きれをこちらへ見せた。


「そんなん言うて後悔せえへん? お姉ちゃん、これが目に入らんの」


 黄門さまの印籠よろしく平安装束の少年絵柄が目の前に付きだされ、オタクアンテナがすぐさま反応し、思わず土下座してひれ伏すほどに、真理愛の瞳の動向がカッと見開いた。


「ま、まさか、それは……」


 ――なんとそれは、あべのハルカス美術館で開催中の、北寄ススム原画展チケットではあるまいか……!


 北寄ススムは人気を博してからもその存在を公にしていなかったのだが、ファンからの熱い要望に応えて、去年から原画展が全国各地で催されることとなった。


 あべのハルカス美術館では二週間前から開催されていて、真理愛も原画展初日に足を運んでいる。キャラクターグッズはもちろんのこと、北寄ススムの好物だとかいうどら焼きも売っていて、新発売のチョコ餡味は特に絶品らしい。


 お土産で買おうと思っていたのに、あまりの人気に即売り切れで泣く泣く諦めていたのだ。


「な、なんで恵里香がそのチケットを持っとんの……」


「んーふふっ、彼氏に貰っちゃった」と、恵里香はチケットを指で摘まんでヒラヒラとなびかせる。「雑誌の読者プレゼントに当たったんやて。どう? リード一枚と交換、ちゅうことで。悪くない条件やろ」


 行きたい、買いたい、せやけども――……


「やっぱやめとく。定演近いし、少しでも練習せな……」


「原画展って、いつまでやったかなあ」と、恵里香の声が真理愛のそれを遮って、チケットに目を遣った。「あ、今日までやって。これを逃すと次の原画展はいつんなるんやろなあ。五年後? 十年後? 知らへんけど」


「行く。商談成立な」と、一瞬のうちに真理愛のリードがチケットと入れ変わり、音楽愛が道真愛へと頭の中ですり替わった。


 ああ、音楽の神様、ホンマにごめん。明日から、授業のコマが空いとるときにはちゃんと練習します――なんて言い訳は、音楽の神様の耳にそうそう巧くは届かないものである。チケット片手に新大阪へ、新大阪から御堂筋線天王寺駅まで颯爽と赴き、たっぷり二時間にわたり原画展を堪能したあと、真理愛は駅の階段で転げ落ちて、全治六週間以上の大怪我をしたのだった。

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