第4話:パティシエの男


 車で一時間ほど走り、着いたのは天王寺駅から程近くのアパートだ。築三十年ほどのものを外壁だけ塗り替えたような作りをしている。


 オレンジ色の瓦をしたエントランス脇に自転車置き場があって、その裏側に外付きの階段がある。一階分上がって廊下を歩き、学生さんの表札を探した。


 チャイムを押すとすぐに扉が開いた。灰色の上下トレーナーに、黒縁の眼鏡をしていて、夕方だというのに寝起きなのか、柔らかそうな茶色い髪は眉のあたりで綺麗に跳ね上がっていた。「どちらさんですか」という声色は割と高めなのに、高級布団の訪問販売か新聞勧誘とでも思っているのだろうか、不機嫌さを隠せないような棘がある。


「約束しておりました粟崎と申します。先日は娘のために大変お世話になってもうて」と、母が恐縮しながら申し出ると、ああ、と学生が声を出した。


「あの時の。わざわざこっちまですみません」と言いながら、学生は撥ねた前髪を隠すように手をやった。「怪我はもう大丈夫っすか……わあ、やべ、すげえ痛そうっすね」


 真理愛の右手と足首に巻かれた白い包帯に、学生は同情の声を寄せてくれて、真理愛がありがとうございますとお辞儀をする。不機嫌そうな声の棘はなくなっていて、それほど気難しい人でもないようだ。


 母は持っていた紙袋から菓子折りを取り出した。近所の伊勢丹で全国名店スイーツフェアが開催されていて、そこで購入した焼き菓子のセットである。包装紙には「Jardin d'iris」というフランス語か何かの店名が、紫色の飾り文字で輝いていた。


「これ、お客さんがすごい並んどってね。マドレーヌとかフィナンシェとか、いろいろ入っとるみたいです。美味しかったらええんやけど……」


 母から菓子折りを受け取った学生は、しばらくじっとそれを見て、はっと短い笑い声を出した。


「ありがとうございます。美味しいとは思いますよ。店を選ぶセンスがなかなかいいっすね」


「あら、知らへんなんだけど、有名なお店なんやろか」


「うん、まあ、それなりに名は知られているかも……とにかく大したことなくてよかったっすね。怪我も治りそうだし、本当、よかった、よかった」


 よかった、よかったと必要以上に頷いて、じゃあこれで、と挨拶もそこそこに学生は扉を閉めようとする。


 そのあしらい方があまりにもせっかちであり、ぞんざいでもあり、時間を割いてまでここまで来た労力を適当にあしらっているように見える。いや、それはさすがに考えすぎだが、今の真理愛は怪我のこともあり、ラフマニノフのこともあり、ちょっとばかり敏感すぎるのだ。涙がポロポロ滝のように流れてきて、わあっと激しくむせび泣き、その場にしゃがみ込んで腕の中に涙を隠した。


 突然の娘の激しい嗚咽に、母はあっけに取られ、学生はあんぐりと口を開けた。


「え? 何? ちょっと……こんなところで止めてください。なんで泣くんですか」


「私な、音楽の神様から嫌われてもうたかもしれん。この事故はな、音楽よりも好きな漫画選んでもうて、音楽の神様から他担拒否くらってもうたやつなんよ。他のもんに浮気するんは許さへんってな」


 腕の中から出てくる声はくぐもっていて、耳を澄ましながら聴いていた学生は、考える時間を稼ぐように二、三瞬きをした。


「タタンって何ですか。音楽の神様がそれを食べるの? うーん、そういう名前のケーキが、どっかのカフェに売ってたような」


「そうそう、リンゴとバターが香ばしくって……って、ちゃうねん、それはタルトタタンやんか!」と、真理愛は涙と洟の光る顔をガバリと上げた。細胞レベルまで染み込んでいる関西人の習性で、誰かがボケをしていれば、泣いていようが苦しんでいようがどういう状況でもツッコまずにはいられないのだ。「私の言っとんのは他担、推しがちゃう人のことな。しっかり覚えといて」


「推し……? 星じゃなくて?」


「推しくらい知っとるやろ、神のことや、神。私な、今度の演奏会でラフマニノフを吹くはずやったんよ。ラフマニノフの二番、クラリネットで」


「へえ、すげえ、あのソロを」


「クラシック分かるん? ええやん、同担大歓迎やで」


「はあ、ドータン……」


 隣で黙って呆れたように耳を傾けていた母が、ハンドバッグからティッシュを取り出し真理愛に渡した。取り乱しもせず全く動じることのないあたり、いつもの真理愛にすっかり慣れきってしまっているようである。


 真理愛はチンと洟をかみ、勢いそのまま話を続けた。


「でな、事故ったあの日、クラリネットの練習をするか、北寄ススムの原画展に行くかで迷うてもうたんよ。迷って、迷って、選んだのが北寄ススムやった。北寄ススムって知っとる? ……ええ? 知らへんの? 信じられん、めっちゃ人気の漫画家やん。私な、この人がおらんと生きていかれへんてくらいに好きで、沼にずぶずぶで、吐血して、尊死するくらい好きでな、もうな、神様なんよ。音楽の神様と同じくらい、神様みたいに尊い人。私が選んだのは音楽よりも北寄ススムっていう神やったの」


「はあ……?」


「せやから罰が当たってもうたんやろな。音楽以外に課金しすぎて、音楽の神様からBANくらってもうた。嫌われてもうた。こんなに怪我して、ラフマニノフかてもう吹けんし、みんなにも迷惑掛けたし、音楽はお終いや、何もかも諦めな」


 つるりと出てくる涙を、真理愛はティッシュで拭き取った。


 隣の母は何も語らず、ただじっと娘の会話に耳を傾けていた。会話の内容の半分も理解できていないはずなのだが、娘が元気ならそれでいいと気持ちを前向きに切り替えたようである。

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