第3話:後悔先に立たず
*
天井クロスをぼんやり見ていると、蛍光灯の近くに墨のような染みがあることに気が付いた。虫だろうか、手垢だろうか。触った覚えはないけれど。
真理愛の事故があってから、二週間がそろそろ経とうとしている。包帯生活は変わらないけれども、打ち身の腫れは徐々に引いて捻挫の痛みも治まってきた。
ギブスにも慣れてきたし、左手でもご飯を食べられるようになったし、漫画も読めるようになったし、授業はハンディレコーダーとパソコンを使いながらなんとかして、オケの定演の代役もアルに決まった。
あんなに憧れていたラフマニノフを、事故ひとつで失った。三楽章のソロを思い出すと、真理愛の喉が熱を持ち、ぎゅうっと力が入ってくる。
休日の真昼間から布団に入り、ゴロゴロ横になって漫画も読み放題。こんなに贅沢な過ごし方をしているというのに、真理愛の目尻からツルツルと涙が止まらない。鼻水もズルズル止まらない。漫画の中身が入ってこない。アニメを見ても面白くない。
目を閉じて袖で涙を拭き、開けるたびに天井の染みが目に入る。見るたびにうっとおしい染みだ。
――ラフマニノフが、もう吹けん。
あの日、原画展じゃなくて音楽を選んでおけば……真理愛の選択が正しかったのか、そんなの誰にも分からない。神様にだって、きっと知らんぷりされるだろう。
あの時こうしておけば……こっちをしておけば……いややっぱり……というような堂々巡りが、頭の中で何万回も繰り返されている。
自分のことで手一杯で、腹立たしくて、アルからの相談さえウザくって、それどころか八つ当たりまでする始末。パートリーダーとして最低だ。
布団から出るのも億劫で、家ではずっと寝てばかりいる。絶望と後悔の淵にいて、道真の台詞だけが真理愛の救いだ――「諦めるな! 己と戦え! お前の選択に間違いはない!」
道真、私の選んだことってよかったんか? ホンマに間違っとらんのか? と、枕元のアクリルスタンドに問いかけた。彼の笑顔が優しくて、声なき励ましに涙が溢れた。
「真理愛さん」と、部屋のノックの音がした。真理愛の母だ。「起きとんか? そろそろ時間やし、車に乗るから支度しなはれ」
「もう行くん?」
「道が混むさかいに早よせえへんと。学生さんも忙しいみたいやし、遅れてご迷惑かけるわけにもいきまへんやろ」
はよおいで、という母の声に促され、涙を拭き、這うようにして布団から出た。真理愛の体の形をしたトンネルが、布団にぽっかり残される。
学生さん、というのは、事故の現場にいて何かとお世話になった人だ。真理愛の意識を確認し、救急車を呼び、病院まで付き添いもしてくれた。
赤の他人にここまでしてくれるなんて、よっぽど真面目な人なんだろう。訊けば大阪の菓子の専門学校に通っているとか。
通学に資格取得やアルバイトなど、朝から晩まで何かと忙しいようで、電話でお礼はしたものの直接感謝を伝えていない。それではダメだと親がアポを取ってくれて(銀行マン故か、こういうところはすこぶる義理堅いのだ)、母の運転でこれから会う約束となっている。
ゆるゆると玄関へ行き、包帯を巻いても履けるような大きめサンダルに足を入れると、捻挫した関節がシクシク痛む。
足も、骨折した手も、心も、どこもかしこも痛すぎる。きっとこれは、音楽以外にうつつを抜かした神様からの罰なんだ。アル、オケのみんな、迷惑かけてゴメンなと、真理愛は心で何度も謝るのだった。
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