第5話:そして未来へ……

 学生はよほど真面目な性分と見え、悩まし気な縦皺を眉間に作っていて、真理愛の訴えをなんとか把握しようと必死に努めているようだった。


「うーん、よく分かんないっすけど、そうあっさりと諦めなくてもいいんじゃないですか」と、考えることに疲れてきたのか、学生は首を左右に振って関節を鳴らした。「そのタンタタンか担々麺かは知りませんけど、キタヨリなんとかって人のこと、血を吐くくらいに好きなんでしょ。そんな愛のある行動に、音楽の神様が怒るわけないじゃないっすか。事故は単に運が悪かっただけ。好きなものの選択に間違いはないし、一生懸命好きになることに罰もない……あ、そうだ」


 ちょっと待っててください、と言い残して、学生は一旦部屋へ戻り、再び表に出てきた。手には透明な包装紙に包まれたシュークリームが三つあった。


「これ、さっき自主練で作ってた菓子です。貰ったもんの焼き菓子よりも、こっちの方がきっと美味しい――いや、さすがにそれは言い過ぎだけれど、あの店に負けない自信はあるんで、一度試しに食べてみて。好きなものを手放して、好きなものを一生懸命にしている結果がきっと出てますから」


 ごつごつしたシュークリームの表面には雪のような砂糖が振りかけてあって、バターの香ばしい香りがぷんと漂う。ホロホロに零れそうな香ばしい生地を見ているだけで涙の余韻は奥に引っ込み、代わりに唾液が溢れてきた。


「わお、美味しそう……」


「さすがプロのパティシエ目指す人の作るもんは、香りもええし、見た目からしてちゃいますねえ」


 母娘二人で、すごいやん、ありがとうと褒めちぎると、気難しそうな学生の顔に無邪気な笑顔が広がった。その笑顔に真理愛は問いかけた。


「ところで好きなもん手放したって言うとったけど、いったい何を手放したん?」


「うん? えーっと……秘密」


 学生は、はっと笑い声を出して照れたように俯き、眼鏡を取ってレンズを服でゴシゴシ拭いた。分厚いレンズで目が歪んで見えるせいか、眼鏡を外した方がなかなかの美形で、思わずじっくり顔を眺める。


 その瞬間、真理愛の心に稲妻のような衝撃が走った。


 ――み、道真? 道真が、ここにおる……!


 茶髪で、鼻筋が通った二重瞼、その顔は、毎日枕元で真理愛を見守る道真そのものの顔である。


 思わぬところで遭遇した二・五次元の夢の世界に、真理愛の心臓が天まで飛び跳ねた。「諦めるな! 己と戦え! お前の選択に間違いはない!」――道真が心の中で盛大に叫んでいる。


 ああ推しよありがとう。音楽の神様にも感謝、感謝だ。真理愛の選択は間違いではなかった。推しを愛し、愛し続け、ようやくここで運命の二・五次元に出会えたのだ。


「すみません、一枚だけでええんで、スマホで写真撮らせてください!」


 訪問者からの突然のオーダーに、学生は何事かと目を白黒させていて、その返事を待たぬまま写真を一枚パシャリと撮った。


 ついでに手を前へ掲げるようなポーズを求めると、真面目な学生はそれに素直に応えてくれて、二枚目の写真もオマケに撮った。このポーズは百歌祈祷師である道真が祈祷の際にするものである。


 ついでに道真の祝詞の印を切ってくださいとお願いしたが、さすがに見かねた母がそれを却下して、学生と別れて車に戻った。


 陽が傾き始めた時間帯は一号線の道路が混んでいて、母はハンドルを回しながら、夕食の支度が遅くなるわと嘆いていた。母の愚痴を聞き流しつつ、リアル道真画像を眺めながら真理愛は自分へ語りかける――私もちゃんと、自分と戦わな。


 アルにブチ切れたのは、ファーストを取られたことへの嫉妬やった。いつも私の下で、セカンド吹いとるくせにって。


 あの子はきっと、というか絶対に、どうしよう、どうしたらいいってウジウジ自分で悩んどる。私が苦しかったのは怪我のせいやない、ラフマニノフを取られてもうて、嫉妬したことに自分でケリを付けんかったからや。


 腐った心に飲み込まれてもうた。這い出すために戦えんかった。道真に勇気を貰おう。強さを手に入れよう。アルの背中を押してみよう。


 推しの神様、音楽の神様、どうか、どうかお願いですから、私とアルの手放したもの、そして選んだものが、間違いではありませんように――……


 諦めるな、自分と戦え、私の選択に間違いはない。


 ラフマニノフも、音楽も、推しも、好きな自分を信じよう。好きっていう力は推しへの、そして推しからの最高のご褒美だ。いつかまた、今日のリアル道真みたいに、何かの奇跡が起こるかもしれない。どこかのオケでラフマニノフが吹けるかもしれない。


 好きな自分を信じよう。好きなことに夢中になろう。それが私の理想の推し活であり、私の人生の戦い方だ。


 冬の夕日の暖かさが窓から車内へ流れてくる。小腹が空いてきたので、学生自慢のシュークリームを頬張った――めっちゃ美味しい。学生の好きなものが、シュークリームいっぱいに詰められている。


 フロントガラスには小さな夕暮れ雲の大群だ。シュークリームの形をした、紫色の羊たち。私の推しへの愛は、このシュークリームにも、あの羊の数にも負ける気はしない。


 眠りの森へ羊の群れを誘いながら、推しへの感謝で今日も一日を無事に終えるのだった。


<完>

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粟崎真理愛とパティシエの男 nishimori-y @nishimori-y

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