粟崎真理愛とパティシエの男
nishima-t
第1話:粟崎真理愛と北寄ススム
粟崎真理愛、城西外国語大学管弦楽団の三回生であり、現在はクラリネットのパートリーダーを務めている。
彼女は月刊少年ガガジンと週刊少年ジャブジャブで「
北寄ススムは真理愛にとっての推し作家であり、世界で最も尊ぶべき人であり、神とも呼べる人物だ。
新刊が出版されれば、読み専と保存用、二冊購入が必須である。インタビュー記事は検索を掛けながら隅々までチェックして、グッズ購入や情報入手も欠かせない。(しかしアルバイトに時間を割くことができないため、大概は涙を呑んで購入を諦める。)
彼女の部屋には「百歌祈祷師」のキャラクターである
日頃のルーティーンは、北寄ススムに始まり北寄ススムに終わる。
朝起きてまず最初に、枕元で寝顔を見守る道真のアクスタ(アクリルスタンド)におはようの挨拶をする。朝の光に艶めく道真は最高に素晴らしい。めっちゃ萌える。それからスマホを開けてXのツイッター。北寄ススムにいいねのラブコールと、同担(推しが同じ人)フォロワーにもふぁぼ(いいね)の嵐、行ってきますのツイをして、これで通学前の準備はバッチリだ。
京都から大学まで、新快速を使う通学は一時間近くに及ぶ。
一限目に苦手な国際文化学があったり、オケの練習で思うように吹けなかったり、気に入っていたカフェがなくなっていたり、寝不足で気分がどうにも上がらない時には、快速電車に乗りながら、大好きな道真の台詞を思い出すのだ――「諦めるな! 己と戦え! お前の選択に間違いはない!」――鬼を封じていた緋色の剣を竜生が抜き、味方が殺されたときに吐いた台詞だ。
心に浮かべるだけで、涙がすうっと目尻に浮かぶ。道真最高。めっちゃ泣ける。道真さえいてくれれば、長い通学時間だって辛くない。「北寄ススムの漫画には、人生まるっと埋まっとる」というのが、揺るがない彼女の持論だ。
推しを愛し、助けられ、こうして一日を無事終える。推しよ今日もありがとうと、布団の中で感謝することも忘れない。
北寄ススムの本は真理愛にとって、聖書と変わらぬものである。現在連載中の「百歌祈祷師」は発行部数が一億部を突破したと、いつかのネットニュースで取り上げられていた。
聖書の発行部数は全世界で五十億? 百億か? 分からないけど、聖書はさすがに無理でも、シェイクスピアとかアガサ・クリスティーとか、そういう人たちといつか肩を並べるよう、真理愛は全世界の人々へ真摯に語り掛けるのだ。一度でいいから北寄ススムを読んでみて、元気が出るよ、と。
真理愛の推し活は今年で十年目だ。彼の漫画と初めて出会ったのは、月刊少年ゴロゴロで連載されていた「死霊の腹ワタ、ワタラくん」という漫画である。
高校生のゾンビ、ワタラくんが、同級生の女の子に恋する恋愛コメディだった。怪我しても血が出なかったり、肌を押すと穴が開いたり、死臭を隠すため口臭ガムを日常的に噛んでいたり、ゾンビという存在を知られまいと奮闘するワタラくんがとても健気で、ちょっとしたギャグが面白くて、その一方で自分の存在価値に悩む描写も繊細で、一話目でグッと引き込まれた。
この人、すごいと思った。読者アンケートも毎週出した。一位を取って欲しいと願っていたが、ゾンビものが女性の読者にウケなかったようで、六位、七位、十位とズルズル落ち、単行本二冊目で打ち切りとなった。
このゾンビに真理愛が惹かれたのには訳がある。彼女の父親は銀行員で転勤族だ。
母親の地元である京都に家を建ててからは単身赴任となったものの、それまでは父親にくっついて数年ごとに全国の社宅へ引っ越していた。これでは友達が出来るはずもない。
転校を繰り返すたびに彼女はクラスの異分子だ。イジメだって受けた。血管が浮き出るほどの白い肌が原因で、心無い男子からゾンビだと揶揄されたこともある。陰でずっと泣いていた。自分は生きていていいのだろうかと思い詰めたこともある。
そんな時にワタラくんは語り掛けてくれたのだ。「こんなボクでも、ここにいていいんだ」と。
ゾンビだろうと何だろうと前向きに生きて(いや、死んで、か?)、人間と同じように勉強も恋もするワタラくんに、真理愛は自分自身を重ねていた。ワタラくんは真理愛の大切な友であり、今を生き抜く師匠だったのだ。
中学生になり、北寄ススムは再び月刊少年ガガジン、及び週刊少年ジャブジャブにて連載を始める。それが「百歌祈祷師」である。
この二冊同時連載開始に真理愛は狂喜した。彼の画力は随分と上がっていて、百人一首と古典とバトルものという異色の組み合わせが評判を呼び、爆発的なヒットとなった。
一部のネットの噂では、北寄ススムが女性作家ではないかという疑いも持たれている。女性の漫画家が少年漫画を描くなよと、酷く貶すものまであった。
でも、女性だからと言って何が悪いのか。女性であれ、男性であれ、いい漫画ならそれで充分。
夏休みのスペイン短期留学では、百歌祈祷師のお陰で向こうのホストファミリーと仲良くなれたのだから。(ホストファミリーの息子が、大の百歌祈祷師ファンだったのだ。)文句があるなら自分でいい絵を描いてみろと、真理愛は今日も、推しにたゆまぬ愛を注ぐのである。
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