トラガスを射抜く

安座ぺん

トラガスを射抜く

「知らなかった、耳たぶの裏にほくろあるんだね」

 隣に座った恋人が、私の耳の軟骨に中指をかけて言った。

「え、ウソ。私も知らないんだけど」

 思わず自身の耳の裏を覗き込もうとして、そんなことは不可能だと気づく。ソファから立ち上がり、洗面台の鏡で確認した。

 耳孔を塞ぐように、耳たぶを折りたたんでみると、たしかに。黒ぐろとした点がこちらを見ている。

 ピアスの穴みたい。トリックアートみたい。

 特徴的なほくろは、平凡な私を選んで、神様が特別製のものをくれたみたいで、心が浮ついた。

 ふと記憶の蓋が開く。

 あれは、私が自分のことを、特別だと思っていた頃のこと。



 高校生だった。付き合っている女の子がいた。

 私は大学進学に特化した特別進学コース、あの子は簿記の勉強なんかをする商業コースに所属していた。

 共学校だったが、なぜだかその頃、女の子同士でカップルになるということが流行っていた。

 動画配信者の真似事をして、二人の名前の二文字をつなげて、『まきめいカップル』なんて名乗っていた。若い頃の恥を晒して、居た堪れないので補足しておくけど、私たちだけじゃなかった。まわりの皆やっていて、とにかく流行っていたのだ。


 さて、私の高校には先程述べた二つのコース以外にも、いくつもコースが存在していた。

 そして、所謂職業訓練が充実したコース(調理、服飾などなど、商業も然り)は【本館】と呼ばれる大きな校舎に集まっており、特別進学コースのみ異なる建物に教室を持ち、いわば隔離されているような形だった。

 地方の進学校にありがちな、学び舎を監獄として、ひたすら勉強漬けにするための形。

 そんな環境にありながら、私は彼女のいる本館に入り浸っていた。

 クラスメイトと馬が合わなかった。専用校舎では息が詰まった。

 めいは私の癒やしだった。

 とにかくアホだったし、

「今日理科で習ったんだけどねー、太陽って絶対西から登ってくるんだって」

「東じゃね。てか、そんなん小学校で習ったでしょ」

 私のことを大好きだった。

「まきちゃん、私ね。腕にまきちゃんの名前と一生大好き愛してる、ってタトゥー入れたい。墨汁と針があったら自分でも入れれるの」

「いや、やめときなよ。温泉入れなくなっちゃう」

 ちなみに、考えた入れ墨のデザインを見せてもらったら『愛いしてる』になっていて、危うく間違いを体に刻むところだった。

 

 そうやって勉強監獄をほっぽって、先生方の期待――勉学に一意専心たれ――とは違う動きをしている上、成績もイマイチだった私が目に余ったのだろうか。

 定期テストの一週間前に、以下のようなお触れが出された。


 生徒諸君について、定期テストの準備期間及び実施期間中は、みだりに、本館と進学校舎を行き来してはならない。


 明日から早速、定期テストの準備期間に入る。私は動揺した。

 社会人になった今ならば、ほんの一週間と数日程度離れたところで、大きな支障はないだろう、と一笑に付すことができる。

 しかし、高校生である。毎日べったりで過ごしていたわけである。

 少しでも離れたら忘れられてしまうのではないか、愛想を尽かされてしまうのではないか。様々な懸念事項が頭を過ぎった。

 昼休みに彼女の教室で落ち合うと、めいも同様に、いや、過剰に嫌がった。

 持ってきたお弁当を彼女の机に置いた途端、手首に縋り付いてきた。

「まきちゃん、商業コースに入って」

「そうしたいのは山々だけど、難しい」

 内心では、山々、ではなかった。大学を卒業するか否かで生涯年収が変わるのだ。簡単に進路は変えられない。

 あの頃、めいのことは好きだったが、自分の人生のほうがずっと大切だった。

 先生に反抗する気もなかった。ルールに従って流されて生きるのが当たり前で、カップルごっこはその中の当たり障りのない楽しみだったのだ。

 めいが私の指の付け根におでこを押し当てて、言った。

「それなら、私のこと、忘れないって証明して」

「うん、毎日連絡するね」

「そんなの当たり前だし。もっと」

「もっと……」

 彼女の要求に応える術を持たず困っていたら、目をうるませて、突拍子もないことを言い出した。

「お願い! ピアス開けさせて。そしたら、鏡見る度思い出すよね。耳に触ったら私のこと考えてくれるよね」

 曰く、女子の間でピアスを開けるのが流行しているため、この場ですぐに開けられると。

 私は、いまいちぴんとこなかった。ピアスという存在について、考えたこともなかったから。

 曖昧に頷くと、それを了承と捉えた彼女は周りの女の子たちに声をかけて安全ピンをもらっていた。

「え、それを刺すの?」

 焦って聞くと、めいはうん! と元気よく応えた。冗談じゃない、痛そうと怯みながらも、これが常識という顔で振る舞う周りの女子の目を気にして、私は虚勢を張ってしまった。

 使いさしの消しゴムと、直角に曲げられた安全ピンが机の上に用意された。

 消毒持ってきたよー、なんて言って側にいた金髪ギャルが、校舎の出入り口に用意されている手指消毒用のアルコールを差し出す。勝手に取ってきていいの?

 めいは、肩で切りそろえられたボブカットを楽しげに揺らしながら、何十回もアルコールを机上に噴射していた。諸々全部びしゃびしゃだ。

 私は椅子に座って、彼女が横に立った。

 手鏡を私に握らせて、耳を見ておくように言った。耳たぶに、ペン先が伸びる。穴を開けたい位置に印を打つらしい。どこがいいのか分からず、言われるがまま適当に頷くと耳にちょこんと黒点がのった。

 耳たぶの裏に濡れた消しゴムが添えられる。

 そうやって使うのか。何が起きるのか理解した。

「まきちゃん、顔こわばってる。怖いかな」

 怖いよ! と言うのは心のなかだけに留めた。

 まきちゃんは賢いなあ、クールで素敵だなあなんて、いつも褒めてくるめいの前で、弱みなど見せられない。

 彼女の顔を見ると、心配そうにしていた。アイメイクはほとんどしていないのに、華やかに開いたビー玉の瞳。薄く色づいた唇は、穏やかに主張して、顎に落ちる下唇の陰が艷やかだった。

「怖くなんてない。一息でやってよね」

 その唇に、薬指でちょんと触れた。すると彼女は母に頬をつつかれた嬰児みどりごみたいに笑うのだ。

「じゃ、いくよ」

 見るのが怖くて鏡を閉じたが、見えなくても怖かった。冷たさのすぐ後に痛みが走る。体の中を針が通る感覚は気味が悪い。

「あれ、このあとどうしたらいいんだっけ」

 めいはとんでもないことを横で言う。いや、やり方知らんのかい、と心のなかで叫びながら、こなれていそうな金髪ギャルに冷静に助けを求めた。顔は動かせないから、真っすぐ前を向いたままだった。

「針刺したあと、どうしたらいいの」

 昼食代わりなのか、やたらでかいグミを頬張っていたギャルは咀嚼しながら、きょろきょろしていた。

「おっけー、まかせろ。え、めい、ファーストピアスどこ」

「あ、ピアス用意してない……」

「まじ? とりあえず針抜こ」

 ギャルの的確な指示のもと、安全ピンが抜かれた。痛くて、めまいがしそうだった。

 多分、抜いてすぐにそのファーストピアスとやらを装着せねばならなかったのだ。

 めいはおろおろしながら、私の耳を眺めた。首に触れると血がぬるついた。思わず顔をしかめた。

「どうしよ、どうしよ。ごめんね」

 彼女の手が伸びてきて、耳に触れた。痛みを感じるより先に、咄嗟にその手を払った。

 ポケットからティッシュを出して耳たぶを押さえる。保健室に行くわけにもいかない。怒られるよね、こんなこと。

「ごめんね、まきちゃん、保健室行こ」

「何言ってんの、こんなの、怒られるに決まってんじゃん。行けるわけない」

 一歩遅れた彼女の思考に苛立ち、きつく言い放った。

 弁当を持って、教室を去った。めいは追いかけてきたが、「来ないで、来たら嫌いになる」と怒鳴ると立ち止まった。謝る声が廊下にこだまして、それもだんだん遠くなった。

 泣き顔を見られたくなかった。痛くて、血は怖かった。

 行く宛もなく、渡り廊下を通って進学校舎の教室に戻ると、和やかなお昼ご飯タイム中のクラスメイトたちが、こちらを見て目を剥いた。

 血が出ている、と言って心配をしてくれた。

 事情を聞かれて、ありのままを話すと、向こうの校舎は野蛮だ、という結論になっていた。

「休み時間、いつもあっちに行っちゃうから、誘いづらかったけど、よかったら今度から私たちとご飯食べない?」

 誘われて、素直に嬉しかった。私は親切な彼女らと昼食をとることに決めた。めいのことを好きだった気持ちは、血のショッキングさで消えてしまった。

 耳に無意味についた傷は、すぐに塞がり、いつしかしこりになった。



 あれから随分経った今、耳のしこりは消えていた。消えたことにすら気づかないほど、遠い過去の話になった。

 洗面所からリビングのソファに戻ると、いたずらっぽい顔でこっちを見る。

「かわいいほくろだね」

 恋人の耳にはたくさんのピアスがついている。上部のカーブに二つ、トラガスと呼ばれる耳孔の入口に一つ、耳たぶにも二つ。

「ピアス開けないの」

「開けない」

 つれなく答えると、奴は私のほくろを再び覗いて、にこにこしている。

「もう、こりごりなの。誰かさんのせいで」

「その説はごめんね、ほんと」

 殊勝に眉をひそめる恋人の唇に、薬指で触れると、くすぐったそうに笑った。



 あの日、傷口を隠し、教師には気づかれず、なんとか下校の時間を迎えた。

 くさくさした気分で校門をくぐると、そこにめいが立っていた。

 私は怒りが再沸騰するのを感じて、無視して彼女の前を通り過ぎようとした。のだけれど、そのシャツに血が垂れているのに気づき、その血の跡を辿って、耳を見て愕然とした。

 そこには、大量の安全ピンが刺さっていた。軟骨にいっぱい、トラガスと呼ばれる耳孔の入口には一つ、耳たぶにたくさん。

 痛々しくて、呻いてしまった。

「ごめんね、まきちゃん。痛かったよね。私、バカでごめんね」

「い……いや、てか。その耳、なんでそうなったの」

「反省したの。どうしてもまきちゃんと別れたくなくて、考えたんだけど、どうしたらいいか分かんなくてぇ」

 理由になってない!

 頭が悪いにも程があるだろ。耳は腫れて、無傷の反対側と比べると一回り大きいような気すらする。血が皮膚に滲んでいる。

 泣きそうなのを堪えた、苦しげな顔で彼女は言葉を続けた。

「ごめんね、ごめんね、まきちゃん。どうしたら、許してくれる? あと何本刺したらいい?」

 グロいものを見て血の気が引くのと同時に怒りもサーッと引いていった。彼女の手を取って、急いで保健室に行った。二人一緒に怒られた。保健室の先生、担任、各コース長、学年主任に説教されて、両親にも怒られた。

 めちゃくちゃになっためいの耳は化膿して、一時は顔まで腫れて入院を要した。彼女の花のかんばせがどうにかなってしまうのが心配で、毎日お見舞いにいった。

 そうして、完治した頃。

 私たちはお遊びのカップルではなくなっていた。



「あの時はなかったのにね」 

 耳たぶのほくろをなぞりながらめいが言う。

「年取ったらほくろ増えるよね」

「え、そうなの?」

「めいも背中のほくろめっちゃ増えてるよ、私が言わないから気付かないだけで」

「え、ほんと?」

 一生懸命背中を振り返って、見ようとする様子が面白かった。


 太陽が西から登ろうとも、私と一緒にいようとするんだろう。そんな風に思えてしまう、むちゃくちゃな彼女は、大人になっても私にとって、特別なままだった。

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