僕自身のこと
たいした田舎じゃないな、
というのが、バスを降り立って、最初に抱いた印象だった。
いや田舎であることには間違いないのだが、因習に鎖された村、という言葉からはだいぶかけ離れている。手記を思い返してみる。細かく村の情景が描写されていたわけではないので、こっちが勝手にイメージしたに過ぎないのだが。
僕はいま北陸にある、とある村を訪れている。
とある村とは、つまり空音村のことだ。当然、地図に載らない場所ではなかった。手記にホームページも載っていたので、一応、確認はしている。既視感を覚えたのは、僕の生まれた土地に似た雰囲気があったからかもしれない。風光明媚以外、これといって特徴がないから、似てしまうのかもしれない。その土地の人間に聞かれれば怒られてしまうかもしれないが。いや意外とすんなり同意してくれるかもしれない。仮に僕がその土地の人間だったら、そういう反応をしそうな気がする。
夕暮れの光が、辺りを緋色に染めている。
電車に揺られて、バスにも揺られて、確かに自宅を出てからそれなりに時間は経っているはずだが、それでも、もう夏の夕暮れが見える時刻になっていることに驚いてしまった。僕は何時に自宅を出ただろう……あぁいや、そんなはずはない、と改めて考え直すと、広がる景色は青に変わっていた。時計を見ると、時刻はまだ昼過ぎだ。きっと疲れているのだ。
スマホの地図を確認しながら、僕は手記に書いてあった住所を目指す。
村の名前は、明日花村。読み方は、アスカ。手記に出てきた隣の家のお姉さんと同じ名前だ。
この明日花村で数年の間で、放火事件などが起こっていないかどうかも、念のためネットで簡単に調べてみた。もちろん有名な事件でなければヒットしない可能性はあるのは分かったうえで……、すくなくとも僕が調べた限りで、それに該当するものはなかった。
こうやって、手記が嘘である可能性が、どんどん補強されていく。
そもそもあの手記自体が、まるで嘘に自覚的な者が書いたみたいな手記じゃないか。
物語はどれだけリアリティを加えて本物に近付けようと、本物になることはない。だってそれはリアルではないからだ。どこかに絶対綻びが出るからこそ物語なのだ。虚構が現実を奪って、鎮座することなどない。
たとえば、あの手記が現実だと仮定して、じゃあ僕とリムアが出会った大学時代はどこに存在してしまうことになるのか。放火して、幼馴染と逃げて、家族の手助けもないまま、学校には真面目に通って卒業する。失踪者を探す家族はどこへ消えた。警察はどこへ消えた。そもそも警察のことを言い出すなら、あの集会自体にも違和感を覚えてしまう。これらは絶対にないとは言い切れないが、さすがに無茶に思える。
じゃあ高校を中退して、高卒認定試験を取って、大学に入り直した。そもそもリムアは大学生ではなかった、みたいな可能性も考えられる。だけど僕はリムアの学生証を見たことがある。僕とリムアは同い年で、確かに学生証の入学年度は僕と同じだった。
可能性を潰していく。こうやって、ひとつ、ひとつ。嘘だ、と信じたいがために。
もしも現実である可能性があるとしたら、あのノートを書いたのは、リムアではない、というところだろうか。別人の手記。だから『リムア』ではなく、『リアム』になっている。だけどそれにしたって、あのキャビネットにリムアではない誰かがノートを入れる意味が分からない。
そんなことを考えているうちに、僕はリムアの家に着いた。
二階建ての一軒家だ。
僕は玄関のドアを開け、家の中に入る。入ったあとに違和感を覚えた。僕はなんでインターフォンも鳴らさず、家に入ってしまったのだろう。……と思ったところで、僕はまた家の前にいた。何が起こったんだろう。さっきから明らかにおかしい感じがする。リムアには不思議な力でもあるのだろうか。超能力者……怪異……いや、そんなわけがない。不安と恐怖で、僕がちょっとおかしくなっているだけだ。そうに決まってる。
インターフォンを鳴らす。
玄関のドアが勝手に開く。まるで誘われるかのように。
この先にリムアがいる。
リビングに行くと、リムアがいた。
僕は思わず悲鳴を上げてしまった。
リムアの目玉がなくて、そこには空洞ができていた。その穴から赤い水のしずくを落としている。
「本当はそんなに驚いてないでしょ」
と僕の心に直接問いかけるように、リムアが笑う。
そのリムアの空洞部分に目玉が戻る。なんだったんだ、いまのは……。さっきの巻き戻りみたいな現象といい。何か僕の知っている世界とは、異なる世界に足を踏み入れたみたいだ。
「リムア。本当に、リムアなのか……?」
「何、言ってるの。私はリムアでもあるし、リアムでもある。あるいはまったく別の名前だってありえる。それはあなただって、知ってるでしょ。私に正しい名前は存在しない」
「意味が分からない」
「じゃあ、いまあなたは何を考えているの?」
「あの嘘だらけの手記を読んで、僕はずっと考えていた。リムア、きみは虚構の世界を自分の中に創りあげて、それを現実だと勘違いするようになった」
「それで……」
リムアは否定も肯定もしなかった。
ただじっと僕を見つめている。恋人に向ける、というよりは、家族に向けるような視線だ、と何故かそんなふうに思ってしまった。
「きみは幼い頃、妄想に逃避する癖があった、と手記に書いてるよね。あれは真実だったんじゃないかな。いや、それだけじゃない。あの手記に、多くの物語がそうであるように、部分的に真実がちりばめられているんじゃないか。僕はこういう分析は嫌いだけど、要はあの中に、きみのつらいトラ――」トラウマと言い掛けて、何故か僕の心臓がびくりと強く震えた気がした。そして強烈な不快感が襲ってきた。なんでだろう「あー、うん。そう、そういう体験からの逃避として、きみは虚構の世界に逃げ込んだんだ、と思う。違うかな。たとえば、その……」
僕が彼女のつらい体験にあたるものを勝手に想像して当てはめようとした時、リムアが大きくため息をついた。
「なんでそこまで分かってて、思い出せないのかな」
「思い出せない?」
さっきからリムアの言っている意味が本当に分からない。
「じゃあたとえば、こんなことを言ってみたら、どう思う?」リムアが作ったように声を幼くして続ける。「お兄ちゃん……」
ふいに見知らぬと思いたかった映像が頭の中に浮かぶ。
赤々と燃え上がる光景の中に、ひとりの少女がいる。『お兄ちゃん、助けて。助けて』と叫んでいる。いや叫んでいただろうか。少女は無言で、ただ僕を見ていただけかもしれない。助けられると知りながら、見捨てた、大嫌いだった妹が、僕にはいる。いや、いた、のだ。理亜夢の存在は、周囲から僕が粗雑に扱われる原因になった。それを知りながら、理亜夢はいつだって得意気だった。生意気だけど、ときおり懐くことがあって、愛憎なかばする感情が渦巻いていた。いや、本当にそうだっただろうか。
これにもまた、僕、の都合の良い嘘が混じっているのかもしれない。
ふと周りを見ると、ちいさなキャビネットがある。あぁ僕は結局、北陸になんて行ってなくて、ずっと家にいたのだ。
逆、だったのだ。
「僕のほうだったのか。現実から逃避するために、虚構を創りあげていたのは」
理夢亜などいない、いたのは理亜夢だ。僕の目の前の理亜夢が、かつての姿を取り戻していくように、幼くなっている。
「それで……」
彼女は、妹は、否定も肯定もしなかった。
「あの日、僕は助けられるはずの命を奪ってしまった。もちろんそんなことを知っている人間はいない。僕もまた哀れな被害者、生き延びた被害者として、周りから同情の目を向けられるだけだった。責めるひとは誰もいなかった。『こっち側』に残った人間は、誰も僕を責めなかった。両親も、もちろん僕を責めることはなかった。だけど僕は責められているような気分になっていた。いっそ責めて欲しかった。糾弾して欲しかった。殴って欲しかった、蹴って欲しかった。殺されてもいい、と思っていた。そのくせ、死ぬ度胸はないから、殺して欲しかった。心でそんなことを思うだけで、口に出すこともできない自分自身を心底憎んでいた」
「それで……」
妹は、まだ、否定も肯定もしてくれない。
「明日花村は、僕たちの生まれた村だ。僕は自分の住んでいた村の名前さえ覚えていなかった。虚構を描き続けていたせいで。僕はさっきバスに降り立った時、僕の生まれた村に似ている、と思った。当たり前だよな。だって僕たちの生まれた村なんだから。風光明媚なこと以外は、なんの特徴もない平凡な村。もちろんあんなわけの分からない因習なんて存在しない。僕の稚拙な脳みそは見慣れた村しかモデルにすることができなかった。何もないところから、何かを作りだすなんてできるわけがないんだから。だから僕は」
封じ込めていた記憶の蓋はもう、開いてしまった。瓶の中から飛び出して記憶は僕の手を離れて、もう捕らえることもできない。僕の支配下に置くことができなくなってしまった。
だから僕は、あの手記を綴りはじめた。嘘だらけの。
目の前で、幻想のリムアを創りあげた。嘘だらけの。
他人事にしてしまいたかった。いや他人事にしてしまえる寸前まできていたのだ。だけど妄想が自我を持ってしまったのか、それとも無意識のおのれが他人事にしてしまうおのれを許さなかったのか。
「ごめん。理亜夢。お兄ちゃんはもう現実に帰らなければならない」
「何を言っているの」
「消えてくれ。僕の目の前から」
「だから、何を言っているの」
「理亜夢?」
「やっぱり、あなたはまだ勘違いしている」
ねぇ、なんであなたのほうが現実だと決め付けているの。
「空音」
と彼女が僕の名前を呼んだ。
いや、違う。違う違う違う。
僕は、そんな名前じゃない。
だって僕の名前は――――。
この世界に生まれ落ちて、まだ間もなかった。
はじめて光を見つけた時、そう私は幼かった。
射しこむ眩い光は、現実にはなかったものだ。
物語の世界で、私はそれを見つけてしまった。
美しい光に憧れた自分を思い返してしまうと、
こんなものを、私は見たかったわけじゃない、
と、うそぶく自分の心が口を閉ざしてしまう。
絵本だったか、あるいは、児童小説だったか、
いまとなっては稚拙な脳みそは覚えていない。
だけどあれは確かに、どこまでも物語だった。
どうしても物語でなければいけなかったのだ。
不確かにぐらんぐらん、と揺らぐ世界の中で、
何よりも確かな世界の真実を見掛けたようで、
それだけが、私の、生きるすべとなったのだ。
見えている世界の、何を投げうったとしても。
それだけが、私の、守るべきものだったから。
空音 サトウ・レン @ryose
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