どこまでも遠くへ

回想をいれる、クライマックスからはじめて戻る、遡っていく、時系列に手をいれるというのはフィクションでの基本的なテクニックです。
私たちは意識的にどころか、無意識的にさえ使っているものでしょう。
ただ、この作品はシャッフルしたのかと思えるくらいに時系列をばらばらにしています。
単純な回想としてわかりやすくつなげているところもありますが、そのような仕掛けもほどこされていないところもあります。
そして、それにもかかわらず大変読みやすいのです。注意していないと、時間が飛んだことにさえ気がつかないように書かれている。入念に読者が気がつかないようにとしかけているようなところもある。本当にすごいなと思います。
象徴的暴力などということばがあります。価値観や規範を誰かに押し付けることで、学校教育というのは、象徴的暴力の代表的な例としてあげられることが多いものです。
教員というのは、象徴的暴力をふるい続けることを求められるわけですが、教員とおぼしき主人公はその学校というシステムを嫌悪しているところがあります。
かくあるべしという規範を押し付ける学校というシステムを嫌悪し、それを改善したいと思いながらも自らもその暴力にさらされ続け、ここから遠く離れたところにいきたいと考え、たどり着いたのは歓楽街のいかがわしい店。
出会った女性と行きずりの関係を持ち、その後、拒絶されるわけですが、そのときのことばがとても素敵です。
「勝手にそんな大きな責任こっちに負わせないでよ[中略]わたしを勝手に、大きな物語の都合のいい装置にしてんじゃないよ」
このことばを発したナオミは、学校というシステムと徹底的に相容れない存在です。
後に描写される幻想的なセックスシーンで描かれるナオミの幻視めいた世界は、主人公が望むレベルでのシステムの改善をおそらく凌駕していて、完全にとらえきれない存在なのです。
さて、主人公が出会う二人の女性はどちらも彼を手玉に取り、彼の思いを引き出していきます。
カウンセラーの前に座っているがごとく、自分の思いを吐露させられ、ムチで打たれ、絶頂に達する。
もう一人の女性である老婦人に対しては、主人公は自分の思いを吐露させられながらも、どこかで拒絶しているところがあります。
理解を求めて拒絶され、理解されてそれを拒絶する、この対比的な描き方こそがこの作品の素晴らしさで、単純な解決できないなかでもがき、それでも進んでいく、とらえどころのない私たちの生を描ききっているようなところがあり、そこがとても良い読了感をもたらしてくれました。