ドキュメンタリー

杜松の実

 


 シートベルト着用サインが消灯し、ぼくがつと立ち上がって収納棚を引き開けたとき、隣に座る白髪混じりな丸眼鏡の女性が見上げて、「どうもありがとう。道中楽しかったわ。また、お会いしましょう」と声をかけてきました。次があればそれは奇跡のレベルであるなと感じたぼくは、曖昧に受け取られるような口調になって、「そうですね」と答え、収納棚からリュックサックを引き出しました。お土産でいくらか膨らみ重くなったリュックを抱えて列が動くのを黙って待ちつつ、視線を窓の夜に逃して、誘導灯でしょうか、滑走路には幾種もの明かりがありました。二、三分もそうしているとようやく前が進み、僕が女性に会釈をして歩こうとすると、彼女は小さく胸の前で手を振って、「またね」と言いました。さよならの代わりにまたねを口にする主義の人に会ったことがありましたので、そういうものかと軽く受け止めぼくは立ち去りました。

 彼女と会ったのはそれが三度目で(それを三度目と言っていいのかわかりませんが、彼女が「あら、三度目」と目尻に烏のあしのような皺を寄せて言っていたのですから三度目ということにしておきましょう)、一度目は行きの機内で、二度目となるのがせんこく保安検査所前の書店の中でした。本を求める意図はなく、単なる時間潰しとして土産物屋は十分見たついでと入ったところ、当地方史の書籍など地方色を打ち出した一角が目に止まりましたので、旅の最後に土地の知識など本来不要ですが、土産話をそれらしく語るためにぼくにはぜひ必要に思われ、一番大雑把そうなフルカラーの教養書を手に取り眺めていますと、後ろから彼女に話しかけられましたので、ぼくは大いに驚いたのです。「こんな偶然もあるのですね」と言われて、「ははあ、本当ですね」と答えたきり二の句を繋げずに閉じた本を抱えていると、「楽しかったですか?」と彼女が微笑みを絶やさずに聞いてきましたから、「ええ、まあ」とすげなく返してしまうと、「それで、また来ようと?」と目配せでぼくの手にした本を示してきました。ぼくはなぜか「いや、これはただの暇つぶしで」と困ってしまって、彼女はただ「そうなの」と気にも留めない返事をしていました。そしてそれから、これが本題だったのでしょうけど、「それでどうでした?」と枕を付けて、「旅の目的は、達成できましたか?」とこれまた何の飾りもない声色、表情で、でも目だけはぼくの顔をしっかりと観察しながら尋ねてきました。僕は一方で寝不足があり歩き回った疲れがあり、また一方でまだまだ旅の振り返りができておらず、「まあ、ぼちぼちですかね」と答えるだけで精一杯でした。目覚めたのは十時半過ぎとチェックアウト時間間際でしたが、なにしろ昨夜は眠ったのがおそらく四時近くでしたから、平日でも七時間なければ寝た気のしない質でして、それも神経質でもありますから熟睡はできなかったのでしょう、日中は眠気を感じていませんでしたが、いよいよ帰る次第となって急な睡魔が訪れていたタイミングでした。


 昨晩はある女と遅くまで酒を飲み、別れた後も戦争遺産を保存展示する平和公園まで小雨の降るなか歩き、それからようやくホテルに戻ってシャワーを浴びて眠ったので、それだけ遅くまで起きることになってしまったのですが、夜半に見上げた焼け落ちたビルディングの残骸は、白雲を背にして真っ黒に静かで、崩れたコンクリートの断面から覗くひしゃげた鉄筋が、空を掴み損ねた痩せほそった腕に見える妄想をして、妄想は女の癖を真似てみたものでして、何だかぼくを高揚させてくれました。雨も関係していたのでしょう。ぽつねんと見上げた雰囲気がそうさせたに違いありません。女とは繁華街の高級ホテル地下に隠された格闘技場で出会い、名前を明かさず「カタカナでナオミと呼んで」とそう名乗りました。

 ぼくたちは軽くシャワーで汗を流して最上階にあるバーカウンターに並び、ナオミは聞き馴染みのないショートカクテルを注文し(それは琥珀色をしていました)、ぼくはどうにか知っていたホワイトレディを注文して、マスターのシェイクを黙って見守っていたところにウェイターがナッツの入った小皿を一つぼくとナオミの間に置いてくれましたので、沈黙に手持ち無沙汰でしたからアーモンドを選んで、それが割合他に比べて多く見えましたから、口に放り込みバリボリと砕いてまた待ちました。ナオミはナッツには手を出さず、ポシェットからパーラメントとジッポライターを取り出してカウンターに載せ、先ほどのウェイターに目配せで灰皿を持って来させていました。ぼくが後から足元のトートバッグからマルボロと使い捨てライターを、腰を屈めて取り出した姿はずいぶん見すぼらしく映ったことでしょうが、その頃にはナオミに向けて格好付ける思惑はいらなくなっていましたので、思えば気にすることもなくそうしていました。まるで旧知の女ともだちのようにぼくたちは接していたのです。

 ナオミは火のついたたばこを指の間に挟んだ左手でカクテルグラスを掴み、カウンターに肘をついて飲むその仕草が実に格好がよく、ぼくがいつか真似をしようとその美しい横顔を見つめていますと、不意に横目で口から薄く煙を伸ばしてぼくの目を見返すものですから、蛇に睨まれた蛙のようにぼくは息を止めて、そこが何かの瀬戸際かのような緊張感と集中に苛まれ、脳を直接火あぶりにされその映像が焼き付いていく感覚をはっきり覚えて静止していますと、彼女の目は再び掴まれたグラスに落ち、微かに笑みを浮かべたようでした。三度も彼女に射精させられた直後のことでしたからぼくをそこまで追い込んだものはきっと色欲ではなく、経験したことのない類の畏怖、あるいはある種の悟りだったのではないでしょうか。しかし、今となっては、いえあの瞬間のほかでは、あれが何であったのか、どうしても考えることさえできはしないのです。

 互いの裸を見せ喘ぎ声を聞き、ぼくの体にはナオミに打たれた痕が残され、セックスは遠慮の垣根を取り払う儀式であったかのように、ぼくたちの雰囲気は解ほぐされきったかと思われていましたが、誤解するまでもなく当然、出会ったばかりのぼくたちに懐かしむ思い出話はなく、共通の知人の陰口で笑うこともなく、ぼくは素性を明かしていなかったので仕事の愚痴を聞いてもらうこともできず、毒にも薬にもならない軽快な会話が、ぽつぽつとぼくたちをもとの他人に引き戻していきました。彼女が三杯飲む時にぼくは四杯目を「今度は甘さ控えめの、ピリッとしたウイスキーが飲みたいです」と、その注文は一休さんのとんちめいた難題であったようで、マスターは背を向けて酒棚を眺めて思案に入り込み、義務でもあるかのようにその後ろ姿をぼくが見守っていますと、ナオミが血液型を聞いているような調子で、

「ジョージは(ぼくは偽名でそう名乗りました)Mなの?」

 と尋ねてきました。

「どうだろう? むしろ、反対なんじゃないかな?」

 自分の性癖を理解できるだけの試行回数を重ねられていませんでしたから、ぼくは曖昧な返答を返すばかりで、根拠としては興奮を覚えるアダルトビデオの嗜好の方向性がサディズム的であることただそれだけで、ともすれば昨晩〈あるいは自分は……〉と、ナオミの虐めに服従する自分をそう顧みたりもしていたほどですから、ますますぼくの返答は曖昧にならざるを得なかったのです。

「なら、どうしてあんなに素直だったの?」

 それには明確な答えが用意されておりまして、そもそもの旅の目的に付随された哲学であり、自己を反省する指針として忘れては思い出す言葉でしたから、ぼくは堂々とナオミの目を見返して答えました。

「『自分に影響を与えるものを自分で選んでばかりいれば、想像を超える自分にはなれない』 ぼくの好きなミュージシャンの言葉なんだ。ぼくは自分を変えたいと思っているし、変わらないといけないことも分かっている。でも、変化は自分の中から起きるものじゃないから、何かと出会う、誰かとの邂逅、そういう偶然に期待して、だから、ナオミに服従しなさいって言われたとき、これだって思ったんだ。ここにきっと何かがあるって」

 ナオミはぼくがそれを言い終えないうちに目を逸らし、たばこを咥えてカウンターに預けた右手を見ているようでした。その目は何かを思い出しているような、何かを考え込んでいるような、そうした冷ややかな静けさを持っていました。マスターが一本のウイスキーを持ち寄り説明を付け、ぼくは話半分で承諾してそれをワンショット貰いました。マスターが立ち去ってから、ナオミは静かに言いました。

「それは、わたしを利用したってこと? わたしを利用すれば、自分はきっと変われるだろうって?」

 ぼくは全く馬鹿でした。多分の自惚れもあったでしょう。内省する向上心とそれを実践する精神を人に知られた喜びがぼくの耳を曇らせ、彼女の言葉に含まれていた怒気を勘づかせず、ほんの軽口とばかりに受け取って、「そういうことになるね」と自慢げに返してグラスを傾け、ウイスキーの豊かな香りを脳天まで充満させて満足していました。

 ナオミは続けて、「ジョージは何をしに○△に来たの? それも、自分を変えたかったから?」と質問を重ねてきました。ナオミはぼくに対して感じた違和感がコミュニケーションの齟齬や人物理解の誤解などから生じているものなのか、怒りを抑えて確かめようとしていたのでしょう。旅の目的は、行きの機内で例の年配の女性にも聞かれていました。


 共通のコミュニティを持っていませんと却って明け透けに内面を打ち明けやすいものですので、ぼくが県立高校の教師をしていると答えますと、学校は誰もが通る場所ですから誰もが一家言をお持ちで、初対面であっても話が弾むことをぼくは何度も経験していたので、その女性(お名前をお聞きしませんでしたから、仮名で鈴木さんとしておきましょう)の食いつきように驚くことなく、問われることに何でもお答えしました。そのうち、年の差もあるからでしょう、カウンセリングじみた問答が続き、ぼくが抱えている学校の不満や同僚・管理職への不信感、教育という理想と現実の乖離、自己矛盾と葛藤、ひいてはぼく自身もまた学校がキライであるという無自覚を吐露するにまで至りました。機内アナウンスとともにシートベルト着用サインが点灯し、飛行機が着陸に向けて高度を下げ始めたころ、鈴木さんが「それで? ○△には何をしに行かれるんですか?」と聞いてきました。搭乗後すぐにも聞かれていましたから、「ええ、ですから観光に」という答え方をしますと、「いいじゃないですか、どうせ一期一会。本当のことを言ったって」と笑って肩に手を触れてきました。

「先ほども言ったように、ぼくは学校というシステムがキライなんです。教育という仕事自体は好きですし、ぼくに合っていると思います。でも、学校の中にある支配構造とか、画一性、効率性、秩序の在り方が許せないんです。そういう現実と本来あるべき学校の理想とのギャップは見えているのに、間を埋める手立てはさっぱり分からない、もしくは改善できそうな方向性は見えていても周りの同意を得られず実行できない。だからと言って、これが現実だからと納得することもできません。だからこの三年間、対話を重ねて諦めず、周囲の理解を得ようと、ぼくなりに努力したつもりです。でも、学校は変わらない、カタいままなんです。新米のぼくの話なんて、本当の意味で聞いてくれる人はごく僅かでした。そしたら何だか、急にどうでも良くなっちゃったんです。そして、どうでもいいと感じている自分に気づいて、怖くなりました。それで、いま飛行機に乗っているんです。旅の目的でしたね。それは、学校から遠いところに行くことです」

 鈴木さんの聞く姿勢があまりに真剣でしたから、普段から真面目な話のできる友人を持たないぼくは、勢い語っていました。

「怖い、ね。分かるわ、その感覚。正しくないと思っていることに慣れてしまうのって、とっても怖い。それをきちんと怖いと思えることが、わたし偉いと思う」

 つくづく言葉とは不思議なものだと思います。出会って二時間弱の名前も知らない女性の発した十秒足らずの単なる音波(このような抽象化思考を好むのは数学屋の性として認めていただきたい)でしかないその言葉が、ぼくの体の内にはっきりと、重く温かい何かを作用させ、その何かが膨張し心肺を圧迫して、行き場を失った血液が顔の表層に集まっていたのでしょうか、ぼくの顔は火照り目頭が震えていました。

「でも、そうね」と罰の悪そうな鈴木さんの声は続けて、「学校から遠い場所って、そんなところがあるの? ○△に?」と問い、しかし目元はお茶目な景色でしたから、ぼくの方でも気を取り直して、「あるんですよ。ああ、でも、詳しくは知らない方が身のためです。夜中の繁華街には近づかないように。これだけは忠告しておきます」とそれが如何にもイリーガルな領域の話であるかのように(実際イリーガルなのですが)お道化て答えて見せると、鈴木さんはくすくす笑って、「お生憎さま。わたしは主人の墓参りの、ついでに温泉にゆっくり浸かって、さっさと寝るつもりですから、いらない心配でした。ありがとうございます」と、〈ついでに〉にアクセントを付けて、さも温泉が真の目的ですよと言わんばかりの悪戯めいた笑みをこぼしました。


 鈴木さんとのそんなやりとりによって輪郭が付いたこの旅の目的を、簡単にしてナオミに答えますと、ナオミはたばこを揉み消し、盤上の駒を一手一手運ぶような口調で話し始めました。

「学校はおかしい、変わらないといけない。だから、学校から遠いところに行けばいい、そうすれば学校の変え方がわかるかもって? それが、地下格闘技場であって、わたしだったってこと? それで? ジョージ自身も変わりたかった?」それが賞賛ではなく非難の色をしていることは酩酊し始めていたぼくにもわかり、何がナオミの癇に障ったのか、大きな謎に取り込まれ、解決に導いてくれる探偵役はぼくの他に候補はなく、すでに二歩も三歩も出遅れてしまってはいましたが、ぼくは背筋を伸ばしてたばこを灰皿に置き、胸を半身彼女へ差し向け真剣さを見せて聞きました。

「そんなことで変わる訳ないでしょ。あんたも学校も。『自分で選んでばかりいたら』? 結局、自分で選んでるじゃない。わたしに従ったことも、ここを旅の目的地にしたのも、全部あんたが選んだんでしょ? それが、あなたを変える? 偶然、邂逅なんて言ってた? 何それ? 勝手にそんな大きな責任こっちに負わせないでよ。所詮、あんたは楽に逃げてるんだよ。そんな奴がわたしを勝手に、大きな物語の都合のいい装置にしてんじゃないよ」

 ぼくには彼女が何を言っているのか、何に怒っているのか結局わからず終いでしたが、どうも彼女の中ではぼくはもう詰んでいることだけは確かなようで、反論の余地はないらしく、仕方なく「すみません」と呟いていました。ナオミはパーラメントに火を付けて青い煙が照明の中を流れてぼくの前を横切っていき、「あんた、もう帰りなよ」と、冷たい他人になってしまった声がしましたが、ぼくはどうにか挽回できはしまいかと勘違いし、時間を稼ごうとあろうことか、一杯のウイスキーを手にして、「これ飲んだら帰ります」と答えていました。ナオミはポシェットを掴んで、「じゃあわたしが帰る」と立ち上がり、ぼくの後ろを通って出口に足を早め、憔悴してしまったぼくは何も声をかけられず握ったグラスを前に俯くばかりで、ナオミが立ち止まって振り返ってくれたことに気づきませんでした。

「あんた、先生なら自分が恵まれているって自覚しなよ。自分のこと、自分で選べる人ばかりじゃないんだから」

 それが最後の彼女の言葉でした。彼女にしてみれば発散しきれなかった怒りを最後に投げつけただけだったのかもしれませんが、ぼくにはとても不釣り合いな優しさだったようにも思えるのです。

 ホテルを後にし、宿に帰るためのタクシーを捕まえようと大通りに出ますと、道路上の案内標識に平和公園を見つけて、小雨が降っていましたが大した距離がないことをスマホで確認して歩いていくことにしました。雨に濡れる眼鏡をシャツの胸ポケットにしまうと、重度の近視に乱視そして雨によって、ヘッドライトや街灯はぶれてたゆたい瞬きました。ぼくは川を下って都会に流れついた魚の妄想をして、そのぼくは物珍しそうに浅瀬から夜景を見上げているのでした。そうでもしていなければ、この旅は初めから間違いだったのではないか、ぼくという存在自体がそもそも甘く無責任で社会に適さない人格なのではないか、とつい考え込んでしまいそうだったのです。


 光沢のないマットな黒塗りの廊下は、はめ込みの明かりが一列等間隔に続いているばかりで薄暗い印象を受けました。一直線のその長い廊下を進むにつれて足裏から伝わる振動は少しずつ強さを増していき、最奥のドアマンが分厚い観音開きの扉を開くと、けたたましいダンスミュージックが聞こえてきました。中は人で溢れ返り、音楽の隙間から男女を問わない歓声や狂声が聞こえて、二、三階ほどの天井高から吊り下げられた特殊照明が赤や青、黄に紫と次々に七色を転じてフロア中を走り回り、柱に抱きつく巨大スピーカーが人々を踊らせていました。中央に円形(と言いましても真円ではなく多角形による近似円)のリングが設置され、中でアジア系男性二人が総合格闘技で使われるような指抜きのグローブをはめて殴り合い、そのリングにほとんど張り付くようにして観客がぐるりと取り囲み、当然のように賭け事が行われ、罵声が飛び交っているのをぼくは遠目で見ていました。会場はすり鉢上になっていまして、リングとそれを囲む中央エリアから一段上がった外側は、ごった煮の中央に比べれば随分緩和されかろうじて人の間を縫えば歩けるくらいでして、ダンスに熱中する人が割合多いらしく、そこにはぽつりぽつりと胸高くらいの丸テーブルが置かれ、手にしたアルコールをそこに預けながら観戦する人たちもいました。そこからまた一段上がった最外円部のエリアにはアルコールを提供するカウンターがいくつか間隔を開けて並び、あとはスモークで仕切られた個室や座りの良さそうなボックス席が設置され、それらの隙間すきまにどこへ通じているのかわからない扉があり、そのどの扉にも決まって黒スーツのドアマンがいました。ぼくは入ってまずその外円エリアを歩いてカウンターでハイボールを貰い、半周ほどをぐるりと歩いて観察することから始めました。そこでは何の後ろ目を気にする素振りなく煙草を吸う人が何人もいましたので、ぼくも恐る恐る火を付け、ふーと煙を吐いてじっと首を回し、ハイボールを飲み指で弾いて灰を落としてまた咥えるなんてしていますと、特異なカップルが目に留まりました。その二人は中央エリアと外円部の中間エリアにいまして、一八〇センチ以上もあるような背の高い女(ヒールを履いていましたから実際のところは一七〇位でしょう)が握ったグラスを丸テーブルに置き、左手に構えたオペラグラスで熱心にリングを見下ろしているようで、その後ろから男が絡み付き荒い息を立てながら首筋にキスをして、片腕で腰を抱き、右手はカットソーの裾から入り込んで胸を鷲掴みにしていました。ぼくは二人をやや右後方から見つけましたので、女の化粧の施されたはっきりとした目鼻立ちと衣服の上からでもわかる豊満な胸がつくる綺麗な曲線から目が離せず、気づかれることなく一方的に見れる位置にいましたから遠慮なく、それは盗み見以上の堂々とした凝視ですらあって、たとえ気づかれようとこのアナーキスティックな空間で罪に問われる行為とも思えず、いよいよぼくを無頼漢に堕としていきました。

 そうしてそれから、ぼくはその二人のさらにその奥、人々が踊り乱れる波の中で、一人の女性を見つけることになります。それがナオミでした。ナオミは不思議な踊りをしていましたから、それだけ目立っていたのでしょうが、ぼくが彼女を見つけたのはそれだけが理由ではないように思えまして、それが運命であったと言えればいいのですが、実際は彼女の方でも客を探して、女の体を凝視するぼくの目に気づいてぼくに視線を送り、それを受けたぼくがまた勘づいてナオミを見つけた、そういう順番であったのだろうとぼくは考えています。ただし、彼女の踊りが独特で蠱惑的であったのも確かでして、リズムや音階に合わせて身を振り回しているだけの連中とは違うものが彼女にはあって、そこには何故かストーリー性を感じ、まるで何かと共に踊っているかのような背景感を、その表情や視線、抑揚から発していたのです。ダークネイビーの控えめな光沢をしたスパンコールのワンピースの上に、着物をリメイクしたかのような和柄のカーディガンを羽織って、その大きな袖をはためかせて踊る様はとびきりの傾奇者でした。

 煙草を踏み消し彼女に声をかけました。一体なんと声をかけ、どんな流れがあって買うことを提案され受け入れ、「カタカナでナオミと呼んで」と言われ、ジョージと名乗ったのか、梗概ばかりは把握できても文脈の一切を思い出すことができないほどの緊張状態にあったぼくは、ナオミに案内されるまま元来た廊下に出て、そこはフロアと切り離され微かな振動だけが漏れ伝わる程度で、静寂と言ってもいいくらいでして、比べてぼくの内側は不法行為に対する恐怖心と背徳感に激しくなった鼓動が満たしていました。誰ともすれ違うことなく、突き当たったエレベーターに乗って地上に上がり、エントランスを通って宿泊客用のエレベーターに乗り換え、彼女が仕事で使う低層階の一室に通されました。おそらくそのホテルの中で最低ランクの部屋なのでしょう、間取りは簡素なものでしたが、調度品を含めた全体の雰囲気はなるほど高級ホテルであるなと思わせるものでした。ナオミは使い慣れているのか、自室であるかのように振る舞い膝丈ほどの冷蔵庫を開けて二本のコロナビールを手早く取り出し栓を抜いて、一つをぼくに渡してくれました。

「本を読むかって聞いたでしょ?」

 夜景を取り込む大きな窓に向かったナオミがそう言ったとき、ここまで随分無言で彼女の後を付いて歩き彼女も何も話してくれていなかったことも自分を緊張させていたということを、やや安堵している自分を通して気がつきました。

「読まないって言ったけど、それはわたしには必要ないって意味なの」

 すでに彼女のビールの半分が無くなっていました。

「だって、所詮作り物のお話なんて、わたしには退屈なの。それに、文字だけなんてなおさらね」

 額が付きそうなほど窓に寄ったナオミとは、夜のガラス越しに目を合わせることができず、ぼくは後頭部の髪の分け目と白いうなじばかりを見て聞いていました。

「わたし、想像力が全くないの。もしくはあり過ぎるのかも。どちらにしても、文字を見たって何も思い浮かばない、文字は文字よ。

 わたしね、頭がイカれてるんだ。中学二年のころから、いろんなものが見えるようになった。初めは怖くって、見えないフリをしてた。七色の蝶とか天井に生える透明なキノコとか、そういう綺麗なものからそうじゃない怖いものまで。この世界のものじゃないナニカがわたしにだけは見えていたの……。こんなこと言われて、ジョージはどう思う?」

 ぼくの当惑のほどは甚だしかったですが、これから事を為そうとしている相手に不躾な物言いをする筈もなく、また最大限にナオミの機嫌を取りたいという下心があったのも事実で、しかし、並列思考が元来苦手なぼくにしてはその時ばかりは妙に冴えていたのか、踊るナオミに感じた不可思議を思い至り、心持ちを素直に言葉にしていました。

「驚きましたけど、納得できました。さっき踊っているときも、ナニカと踊っていたんですよね?」

「信じるの?」

 ぼくはしばし考えて、「疑ってるって意味じゃなくて」と断りを付けてから、「信じる必要ってありますか? 例えば、ナオミさんがビールを飲んで、おいしいって言ったとき、それを信じる必要ってないじゃないですか。信じるも何も、飲んだ本人がおいしいって言ったなら、それ以上でもそれ以下でもないでしょ?」何も言わない背中に、「同じことで、ナオミさんが見えているものがぼくには見えないとしても、そこに疑うとか信じるとかって概念が間に入る道理がないと思うんです。人それぞれ、生きてる世界は違っていて、ナオミさんの世界にはいろんなナニカがあって、ぼくにはぼくで多分違う何かがある」でも、自分の世界の中に閉じこもってばかりいれば、その世界は完結されてしまい変化は起きないから、だからぼくは外からの邂逅に光を求めたのでしょう。「それぞれ異なる世界の重なった部分のことを、ぼくたちは客観的な実体としての世界と呼んでいる。それがぼくの世界観なんです」

 ナオミはそうと呟き、ぼくを受け入れてくれたのでしょうか、回想話の続きを再開しました。

「変なものが見えて、びくびくして、だから周りからも変な子に見えていて。それで学校には行かなくなった。家の中は安全だったし。でも、高校からは行き直そうと思って、でも、結局駄目で。なんでわたしだけって、悔しくて毎日泣いてた。通信に転校したけど、スクリーニングって知ってる? 通信制でもたまには学校に行かないといけないの。それが本当に苦痛だった。それでもなんとか進級して、いよいよ卒業しないといけないってなった時期に、なんでかわからないけど、わたし吹っ切れたの。見ないフリはやめよう。見えていてもいいじゃん、って。そしたら、それまでは別の世界からはみ出していただけだったナニカたちが、世界ごとこっちの世界と重なって見えるようになった。今ね、すぐそこを赤い鯨が泳いで行ったんだよ」

 とナオミは振り向いて窓の外を指しました。当然、そこに鯨は見えなくて、照らされた飲食店の看板だとか、そうしたどこの繁華街でも見られる景色があるだけでした。

「綺麗でした?」と尋ねますと彼女は首を振って、「怖かった」と言いました。「鯨は怖いんですか?」と聞くと、

「あの鯨、多分こっちが見えるやつだったと思う。もしわたしに気づいて食べられたらって思ったら、怖いでしょ」と真面目な顔をしていましたので、「鯨は、人は食べれないですよ。小魚とか海老とかを食べるんです」と真面目に返しますと、彼女はなお首を振って、

「象みたいに鼻が長いんだもん。人だって食べるかもしれない」

 ナオミの提案を受けてぼくは先にシャワーを浴びることになり、お互いのスマホを交換して脱衣所に持っていき(これも彼女の提案で、美人局のリスクの低減と性暴力通報手段の保持の為だそうで)、ぼくは財布も携帯して(これは身分証を覗かれて後日ゆすりに遭わない為だと言っていました)、そうした提案ができるナオミの過去が窺え、また後学のための教育のようにも思えました。シャワーを済ませてアメニティの寝巻きに着替えて戻りますと、ナオミはベッドに寝そべった上体をゆっくりと起こして、「ジョージ、わたしに服従しなさい。そしたら、快楽を保障してあげる」とあの艶めいた目で言ってきました。大いに困惑しましたが益々これは邂逅なのだと確信したぼくが短く「分かりました」と答えますと、「裸になって、ベッドに上がって」とナオミは表情も声もサディスティック色にして言いました。着たばかりのその寝巻きをデスクに放って裸になり、ぼくが膝からベッドに上がるとナオミは「脱がせて」と、「シャワーは浴びないんですか?」と聞けば、「踊って汗をかいたわたしを愛せるのよ?」と全く唆すように言ったのでした。

 そしてそれから、ぼくは三度射精をしました。なんとも不可思議なセックスでした。ぼくから見えるナオミは一人でしたが、ナオミは二人がかりでぼくを虐めるようでして、見えないナニカに対しても奉仕するよう命じました。ぼくは四つん這いになってナオミに陰茎を舐められながら、ナニカのおそらく陰茎なのでしょう、得体の知れないものを口に咥えさせられ、当然見えも触れることも適わないその行為はひどく恥辱的なパントマイムでして、ナオミからは「もっと奥まで咥えて」などと指導され、「そう、そのまま強く」と評価され、答えの分からない苦行が快楽でもありました。そこでのぼくは二人を慰める道具にも等しく、騎乗位で揺れるナオミの美しい顔を見ようと首をもたげると、「それだとテトラ(おそらく人型のナニカでナオミの友人の名前)が気持ちよくないでしょ。顔は正面」と天井を向くよう強制され、ナオミが「ああ、テトラのそれ気持ちよさそう。代わって」と言ってぼくの顔に馬乗りになったとき、それがクンニであったことを知りました。そのまま今度はテトラがぼくに騎乗しているようで、腰振りの継続を命ぜられました。ぼくはあくまで道具でして、そこではぼくの人格は一切発露することはなく、ただひたすら彼女らの要求に応えることができるのかという能力だけが問われていましたが、喘ぎ声を聞き、「いいよ、もっと」なんて褒められると史上の喜びを感じていました。さらに、ナオミが汗の滲む満面の笑みで、上から覆い被さるようにぼくにキスをし、「わたしたちに遊ばれて幸せでしょ?」と問いかけてくれたとき、ナオミとテトラの仲間に入れたようでたまらなく嬉しかったです。


 シートベルト着用サインが消灯し周りがつと立ち上がって収納棚から手荷物を引き出す手際の良さを呆気に見上げていると、鈴木さんが、「でも」と、その前がどんな文脈だったかはもう思い出せないのですが、迷っていた言葉を決心して言い出す顔をして、

「老婆心から言わせてもらうとね、あらやだ、自分で老婆だなんて。でもいいわ、もうじっさい歳だしね。そんな私から言わせてもらうとね、あなたが行きたい場所って、学校から遠いところなんかじゃないんじゃないの? そんなところに行っても、たぶん何にもならないと思うの。あなたが本当に行きたい場所は遠いところじゃなくて、高いところじゃない? 学校を、もっと良いところ、現状よりも理想に近い高いところにしたいんでしょ? だったら、一息で行こうとしたら駄目よ。私の経験で言うとね、同じところをぐるぐる回りながら、あれもだめこれもだめって、一段一段少しずつ上がっていく。螺旋階段みたいなイメージでしか、物事は良くはなっていかないと思うの」

 別れの間際にどうしても伝えたいという切実さが、鈴木さんの声にはみなぎっていました。ぼくはあっさりと、「確かにそうかも知れないですね。ありがとうございます」と返して立ち上がり、収納棚からリュックサックを取り出しました。今なら鈴木さんのこの言葉の意味がわかるような気がします。ぼくはやっぱり現実から学校から生徒たちから逃げて、遠くに行きたいと思ってしまっていたのでしょう。もしまた鈴木さんに会うことがあって、「旅の目的は、達成できましたか?」と聞かれたら、今度ははっきりと「いえ、目的に対して手段が間違っていました。でも、正しい手段が見えたので、ある意味達成できたと言っていいと思います」と答えられます。

 でも、○△空港に着いたばかりのぼくは、

「ありがとうございました。さよなら」

 と言ってその場を立ち去りました。

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