第16話 本当の苦難はここから

 昨日は眠れなかった。眠れないのなら起きてしまえと、3時過ぎにリビングの電気を点けた。窓辺にひまりが立っていた。死ぬほど驚いた。鹿之助は幽霊の存在を信じている。ひまりを驚かさないように必死で声を抑え、息を整えてから

「眠れなかったのか。」

と、聞くのがやっとだった。ひまりがこくんと頷く。いとあわれ、とはこういう心情なのだろうか。手を引いて、ソファに座らせるとこわばるひまりに膝枕で寝かせてやった。

「もう少し寝ろよ。」

 ひまりの小さな頭を両手で挟むと、両方の親指で盆のツボを軽くもんでやる。ひまりが気持ちよさげに目をつぶると、今度は、眉の間を右手の親指で円を描くようにこする。

 昔、新しい小姓が入ると、はじめての宿直の際に緊張して眠れないものが多かったので、自然とこんな技を身に着けてしまった。宿直とは、寝ずの番をしなければならない役目のことだが、鹿之助は13歳やそこらの小さな子を一晩中起こしておく気になれず、必ず自分の隣に布団を敷いて寝かせていた。ようは鹿之助が油断しなければいいのだ。

 かちこちに固まってしまったひまりのからだが、だんだん弛緩していって、やがて、小さな寝息をたて始めた。知らないところに突然つれてこられ、知らない者たちに質問攻めにされ、見ず知らずの者たちとこれから暮らしていかなければならないとは、小学生の身には辛すぎる現実だったろうに。

 鹿之助は、完全にひまりが寝たとみると、まだ暖かいであろう自分のベッドにそっと寝かせた。会ったばかりだというのに愛おしさが急に湧いて出てきて、その大きな手でひまりの頭をなでなでした。まっすぐで柔らかい、まだ子供の髪だ。

 いつもの日課の朝の散歩、(今やランニングと変わってきたが)が終わると自分の部屋をのぞいてみる。ひまりはまだよく寝ている。シャワーを浴びるためにそっと着替えを持つと、大きい体に似合わぬ慎重さでドアを閉めた。


 今日の予定を全部キャンセルして、こまちちゃんとひまりを連れて医者のところへ行った。

 医者は、ポジティブなことしか言わない。

「愛情を持って接すれば、まだ間に合います。ゆるゆると行きましょう。」

 だそうだ。ひまりは書くことは時間をかければ普通にできる。ただ、考えたことが、言語中枢とつながっていなくて、言葉を組み立てることがしにくい、ということだった。

 ひまりは、夜働く母親に育てられた。とても聞き分けのあるおとなしい子だったらしく、隣人も子供がいるとは気が付かなかったほどだ。テレビも置いていなくて、生活音がしなかったらしい。

 母親に愛情がなかったわけではないらしい。ただ、無口な人だった。ひまりに聞いたところでは母親のことはよく覚えていて、仲良く手をつないで買い物に行っていたそうだ。子供のコミュニケーション能力が高かったのだろうか。会話をせずとも意思の疎通が出来てしまって、困らなかったのだろう。

 人間は普通、生まれるとすぐから、いろんなひと、特に母親の言葉を聞いて学習する。赤ちゃんだからまだわからないだろうと、話しかけをしないで育てると、人と話が出来なくなる。だから、母親は、子供が声を発するようになると、語り掛けをしなければならない。

「どうしたの。なんで泣いてるの。お腹すきましたか?おむつ変えましょうね。ほら、きれいになったよ。あー、汗かいちゃったね。お着換えしようね。喉乾いたかな?おぶぶ飲む?ほらご機嫌さんになったね。ん-いい子ちゃんですねえ。寝んねんしようねえ。」

 まわりの音も、学習している。生活音。テレビ。他人の会話。すべてが学習の対象で、起きているときに学習したものを、寝ているときに復習する。子供は寝て育つ、とはよく言ったものだ。

 思考回路と言語中枢が繋がるシナプスが生成されないまま大きくなると、大人になってからは回復できなくなってしまう。ひまりはまさしく、危ないところだったらしい。

 昔、鹿之助のお狩場に耳の聞こえない母と無口な猟師の父親に育てられた娘がいた。この家族は、ほとんどのコミュニケーションを目で伝えていて、それで通じてしまっていたために、15歳で娘が嫁に行った先の者は、とても苦労をして、話が出来るように育てたと聞く。その娘は、働き者で気働きが出来たため、配偶者に恵まれ大事にされて、結婚してすぐに生まれた子供と一緒に会話を学んだと聞いた。

 この子をひまりを育てるのは、だれだ?俺か?

 

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鹿之助,惑い悩む憂う @hosigame

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