最初のペンギン

kou

最初のペンギン

 夕暮れ時を過ぎた駅前は、すでに人通りもまばらだった。

 残業帰りのサラリーマンや買い物袋を両手に提げた主婦とすれ違いながら、中学生の少年──佐京さきょう光希こうきは家路へと急いでいた。

(今日はずいぶんと遅くなっちゃったな……)

 内心でそう呟いた彼の手に握られているのは、大きな紙袋だ。

 中身は隣町の図書館で借りてきた本であった。閉館まで読みふけってしまい、こんな時間になってしまったのだ。

 自宅には連絡を入れているので問題ないが、早く戻らなければ心配をかけてしまうだろう。

 急ごうと思った瞬間、駅構内の人の流れに何かを感じて立ち止まった。

 周囲を見回すが、特に変わった様子もない。

 気のせいか、と思い再び歩き出そうとしたとき、視界の端に何かが映った。

 目を向けると、そこには駅の壁にもたれ掛かるようにしていた中年男性が、ゆっくりと崩れるのが目に飛び込んできた。男性は苦しそうに胸を手で押さえると、そのまま前のめりに倒れこんでしまった。

 人が倒れる。

 非日常的な光景を前に光希は一瞬思考が停止してしまう。

 それは周囲の人も同様で、倒れた男性に対して遠巻きに通り過ぎるだけで何も行動を起こそうとはしなかった。

 冷めた視線だけが注がれる。

 電車の発車時刻に迫る中、人々は忙しそうに歩き、スマホを片手に操作している。倒れた男性の姿を見ても、足を止めようとしない人々の姿に愕然とする。

 いや、そうではない。

 人々は忙しいから、立ち止まっている余裕が無いだけだ。人にとっては見知らぬ他人を助けるより自身の時間の方が大切なのだ。

 そんな中、光希だけは足を止めて、じっとその男性を見つめ続けていた。

 助けたい。

 そう思った訳ではない。

 ただ、見捨てることが出来なかった。

 考えるよりも先に身体が動くというのはこういうことなのだろう。気がついたときには倒れている男性に向かって駆け出していた。

 同時に周囲から向けられた視線が鋭く突き刺さるのを感じた。

 まるで批難するような冷たい眼差しが一斉に浴びせられる。

 しかし、そんな状況にもかかわらず、光希は臆することなく駆け続けた。

 倒れた男性の側に辿り着くと、膝をついて声をかけた。

 だが、返事はない。

 光希が周囲に視線を向けると、少し離れたところで通行人達が心配そうにこちらを見守っているのが見えた。

「救急車を呼んで下さい!」

 大声で叫ぶと、近くにいた女性が慌ててスマホを取り出して電話をかけ始めた。その間にも光希は倒れた男性の様子を確認するために声をかける。

 保健体育の授業で習った救急処置を思い出しながら、呼吸の確認を行う。

 息は無い。

 死というものを間近で見たのは初めてだったが、不思議と恐怖心はなかった。それよりも、目の前の命を救うことに集中しなければならないという使命感にも似た感情が湧き上がっていた。

 まずは男性の気道確保をし人工呼吸が必要だと判断した光希は、すぐに実行に移すことにした。まず仰向けにして顎を持ち上げた後、鼻をつまみ口を覆いかぶせるようし息を吹き込む。

 2回。

 そして心臓マッサージを開始した。

 両手を重ね男性の心臓がある位置を強く押し込む動作を繰り返す。

 30回目。

 光希が再び人工呼吸を行おうとした時、青年が駆け寄っていた。

「僕が人工呼吸をする」

 青年は人工呼吸を始めた。

 そうしている間に女性が「救急車を呼んだわ」と叫んだのが聞こえた。

 非常事態に駅員が駆けつけて来る。誰かが呼びに走ったのだ。

 光希が動いたことで、周囲の人々がようやく動き出していたことに気付き、感謝の気持ちが込み上げてくる。

 自分は一人ではないと。

 だが、心臓マッサージを繰り返しても反応がない。

(クソ、どうすれば……)

 焦燥感が募り、思わず舌打ちをしたくなる気持ちを堪えつつ、光希は胸部圧迫を繰り返しつつ、念じる。


 お願いだから生き返って


 と。

 それは最早、念力を生じさせる行為だった。

 鬼気迫る光希に駅員や周囲の人間たちは圧倒されていたが、やがて一人、また一人と協力し始めた。

 それは駆け付ける救急隊の為の通路の確保であったり、救急車を呼びに駅前に出るものであったりと様々だ。

 次の瞬間、胸骨を押さえている光希の手に確かな手応えを感じた。

 男は激しく咳き込む。

 呼吸が戻ったのだ。

 それから数分後、到着した救急車によって男性は搬送されていった。

「あなたのお陰です」

 光希は、人工呼吸を行ってくれた青年に感謝を述べたが、彼は首を横に振った。

「君が《最初のペンギン》になってくれたお陰だよ」

 その言葉に、光希は思わず首を傾げた。


【最初のペンギン(first penguin)】

 集団で行動するペンギンの群れの中から、天敵がいるかもしれない海へ、魚を求めて最初に飛びこむ1羽のペンギンのこと。

 ペンギンは群れで行動し、魚を探しに海に向かうが、すぐに海に飛び込む訳では無い。海の中にシャチやトドといった捕食者が潜んでいるかも知れないからだ。だから最初の1羽が飛び込んだのを確認する習性がある。仲間が襲われなければ安全である証拠となるからだ。

 転じて、勇気を持って行動するという意味で使われる。

 その勇敢なペンギンのように、リスクを恐れず初めてのことに挑戦するベンチャー精神の持ち主を、英語圏では敬意を込めて《最初のファーストペンギン》と呼ぶ。


「君が、みんなを動かしたんだ。僕を含めてね」

 そう言って微笑むと、青年は去っていった。

 去っていく背中を見つめながら、光希は不思議な感覚に包まれていた。

 胸の奥底からこみ上げてくる熱い感情の正体を、彼はまだ知らなかった。

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