後編
決行日は動かせない。
《青の楽団》が様々な伝手を経由して神殿に「奉納」した多数の彫像のうち、仕掛けが施されているのはごくわずかである。これは仕掛けの発覚を避けるためであった。それゆえ、神殿の中に入るのは四人と決まった。
このうちの一人はもちろんハルクスであり、護衛のスコルピオの排除を担当する。残りの三人で他の護衛を排除し国王を暗殺する。そういう取り決めであった。
ハルクスたちは数日をかけて少しずつ食事を減らして体を慣らしていった。固形物をやめて、どろどろの流動食だけを口にするようになる。
ハルクス以外の三人は、彫像に武器を持ち込むことになっていた。これは暗殺者としては当然と言える。しかしハルクスだけは武器の類は一切を拒否していた。これも、あらかじめ取り決めしてあったことだった。
儀式まであと数日となり、ハルクスたち四人は夜中にアジトを抜けて神殿へと向かう。
他の三人は居残りのメンバーと固い抱擁を交わしていたが、ハルクスはそういうことはしなかった。ハルクスの目的はあくまでもスコルピオであり、この国の王政がどうなろうと興味はなかった。最後までハルクスは「同志」ではなかった。
ハルクスはしかし、ミトルとは最後の挨拶を交わした。
「《儀式》が終わったらすぐに街を出ろよ」
「いや、結果を見届けてからだ」
「……好きにしろ」
そうしてミトラはハルクスたちを見送った。
***
真夜中の神殿を、明かりもなしに手探りで進んだ。目的の彫像を見つけては、言葉もなく別れていく。
ハルクスは牛の彫像の中に入り込んだ。入り口を塞いでも、闇の深さは変わらない。しばらくはずっとこの闇に留まることになる。
ずっと膝を曲げていなければならないほどの狭さだ。ときどきわずかに姿勢を変えて、血の巡りを確保するのを忘れない。
暗闇の中に、時間を確かめるものは何もない。
永遠が続いているような気がした。
静かな空洞の中で、自分の息の音だけが聞こえる。空洞の中は、体温と、吐いた息が詰まり、居心地の良いものではなかった。空気穴はあるので、窒息することはないはずだが。
苦痛の闇の中、ハルクスは自分のこれまでの人生と、前回の人生のことを想った。
グナエスのことは尊敬していたが、はっきり言えば、彼の仇を討とうとする気持ちはなかった。
武闘家であれば不意打ちの可能性も考えておくべきだった。スコルピオがそうさせなかったのだろう。敵の方が一枚上手だった。残念だ、とは思う。しかしそれを不当なことだとは思わなかった。
ハルクスがスコルピオと闘うのは、前世から引きずっている、自分の中にある逃れられない
ハルクスは永遠を待った。
やがて神殿の外から、彫刻の中にも聞こえるほどの大きな鐘の音が鳴った。
ハルクスは彫刻の外に出た。
***
外に出て、ハルクスは昼間の光に目がくらんだが、その場にいる国王と、神官と、そしてスコルピオの姿を見つけた。スコルピオ以外の護衛はいない。
遅れて、他の彫像からも仲間が出てきた。
状況を理解した神官が真っ先に逃げ出すと、遅れて国王も走り出した。
「追え!」
仲間の誰かが叫んで、三人は国王を追いかけて《儀式》の間から消えた。
ハルクスは、スコルピオをまっすぐに見ている。
スコルピオも、ハルクスをまっすぐに見ていた。
もしスコルピオが、逃げ出した国王を守るために動き、ハルクスに背中を見せていれば、その隙を見逃すハルクスではなかった。スコルピオの方も、ハルクスの実力を分かっていて、不用意には動かなかった。
体が重い。
しかし近衛隊が踏み込んでくるまで悠長にしている余裕はない。
何日も地獄の中で体を動かさなかった。構えを取りながら、さりげなく関節の具合を確かめる。普段のように滑らかには動かない。筋肉も萎んでいる。裸足の下に、神殿の石畳のひやりとした感触を確かめた。
スコルピオは構えを取らずに、友好的に片手を上げた。
「お前たち、他にも仲間がいるのか? そこにいるのは――」
そう言ってスコルピオの方から視線を切り、つられてハルクスも意識をそちらに向けた瞬間。
スコルピオとの距離、普通なら三歩分を、奴は一足で縮めた。
スコルピオの左脚のローを、こちらもローで受けた。
ちぎれそうな衝撃。痛み。
さらに、ローとは対角線の、打ち下ろすような右フック。上体を反らすのがぎりぎり間に合って、こぶしが顔面を掠めた。
さらに左の直突き。これは腕でブロックする。衝撃をもろに受けて体が突き放される。
まずい。スコルピオに主導権を握られている。
スコルピオはハルクスよりも一回りは年上のはずだ。肉体の全盛期は過ぎている。それでもこの威力。この速度。そして迷わず不意打ちをするという抜け目のなさ。
それにしても、普段から常に鍛えていなければ、こんな動きはできない。
武芸指南役と身辺警護役を独占して権勢を誇っていたスコルピオは、すべてを手に入れてからも、刃を研ぐのを辞めていなかった。
うれしいよ、スコルピオ。
あんたも同類だ。
ハルクスの方から動いて、スコルピオとの距離を詰めた。
顔面に向けて拳を打ち込む。手で弾かれる。
構わず次のパンチを打ち込む。これも落とされる。
さらに次次次連打連打連打――。しかし相手のガードが崩れるよりも、ハルクスの呼吸の限界が先に来た。体が思うように動かない。コンディションは最悪だった。それを承知でこの場に立っているのだから、今さら文句も言えないが。
たまらずに後退――それにピタリとスコルピオがついてきた。
抉るような軌道で右拳が脇腹を打った。ハルクスは体を曲げながらも、次の攻撃に備えて防御を固める。その腕を取らる。
踏ん張ろうとしたときには体が浮いていた。
どういう投げ方――いやそんなことよりも、下は石畳、このまま落とされれば――
両足が浮いた瞬間、スコルピオの体に足の指を引っかけて、かろうじて落下を防いだ。
そこからスコルピオの顎に頭突き頭突き頭突き、腕をつかむ手が緩んだところで、足で奴の腹を蹴り飛ばした。体が完全に離れる。
危なかった……。石畳という、地の利を生かしているのはスコルピオの方だ。
スコルピオは両腕を広く構えて、じり、じり、と距離を詰めてくる。もはや
スコルピオが動く。姿勢を低くしてタックル。
ハルクスは、タックルの後頭部に肘を落とすつもりだった。しかしタックルは偽装で、突進を急停止してハルクスの肘をブロックした。
投げられる――。
ハルクスはそのタイミングに、スコルピオの無防備な腹に膝を打ち込んだ。
「ぬっ……」
「ジャッ!」
畳みかける。左のジャブを二つ、さらに右のストレート。
スコルピオはそれを搔い潜り、お返しにとハルクスの肝臓に拳が撃ち込まれる。顔面のガードが緩めば容赦なく直突きが飛んでくる。スコルピオの打撃の隙間にハルクスも反撃をねじ込む。足を踏み、拳を側頭に打ち込み、前進を頭突きで止めた。
体が重い。
この体は前世のおれよりも優秀だが、今はベストコンディションとは言い難い。
だがそれでも構わない。スコルピオと戦えるのであればどんな不利な条件だって。
それに、おれは幸運だ。間に合ったのだ。スコルピオの肉体が完全に衰える前に立ち会えた。
スコルピオ、お前が地位や名声のために戦っているわけじゃないことは、おれには分かる。
楽しそうに戦いやがって。おれの顔を殴るのがそんなに嬉しいのか。グナエスとやったときもそうだったのか? そんなに飢えているお前は、どうして今までそんな生き方ができたんだ?
おれはできなかった。これからは逃れられなかった。
なぜかは自分でも分からない。それでも自分の肉体を、武術を、強さを、誰かと比べ合わなければ気が済まないんだ。
なあ、スコルピオよ、どうしておれは戦っているんだ? なぜおれたちはこんなに飢えているんだ?
お前なら、その答えを知っているんじゃないか――?
同じ技が来ると思って構えていたらまったく別のことをされる。手技足技に集中して、意識の配分が変わったところですかさず投げに来る。判断を間違えれば一撃で倒されるだろう。そうなったとき、お前はおれの命にとどめをさすことを躊躇しないだろう。
そうして。おれの体にダメージが蓄積していく。
体中に、傷ついていない場所などない。全身の皮膚がジンジンと熱を帯びている。
お前の方は、どうなんだ。おれだって、できる限り殴っているつもりだが、あんたは涼しい顔をして立っている。それとも虚勢なのか。
スコルピオが後退した。さすがの奴も息が限界か。
おれも息を吸い込んで、吐く。深呼吸二回を済ませて、スコルピオに素早く距離を詰める。
スコルピオは、足を止めるためにローを放った。
そのときハルクスは跳んでいた。
ハルクスの両足が、空中でスコルピオの腕に絡んだ。さらに両腕両足で組み付く。空中の組み技だ。ハルクスの体が背中から床に落ちて、衝撃に骨が軋んだ。それでも両足でスコルピオの気道をしっかりと挟み込んだ。
暴れまわるスコルピオを締め上げる。
この世界にはない技。ハルクスが前世で身に着けた技術だ。スコルピオは逃げるすべを知らなかった。
スコルピオが、息を使い切るのをじっくりと待った。
静かだった。
ばたばたと足が動く音だけが響いて、やがてそれも聞こえなくなった。
***
国王の暗殺に端を発した混乱が収まらない中、組織の手引きでミトルは静かに出国した。
ミトルの向かう先はテュニア……
あの、狼のような男の顛末を。
餓狼の血には抗えず 叶あぞ @anareta
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