【ふるえる卵】恐怖の魔王の卵を託された少女と、守人の物語。

夢咲咲子

ふるえる卵

「あのう。生きてますか? 死んでますか?」


 朧月おぼろづきが心許なく照らす森。生死の境を彷徨う女は、血濡れた手で“卵”を掲げた。女に呑気な声を掛けた少女は、自分の顔程もあるその卵にきょとんとする。「ごはん?」と首を傾げる少女に、女は鉄の味の苦笑を漏らした。夜の森、体の上半分だけで這う自分を見て、この平然ぶり。――この少女は逸材かもしれない。


「この卵を、守ってくれ」

 きょとん顔のまま卵を受け取る少女に、女は最期の力で呪いを掛けた。“あずかびと”の印が女の額から少女に移る。女は「すまない」と言い残し、安らかな顔で絶命した。


 少女は動かなくなった女にすっかり興味を失い、手の中にある卵を見る。何か不思議な力を感じた。殻の内から手に伝わるそれは鼓動に似ている。「どんな味がするのかな?」と近くの石に叩き付けようとした少女の腕に、森の影から現れた何かが巻きつき、捕らえる。太く棘だらけの触手は、植物とも動物ともつかない生物だった。それは既に少女以外の血肉に塗れている。女はこれにやられたのだろうか?

 死ぬかもな……と思っていると、木の上で何かが光った。剣だ。勢いよく振り下ろされたそれに、触手がスパッ、バラバラッと切り落とされる。解放された少女は自分を助けた人物を見て、一瞬、女が生き返ったのかと思った。その人物も同じく全身を黒衣で纏っていたからだ。しかし足はあるし顔立ちも体格も違う、精悍な男である。


 男は少女の額に輝く印を見て息を呑み、地面に転がった女の屍を一瞥して「やってくれたな」と溜息を吐いた。


「とりあえず付いてこい。ここではまた狙われる」

「何に?」

「説明は後だ」

 男は少女の体を雑に抱えると、森を駆け出した。



 大木の洞。外からは子供が収まるくらいの穴にしか見えないが、その中は男の魔術により拡張され、小部屋ほどの空間が広がっていた。「すごーい」とキョロキョロしている少女の呑気さに男は呆れる。物を知らぬ子供でもない、十六、七歳には見える少女。警戒心の欠片も無いのだろうか。


「おい。先程の女から何か聞いたか? その卵をどうやって手に入れた」

「さっきのお姉さん? 声を掛けたら卵くれました。確か守ってくれって。あ、食べちゃ駄目だったんだ」

 惚けた事を言う少女に、男は頭を押さえた。少女より幾らか歳を重ねただけのその顔には深く陰鬱が刻まれ、彼を老けた印象にしている。


「いいか、よく聞け。その卵は……」

 男が重い口調で語り出すと、少女は興味を引かれ聞き入った。



 ――少女が託された卵は、かつてこの世を恐怖に陥れた“闇の帝王”の卵であるという。


 今から百年前、世界は闇の帝王に支配されかけていた。帝王とその眷属けんぞく達は生物の“恐怖”を糧にする。そのため彼らは、同族も異種族も問わず、日夜拷問や殺し合いを平然と繰り広げていた。彼らの支配から逃れる為に立ち上がったのが、人間だ。

 争いは長きに渡り、帝王軍と人間の双方に多くの犠牲を出し、人間が勝利を収める。帝王は最期の力を振り絞り、自らを卵に封印した。力を蓄え、再び目覚めるその時を、卵の中で待っているのだ。


 斧でも割れないその卵は、不思議な力で人間を引き寄せる。そして卵に魅入られた者とその周囲の人間の恐怖を吸って、成長する。帝王軍を討ち破った魔術使いの一族――男の一族は、国王の命により、帝王の復活を阻止する卵の守人もりびととなった。卵が誰の手にも渡らないよう守り、恐怖を感じない強靭な心で、卵が招く災禍や生き残りの眷属達と戦う。先程の女は眷属に襲われ、命からがら逃げた先で、少女に卵を託したのだ。


「お前の額に輝く印は、卵と所有者の命を繋げる“預り人”の呪印だ。これでお前は死ぬまで卵を手放せない。放り投げても戻って来るぞ。……いや、試さなくていい。全くあいつは厄介な事をしてくれたな」

 男は死んだ女に苦言を漏らす。

 守人一族は幼少期からの訓練により、どんな怪物にも怯まない精神力を持つ、恐れ知らずの駒だ。預り人が死ねば、別の守人が引き継ぐ。本来なら男が卵を拾い次の預り人になるべきだったのだ。あの女……姉は一体何を考えていたのか。


「びっくりな話ですね」

「……それだけか? お前はこれから死ぬまで、先程のように闇の眷属に狙われ続けるんだぞ。奴らはあらゆる手でお前の恐怖を引き出そうとしてくる」

「はあ。キリがなさそうですが、卵って本当に壊せないんですか?」

「壊せない。が、封じる方法はある。東のミカデ山にあるという“次元の狭間”は飲み込んだものを二度と吐き出さない。俺達はそこに卵を封じるため、西から旅をして来た」

「お兄さん以外の守人さんは?」

「あの女が最後だ。もう俺しか生き残っていない」

「じゃあ、わたしとお兄さんの二人旅になるんですね」

 男は眉根を寄せる。この少女は本当に話を理解しているのだろうか? しかし卵を抱えながら戦うのが不利なのは確かだ。この少女の恐れ知らずな呑気さに少し賭けてみてもいいかもしれない。


「俺の名はキース。持ち得る力を尽くしてお前を守ろう。だから何があっても、お前は恐れるな」

「はい、キースさん」

「……で、お前の名前は。便宜上聞いておく」

「わたしの名前? じゃあ、玉子たまこで」

 じゃあって何だ。今決めただろう……という言葉は飲み込んだ。他人に深入りすべからず。キースは「今日はもう眠れ。夜明けには出発するぞ」と言うと、壁に凭れ立ったまま目を閉じる。


 少女が少しでも恐怖を抱くなら、殺して卵を奪わなければならない。だが一般人は殺したくなかった。何を守ろうとしているのか分からなくなる。


(いずれにせよ、結果は同じかもしれないが)




 *




「キースさんって髪サラサラですね」

「それは今言うことか?」

 森の中、キースは玉子を抱え、眷属達の猛攻を避ける。「じゃあいつ言えば?」「黙ってろ、舌噛むぞ」キースは振り下ろされた鋭い爪を、魔力を込めた剣で弾いた。玉子は獰猛な獣の姿をした眷属には見向きもせず、青い光を帯びた剣を見つめて「魔術も綺麗」とうっとりする。キースは相変わらず呑気な玉子に、呆れを通り越して感服した。


 二人が行動を共にするようになってから十日が経っていた。次元の狭間を目指して旅する道中、度々眷属の妨害に遭い、卵がおびき寄せる災禍……肉食獣や盗賊に襲われたが、玉子はいつもこの調子である。まるで恐れを知らない。少女としては不気味だが、預り人としてはこの上なかった。恐怖を吸い取ると震えを見せる卵は、微動だにしていない。


 キースは呪文を唱え、魔剣で眷属を切り裂く。どろりとした黒い血が二人に飛び散った時、玉子は初めて僅かに顔を歪め「洗いたい」と言った。



 森の奥の泉で、玉子は服の汚れを洗う。それから自身も水に浸かった。水温は低く凍えそうだったが、まあ死にはしないだろう。卵を抱えながらスイスイ泳いでみた。実のところ、玉子はそれ程この卵が嫌いではない。ちょっとざらついて手に馴染む感じも、丸っとしたフォルムも、今のこの状況も。……卵が原因で仲間を失ったキースの前では、決して口にしないけれど。


「あれ?」

 玉子は水面の一部に違和感を抱き、泳ぎを止める。まるでそこの水だけ凍ったように揺れていなかった。水は玉子に気付かれるとボコボコ盛り上がり、たちまち大きな蛇の形となる。


(おお~本当に色々な眷属が居るんだな……あっ)

 玉子は何かあった時はすぐキースを呼べと言われていたのを思い出し、木陰で見張りをしている彼を呼ぼうとした。が、開けた口から水蛇が侵入してくる。


「ぐっ、おえ」

 声にならない。玉子の濁ったえずきにキースが駆け付けると、泉の中で玉子が液状の眷属に襲われていた。口から入り込んだ水蛇が、少女の薄い腹の下で蠢いている。キースは急いで水に飛び込み……玉子の鳩尾を殴った。「げえっ」と彼女が吐き出した蛇を魔術で蒸発させ、彼女を連れて泉から上がる。


「おい、大丈夫か」

 静かな卵は彼女の心の平穏を物語っているが、生理的な現象は別なのか、玉子は青い顔で口元を押さえ、胃の中のものを全て戻した。……すっきりしたみたいな、ちょっと恥ずかしそうな顔で視線を逸らす玉子。キースは血で汚れたままの黒衣を、躊躇いつつ彼女に被せ、水筒の水を差し出す。口を注ぎ終えて水筒を返した玉子は、引き換えに何か小さなものを握らされた。


「飴?」

「口直しに、舐めると良い」

「……キースさんって優しいですね」

「優しい男が容赦なく女の鳩尾を殴るか?」

「容赦なく優しい人ですね」

 玉子は飴の可愛い包み紙を開き、口に含んだ。すっぱ苦い不快感の残る口を、甘い味が塗り替えていく。「美味しい」と笑うのほほんとした玉子にキースは安堵の息を吐いた。


 目の裏には、苦しみに悶えていた細い体が焼き付いている。白い肌の上には無数の古傷……恐らくは暴行の後。それが何であるか。彼女が何の準備も無しに旅に付いて来れた理由を、聞いてはいけない。感情の芽を育ててはいけない。


 キースの懐をまさぐり「もう一個欲しいです」と飴を探す玉子を、キースはやれやれと押し戻した。




 *




 二人が旅を始めて一月。出来るだけ人里を避けて行動していたが、物資の補給や、どうしても避けて通れない場合、街を訪れることもある。これまでのどこより栄えた今回の街に、玉子は目を輝かせた。


「見て下さい、あの人、口から火を吹いてますよ」と大道芸人を見ては、自分もマッチを口に放り込もうとし「どんな物でもスパッと切れるよ」と叩き売りされている剣を見ては、触りたがる。キースは子守り気分で首根っこを捕まえて歩くが、傍から見れば年頃の二人は夫婦に見えるらしかった。


「仲良しご夫婦さん、熱々の焼き饅頭はいかが?」

「果物もあるよ!」

「綺麗な髪飾りはどうだい?」

 調子のいい商人達に声を掛けられ、玉子はおずおずキースを見上げる。「……どれか一つだけだ」と言うとその顔が明るくなった。玉子は過酷な旅の中でもいつも楽しそうにしている。キースは当初、それを気味悪く感じていたが、今はただの天真爛漫さと受け止められるようになっていた。閉ざされた一族の中では触れたことの無い賑やかな感情に、戸惑いながらも。


「キースさん、毒サソリと毒蛇の戦いやってますよ。これ見たい」

(選ぶものに、全く可愛げがないな)

 飾りの一つでも付ければ見違えるだろうに、と露店の髪飾りに目をやるキースは、己の感情を振り切るように彼女を追った。



 物資を補給した日の食事は、少しだけ豪華だ。街から離れた野原、岩影に張られた結界の中、玉子は焚火の上に鍋をかけ料理に勤しんでいた。キースは結界に近付く眷属の気配を感じ取り、戦いに出ている。

 キースの実力は、戦いを知らぬ玉子が見ても、最後の守人であるに相応しいものに思えた。守人一族は、次元の狭間に近付き眷属達の妨害が激化するだろう最後の時まで、彼を取っておいたに違いない。玉子は彼なら無事に帰ってくるという確信があった。なのに、どこか心が落ち着かない。


(このソワソワする感じ、なんだっけ?)

 知っているようで分からない。ずっと忘れていた何か。玉子の脳裏に卵を託した女の最期が浮かぶ。凄惨なその姿がキースと重なり――


「帰ったぞ」

 無事に戻ってきたキースを、玉子は「お帰りなさい」と満面の笑みで迎えた。そのやり取りにキースは街中で言われた“夫婦”の二文字を思い出すが、スンとした顔で胡坐をかく。


「今日は豪華にお肉も使って、シチューにしました」

 差し出された器には、ミルク色に浸るゴロゴロ野菜と肉。先程まで食欲を失う光景を目にしていたというのに、キースは自然と腹が鳴った。手を合わせてから、もりもり、ガツガツ食べる。


「美味い。お前の作る飯は、全部美味いな。料理人でもしていたのか?」

 それは無意識に口を突いた言葉だった。玉子は少し遠い目をして「美味しいなら、良かったです。作り甲斐があります」とだけ言った。それから自身も熱々のシチューに口を付けるが、冷まさず口に入れたためその唇が赤くなる。キースは「恐れ知らずなのはいいが、最低限の危機感だけは備えておけ」と、水で濡らした布を彼女の口に宛がった。


 卵は玉子の腕の中、そっと二人を見ている。動く気配は無かった。




 *




 ――東の果て、ミカデ山の頂上。三月の旅を経て、遂に二人は辿り着いた。

 見通せない深い崖の下には、次元の狭間があるとされている。そこは何もない永遠の無で、一度入ると二度と出てくることは出来ないという。


 待ち伏せしていた最後の眷属との、熾烈な戦いを終えたキース。これまでにない程の怪我を負った彼を手当てする玉子。キースは暗い気持ちで彼女を見下ろした。今までの人生で一番色濃く、長いようで一瞬だった彼女との旅が、ここで終わろうとしている。


「お前さん、どうして怖くないんだ?」

 死にかけの眷属が、どこで覚えたのか人間の言葉を吐いた。玉子が振り返る。


「預り人の契約は、死ぬまで解けないんだろ? お前さんはここで死ぬか、卵サマと一緒に次元の狭間に落ちなくちゃあならない。永遠に、孤独に彷徨うんだぜ?」


 キースの心臓がどくりと脈打つ。放っておいてもいずれ死ぬその醜悪な怪物に、その喉に、衝動的に剣を突き刺していた。


 怪物が言ったことは真実である。キースが玉子に伝えられずにいた、真実である。当初は黙って狭間に突き落としてしまおうと考えていたが、今はそうではない。ただ言えなかったのだ。彼女に、この世界の為に犠牲になってくれと。


 今、後ろで玉子はどんな顔をしているだろうか。その顔を見るのが――怖い。いつも通りの顔をしていても、怒りや悲しみを浮かべていても、耐え難かった。キースの剣を握る手が震える。


(俺は、玉子を失いたくない)


「キースさん……」

 キースの中に芽生えてしまった恐怖。玉子は手元の卵を介してそれに気付くと、慌てて彼に駆け寄り、その頬に触れた。


「大丈夫です、大丈夫。何となく予想してましたし。わたしは何も怖くないから。気にしないで。全て任せて」

「玉子……」

 キースはその手に触れようとしたが、玉子はするりと離れて行ってしまう。そして軽やかに走り、崖の縁に立つ。キースはぎょっとして手を伸ばすが間に合わない。


「さよなら、キースさん」

 少女の体が傾き、抱いた卵と共に崖下に落ちる。「玉子、待て、行くな」と乾いた声で紡いだどれもが、もう彼女には届かない。


 いつも呑気で楽しそうな、子供っぽい玉子。予想できない行動に目が離せなかった。彼女の作る料理は、過酷な旅の中での楽しみになった。彼女の笑顔が、心の安らぎに……自分の帰る場所になっていた。


「玉子……玉子!」

 ずっと封じていた感情が堰を切って彼の体を支配する。いつから彼女がこんなに大切になってしまったのか。彼女を失うということが、こんなにも恐ろしい。


 キースは空に向かい、咆哮した。




 *




 落ちる。落ちる。世界が足元へ吸い込まれていく。腕の中の卵はまだ、キースの震えを心地よく玉子に伝えていた。しかしそれも彼から離れるにつれ徐々に収まっていく。玉子が“下を見上げる”と、そこには陽炎みたいに歪んだ、大きな亀裂。恐らくその先が次元の狭間なのだろう。興味深くはあれど怖くはなかった。生も死も永遠さえ怖くはない。……あの日、玉子は恐怖を失ったのだ。



 ――幼い頃、玉子は森の奥の館へと攫われた。豪奢な館に使用人の姿は無く、人間離れした獣のような主人と、主人を恐れた大人達が献上していく子供が居るだけ。大人達が時々対価を受け取るのを見て、玉子は自分が貧しい両親に売られたのだと気付いた。


 集められた子供達は奴隷でも慰み者でもなく、食糧。そこは食人鬼の館だったのである。主人は子供を散々痛めつけ、恐怖で肉を仕上げてから食べることに拘った。毎夜館では血の宴が開かれ、子供の悲鳴が響き渡る。一人減ってはまた補充される仲間。食糧。やせ細っていた玉子は太らされる為に後回しにされ、その惨たらしい光景をどの子供より長く見続け……心が壊れた。恐怖心は消え、絶望を煽るだけの優しい記憶も、名前と共に失った。


 主人は恐れを抱かない玉子に腹を立て、あらゆる手段で恐怖させようと試みたが、無駄だった。その内自分に臆することない彼女に利用価値を見出し、手伝いをさせる事にする。玉子は主人が仕上げた肉を調理する料理人となったのだ。

 館の料理人となり十年程経ったある日。突然、主人が死んだ。持病か突発的なものだったのかは分からない。玉子はそっと食糧庫の鍵を開け、自分も館を出た。


 久しぶりに出た外は、広すぎた。空の青、森の緑、鳥の羽搏き、虫の音。世界はうるさく、ごちゃごちゃ、美しかった。失った恐怖は戻ってこなかったが、好奇心だけが生き返り、ムクムクと湧き上がる。玉子はそれからは気の向くままに、館から持ち出した食糧や森の果物で生きていた。そして卵を預かり、キースと出会った。


 一見無感情に見える彼の、驚いた顔。困った顔。玉子が笑うと、笑みは返さないものの小さく息を吐くところ。彼と居ると知りたい事がどんどん増えて、時間が足りなかった。彼にとっては重い宿命の危険な旅。玉子にとってはただ楽しかった旅。それが今、終わる。


 ……本当は優しい彼が、崖の上でどんな顔をしているのか。知りたいようで知りたくない。


 優しい彼を一人で残していくのが、悲しませるのが、××かった。



 玉子が亀裂に呑まれかけたその時、卵が大きく震える。玉子の感情を吸い取り満たされた卵は破裂し、二つの光を吐き出した。




 *




 絶望に打ちひしがれていたキースの頭上、一つの光が小さく収束する。青空に溶け込み浮いているのは年端も行かぬ子供で、その腕には玉子が抱かれていた。崖の縁に降り立つ二人に、キースはフラフラ歩み寄る。玉子はきょとんとキースと子供を見ていた。


 子供は髪も肌も真っ白で、つるりとした裸体は少年でも少女でもない。一体何者なのか。玉子は「あれ、卵が無いっ」と空っぽの腕に気付く。


「いっぱいになったから、生まれたよ。僕が」

 子供の底知れぬ白い瞳に、キースが警戒を露にする。一瞬だけ彼女を救ってくれた神かと思ってしまった自分が情けない。


「まさか貴様が、闇の帝王だとでも言うのか? 帝王は人間とかけ離れた姿だったと聞いているが」

「親は子に似る者だから。ね、母さん」

「え? わたしのこと?」

「うん。あんなに甘くて美味しい恐怖は初めてだったよ。父さんのも中々」

 父さん、と呼ばれたキースがあまりに意表を突かれた顔をしたため、玉子は思わず吹き出した。二人の目が合い、見つめ合う。


 ――恐怖にも種類がある。人が誰かを失いたくない、守りたいと思う恐怖。愛と言う恐怖が生んだのが、この子供であった。子供は美味な恐怖をもっと教えてくれと玉子にじゃれ付く。その見た目はただの子供にしか見えず、玉子は愛らしさと……罪悪感を思い出した。


 その時、太陽が隠れる。雷が落ちる。まるで世界の終わりのようなそれは、恐怖の帝王の復活を告げていた。卵から飛び出したもう一つの光……闇が、山の如き怪物となり、東の空に聳え立っている。――卵が吸ったもう一方の純然たる恐怖の姿だ。帝王は異なる恐怖で二つに分かたれたのである。


「遂に復活してしまったのか」

「わたしの所為です、ごめんなさい」

「いや、お前の所為じゃない。生きていてくれて……ありがとう。過去に一度は倒せた帝王だ。きっと今回もどうにかなる」

 キースは帝王に、剣を構える。玉子は彼の言葉に心が震えるのを感じた。白い子供は玉子に抱き着いて「この震えは恐怖?」と尋ねる。玉子は「これは……喜びだよ」と小さな声で教えた。


「ふーん。じゃあ父さんの震えは?」

「父さんと呼ぶな。これは……武者震いだ」

「えー、なんかそれカッケー! 僕も手伝ってあげる」

 白い子供はキースの横に並び立つと、その小さな腕を空に掲げた。強大な魔力がそこに満ちていく。二人の帝王の対峙に大地が震えた。


「これからもよろしくね、母さん、父さん」


 優しい恐怖が、無邪気に笑った。

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