雨の街、そしてその王

ミナガワハルカ

雨の街、そしてその王

 ——貴方の幸せが私の幸せ。

 誰かの声が聞こえた。

 誰の声、だったか。



 冷たい雨の中。気付くと俺は見知らぬ路地を歩いていた。

 雑居ビルの間の、細く狭く暗い道。周囲の物すべてが雨煙に霞む中、俺はレインコートを掻き合わせ、襟を立て、雨に打たれながら歩いていた。いつから歩いているのか、いやそもそもどこからどこへ向かって歩いているのか、わからない。何も思い出せない。そんな状態で足だけが動く。

 だがすべてがおぼろげな世界の中で、ただひとつ確かに存在しているものがあった。それは喪失感だった。俺の胸の中央に、ぽっかりと虚無が存在していたのだ。なぜそんなものが存在しているのか理由がわからない。なのに何か大切なものを失ったその感覚だけが、現実として俺をさいなんでいた。俺はその喪失感だけを抱えて、歩いていた。

 するとその内、再び意識がぼんやりとしてきた。視界がぼやけ、雨の音も、体を叩く雨の感覚も、すべてが雨煙の向こう側へ行ってしまいそうになった。そして胸の内に巣食う虚無が俺の体をこえて広がり、やがて俺を飲み込む……。

 その時、誰かに腕をつかまれた。

 振り返ると、腕をつかんでいたのは見知らぬ少女だった。雨に打たれながら少女はコートのフードの端を持ち上げ、真剣な眼差しで俺を見上げていた。

「やっと見つけた。おじさん、鈴原アキラだね」

 困惑する俺の腕を引っ張り、少女は言った。

「来て、私と一緒に」

 少女は俺の返事など待たず腕を引き、大通りに出た。

 通りの両側には明かりを灯した店々が並んでいたが、それらはすべて暗く冷たい雨に霞んでいた。店の戸口や窓際にぽつりぽつりと見える人の影はどれも動くことなく、ただじっとたたずんでいた。

 俺はようやく我に返り、少女の手を振りほどいた。

「待ってくれ、おまえは誰だ。なぜ俺を知っている」

 少女は振り返り、俺を見上げた。その表情の真剣さに、俺はたやすく気勢を削がれた。

「私はデイジー。知ってるわ、貴方のこと。それで、貴方はわからないのね。

「……なぜそれを」

 俺が驚くと、彼女はつぶやいた。「『預言者』の言った通りね」

 彼女は俺の顔を覗き込み、

「貴方は、『預言者』に会わなきゃいけないの。だから私と来て。元の世界に帰りたいでしょ」

 と、やはり俺を引っ張る。

 ——元の世界。今、少女は確かにそう言った。



「よく来たね、鈴原アキラ。待っていたよ」

 セルロイドの目をこちらに向け、マネキンはそう言った。

 デイジーが俺を連れてきたのは、通りに面する小さなブティックだった。引き合わされたマネキンは、ボタニカルな柄のワンピースと、ウェーブのかかった金髪のかつらを身に着けていた。だからなのだろうか。その声は女性のものだった。

「……俺を知っているのか」

「知っているさ。私は『預言者』だからね」

「なぜ俺を呼んだ。いや、教えてくれ、なぜ俺は何も思い出せない。なのにこの喪失感は……」

 不思議と、マネキンが喋るという異常はすぐに受け入れていた。それよりも、知りたいという気持ちがはやった。

「お前は、別の世界から来たのだよ」

 マネキンは、私の反応を確かめるように言葉を切った。

「お前はこの世界に迷い込んでしまった。でも、この街の住人には幸いだ。お前は、この降り続く雨を止めることのできる、唯一の存在なのだから」

 マネキンは優雅なポーズをとったまま微動だにしない。当たり前だ。マネキンなのだから。しかしそのくせ、目玉だけは動かしている。俺がゆっくりと移動すると、目だけで俺を追う。

「雨、だと」

「そう。この街では、雨が止まなくなってから、誰もカインに逆らえなくなった。奴はすっかり王様気取りさ。そして、雨を止めて皆を救えるのはお前だけ。止まない雨の真実がカインのもとにある。……に巣食う喪失感の真実と」

 マネキンは目で俺の胸を示し、言い添えた。

「お前のも、共にね」

 その瞬間。

 俺の脳裏いっぱいに、女性の姿が浮かんだ。

 誰かはわからない。だが瞬時に、知っている人だと思った。——いや、知っているだけではない。とても大切な人、のはずなのだ。だが、思い出せない。

 彼女の幻影からは温もりさえ発せられ、それは優しく、幸福に満ち、雨で冷え切った俺を芯から温めてくれるようだった。

 しかし、奇跡は一瞬だった。残酷にも彼女の姿は急速に薄れ、霧散し消えてゆく。後に残ったのは、再びの喪失感。すなわち虚無だった。もはや、どれだけ思い出そうと努めても、女の姿は露ほども思い出せなかった。

「今のは誰だ」

 しかし俺の呟きを無視して、マネキンは話を続ける。

「お前はカインのところへ行かなければならない。お前が記憶を取り戻して元の世界に帰るには、雨を止めるしかないのだよ」

 マネキンの白く冷たい肌が光を反射するのを見ながら、俺は確信していた。俺のこの胸に空いた虚無を埋めるのは、彼女だと。雨を止め、記憶を降り戻す。そうすれば、この深く大きな喪失感も埋められるのだと。

「どうやって雨を止める」

 俺は意気込んで尋ねたが、硬質なマネキンは淡々と答える。

「私にもわからない。それはカインが知っている」

「そいつから聞き出せと? 教えてくれるとは思えないが……」

 俺は食い下がったが、マネキンは俺を見つめながら言った。

「大丈夫。お前には、があるのだよ」



 デイジーが足を止め、建物を見上げた。

「カインの城よ」

 それは古く立派なホテルだった。

「カインは、誰も逆らえなくなってから、高級ホテルを占領して、手下を集めて、やりたい放題よ」

 エントランスホールは驚くほど豪華だった。大理石の床。伝統的な造形の椅子や机。ラウンジには革張りのソファ。高い天井からはシャンデリアの柔らかな光が降り注ぎ、生花の甘い香りと静かなクラシック音楽が空間を満たしていた。

 俺たちが入るとすぐに、品の良い老人が近づいてきた。

「どちら様でしょう。ご用件は」

 口調は丁寧だが、露骨に怪しんでいる。俺たちの返答次第ですぐに人を呼ぶのだろう。彼自身、拳銃くらいは所持しているのかもしれない。

 デイジーに目でうながされ、俺は老人に命令した。

「カインのところへ案内してくれ」

 途端に、老人は態度を一変した。

「……かしこまりました」

 うやうやしく頭を下げると、先に立って歩き始める。

 つまりこれが、『預言者』の言っただった。

「この街の人間は、お前の言葉に逆らえない。お前が言葉を発すれば、すべての人間がそれに従う」

「……それはつまり」

「そう、カインと同じ力さ。そして、私の考えでは、カインはこの街の人間。お前はこの街の人間ではない。……わかるね、この意味が」

 そう言って、マネキンは俺をじっと見つめたのだった。

「何だ、そいつらは」

 老人に案内されて部屋に入ると、奥から男の声がした。

「はい。ご命令通り、ご客人を案内して参りました」

「何を言っている。俺はそんな命令していない」

 老人は狐につままれたような顔で沈黙した。

 声の主は、奥にある一人掛けのソファに深く身を沈めていた。

 歳はおそらく四十ほど。座っていても長身なのがわかる。古びたジーンズを穿き、上半身は裸。たくましい肉体をあらわにしている。黒い波打った長髪と、日に焼けた肌。野生的な男だ。

 男は俺の顔を見て、何かに気づいたようだ。

「そうか、そういうことか。もういい、下がれ」

 彼はそう言って老人を下がらせると、ゆっくりと体を起こし、俺に鋭い視線を向けた。

「鈴原アキラか。止まない雨を止め、この街を救う救世主というわけだ。俺と同じ力を持った、特別な存在」

「そうよ。貴方を止めに来たのよ」

 俺の代わりにデイジーが答えると、カインという男は笑った。だが意外にも、その笑い方はなぜか寂しそうだった。

「デイジー、俺を裏切るのか」

「裏切ったのは貴方よ。いつまでこんなことを続ける気なの」

 デイジーが感情を爆発させ、叫んだ。だがカインは取り合わない。

「もういい。終わりにしよう。……デイジー、俺に従え」

 カインがなげやりにそう命じると、彼女は急におとなしくなり、「はい」と答える。

「デイジー、あいつの言うことを聞くな」

 俺が慌てて命じると、彼女ははっとして俺を見た。そして、何が起こったのか理解し、おびえた顔になる。俺はその顔を見て、急激に怒りが湧いてくるのを感じた。

 俺はカインに命じた。

「カイン、もうやめろ。俺に従え」

 だが。

「断る」

 カインは何食わぬ顔で言い放つと、ソファから立ち上がった。

「……そんな」

 デイジーがその圧力に押されたように、一歩下がった。

「どうした、驚いているのか。まさか『預言者』は、お前の力が俺に通じると、そう言ったか? 愚かな奴だ。与えられた言葉を伝えるしか能のない人形のくせに。遂に預言と自分の考えの区別もつかなくなったか」

 カインは俺に向かってゆっくりと歩き始めた。

「俺たちは誰かを操って戦ってもきりがない。なら一対一で戦うしかないよな、アキラ」

 逞しい筋肉を張り詰めながら、カインが近づいて来る。

「お前の顎を砕いて喋れなくすれば、それで終わりだ。そうすれば、もうその鬱陶しい顔も見ずに済む。……」

 俺は素早く懐に手を突っ込み、中身を引き抜いてカインに向けた。

 拳銃だった。

 両手で支えて銃口をカインの腹に定める。

「……驚いたな、どこで手に入れた」

「さっきの老人から」

 カインは諦めたように両手を上げ、ゆっくりと元のソファに戻ると、体を投げ出した。

「準備のいいことだな」

「雨の止め方を教えろ。止まない雨の真実とは何だ」

 俺が問い詰めると、カインは相変わらず笑いながら言い放った。

「いいだろう、そんなに知りたきゃ教えてやる。真実はこの扉の向こうだ」

 彼は目顔で横の壁を示した。そこには確かに、次の部屋へ続く扉があった。

「雨を止める方法は簡単だ、鈴原アキラ。お前が一人でこの奥の部屋に入って、出てくればいい。それだけだ」

「……何だと」

 俺はカインの真意を確かめようと、黙ったまま彼を睨みつける。

「入るだけではだめだ。出てこなければならない。お前がこの試練に打ち勝つことができれば、見事、雨が止み、記憶を取り戻したお前は元の世界に戻ることができる。めでたしめでたしという訳だ」

 俺は銃口をカインに向けたまま、扉をちらちらと見る。何の変哲もない、普通の扉。

「中には何がある。試練とは何だ」

「はっ、教える義理はないな。お前は選択するしかない。その部屋に入るか入らないか。そうだろう」

 俺はしばし逡巡した。しかし、答えは初めから決まっていた。

 覚悟を決め、扉に歩み寄る。

 右手を銃から離し、ノブに手を掛ける。

 訳もなく扉が開く。

 少し空いた隙間から中の様子を伺うが、暗くてよくわからない。俺は意を決し、隙間を広げて中に滑り込む。

「……美鈴みすずによろしくな」

 背後でカインが何か言った気がした。だが、扉の閉まる音がして、あとはそれっきりだった。



 その部屋は、まるで様子が違っていた。

 さっきまでの控えめな暖色に調光された室内とは違い、白く柔らかい光に満ちていた。

 床はフローリングで、南向きの大きな窓からは、風に揺れるレースのカーテン越しに、太陽の光を浴びて光る庭の植木が見える。

 だが、俺の視線はたったひとつ、中央に置かれたソファに囚われた。

 恐る恐る近づき、そこに横たわる人物を覗き込む。間違いない。幻影で見た、あの女性だった。一度幻影を見たきり、どうしても思い出せなかった、その人だった。

 女性が心地よく小さな寝返りを打った。

 その瞬間、俺の中を電撃が走った。

 すべてを思い出したのだ。

 そうだ、この女性は。美鈴みすずは、……俺の、妻。

 もう結婚して二十年近くになる。残念ながら子供には恵まれなかったが、二人で幸せな日々を送っていた。

 彼女のいない人生など考えられない。なぜ忘れていたのだろう。

 だが、……だが。

 俺はすべてを思い出してしまったのだ。

 そう、を。

 彼女は、死んだはずだ。一月前に、突然。

 俺の気配を感じたのか、彼女が目を開いた。

「――あら、貴方。どうしてここに?」

 その瞬間、俺は泣き崩れた。

 床に崩れ落ち、しかし両手で彼女の手を握りしめ、ただただ泣いた。

 会いたかった。ひとときも忘れることができなかった。

 そう、彼女を失ってから、俺は笑うことを忘れた。すべてがもう、どうでもよかった。虚無に食われることを、むしろ自ら望んでいた。

「……会いたかった。もう、もう。おまえを離さない」

 嗚咽と共に言葉が漏れた。心底そう思った。妻がこの世を去って以降、消えることのなかった喪失感が、胸に穿うがたれたくらく大きな虚無が、今、ようやく塞がれていた。欠けていた自分が、ようやく満たされていた。さっきまでの俺は、皮を剥がれて放り出されていたも同然だった。

 なのに、なのに。妻は言ったのだ。優しく温かい微笑みと共に。

「だめよ。貴方はこんなところ、出て行かなくちゃ」

 俺は涙でボロボロになりながら彼女を見た。彼女の笑顔に、俺はさらに涙を流す。

「悲しむのは仕方ないわ。でも、泣くだけ泣いたら、ここを出ていかなくちゃ。幸せになれない。言ったでしょ。貴方の幸せが、わたしの幸せ」

 俺は愕然とした。

 ――貴方の幸せが私の幸せ。

 そう、それはいつかの俺の誕生日に、彼女がくれたカードのメッセージだった。

 貴方の幸せが、私の幸せ。

 なんと愛に満ちた言葉なのだろう。これほどの愛がこの世にあったとは。

 その言葉の持つ愛に心を打たれ、その時俺は、改めて生涯かけて彼女を幸せにすると誓ったのだ。

 だが、彼女は死んでしまった。

「貴方は前に進んで、幸せになって。私の分まで」

 彼女の優しい言葉が降り注ぐ。

「でないと、私も幸せになれないわ」

 何と優しく残酷な言葉なのだろうか。

 ……俺はゆっくりと、彼女に口づけた。彼女も微笑みながら、それに答える。

 俺は顔を離し。

 彼女の目を見てうなずくと、彼女もうなずいた。


 俺はその部屋を、後にした。




 氷がすっかり溶けてしまったグラス。

 目が覚めると、そこはいつもの店だった。繁華街の小さなバー。ここのところ毎夜、記憶をなくすまで飲んでいる。

 目覚めたことに気づいたようで、マスターが気遣わしげに俺を見ていた。

「……水を、もらえるかな」

 俺が言うと、マスターは意外そうに、しかし安堵とともにグラスを置いた。それを一息に飲み干し、「ごちそうさま」と席を立つ。

「……大丈夫ですか?」

 マスターの表情に、私が迷惑をかけていたのはあの街の住人だけではなかったことに、今更ながら気づいた。

「ありがとう。とりあえず雨は止んだようだよ」

「雨、ですか」

 マスターは何か言おうとした。だが俺の顔を見て気が変わったのか、黙って微笑み、うなずいた。

 外に出ると、夜だというのに生ぬるい空気が俺を包んだ。そういえば、これから数日、雨が続く予報だった。

 喪失は、喪失のままだ。何者によっても埋められることはない。もちろん、また雨が降ることもあるのだろう。それが人生なのだろう。

 だがとにかく、一旦は止んだのだ。

 ――貴方の幸せが私の幸せ。

 俺はとぼとぼと、歩き始めた。

 明日に向かって。

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