最終回 涙は流さない
コードネーム『イドラ』は、結局逃してしまった。
幸い、民間人に被害が及んだという報告はない。
それは安心すべきことだが――「鬼人種を狩る」という退魔の者としての務めは果たされなかった。
『宰都特殊警備』の事務所内、女子更衣室のベンチに腰掛けた櫻子はうつむいたまま視線で床をなぞっていた。
古くからF県の退魔を担っている宮地嶽の家に産まれ、その任を全うすべく戦っているはずなのに、最近はずっとうまくいっていない。両手で持つ温かいお茶のペットボトルに指先の力が籠る。
◆
女子更衣室の前で、福間黑はどうすることもできずただ壁にもたれ掛かっていた。
主たる宮地嶽櫻子は、自身の任を果たせず沈んでいる。
彼女をどう宥めても、「いいの、私がいけないの」と寂しく笑みを返されるだけ。そうなれば、黑にはどうにもできないのだ。
「まったく、辛気臭い顔ですこと」
黑の元に、凛とした少女の声が響いた。
眩しいほどの金髪を縦ロールに巻き、赤と紫のドレスを身に纏った少女だった。
『鬼人種情報統制局』所属二級監視官、神宮寺
櫻子の担当監視官だ。
「標的は逃しはしましたけど、民間人に被害はなし。意識不明の退魔士が一人と重傷の退魔士が一人が出てはいますが、命に別状はなし。貴方の主は何をしょぼくれる必要があって?」
「それでも櫻子様は任を果たせなかった自身を責めておられる。鬼人種風情が、櫻子様の何がわかると言うんだ?」
凄む黑に対し、依玲奈は呆れたようにため息を吐いた。
「知りませんわ、人間如き下等生物の考えることなど」
肩をすくめて、依玲奈は首を横に振った。
「それで、あなたはそこで何をしていて?」
腕を組み、掌を上に差し出して依玲奈は尋ねる。
「主がめそめそしているのをただ黙って部屋の外で待っているだけ? あなた、本当に彼女の執事なの?」
「僕が出るまでもない。それに、櫻子様は泣いてなどいない」
「本当にそう思っていて?」
依玲奈の声は、鋭く冷えていた。
まるで氷柱のように、鋭利な絶対零度。
「例え涙を流していないのだとしても、心では泣いているものでしてよ」
「っ……」
「そっとしておく。それもまた選択の一つでしょう。ですが――ここ一年ほどあなた方を見てきましたが、そっとしておいて、それで何かお変わりが?」
黑は押し黙る。
それは確かにそうだった。所詮自分にできることはない、一人になりたいようであれば、自分はそれを尊重する。そうしてきて、何か変わったことはあっただろうか。
「彼女はもう、やめるべきですわ」
「やめるって……」
「退魔士を、ですわ。向いていませんもの」
肩にかかった髪を払いながら依玲奈が言った。
「何を無責任に……! 櫻子様は宮地嶽家に産まれたものとして退魔を全うしようと」
「あなたの主は所詮スペアでしょう? 当主が当主の役目を全うできなくなったときのための備品の一つ。それは彼女以外にもいるのだから、彼女一人いなくなった程度、何の問題もなくて?」
「スペアなど……! 櫻子様はそれでも産まれながらに退魔の任を背負った立派な一人の退魔の者だ……!!!!」
黑が依玲奈に掴みかかった。
だが――依玲奈は依然冷たい目を黑に向けるだけだった。
「無責任なのはどちらでして? 産まれがそうだから、と、向いてもいない任をただ受け入れることの方が無責任なのではなくて?」
「どういう意味だ」
「あなたも、あなたの主も、退魔士としての己に向き合っていない、と言いたいのですわ」
依玲奈の胸倉を掴む黑の手を、依玲奈の手が解く。
「もう一度向き合いなさい。貴方は貴方の主と。貴方の主は退魔士としての己と。そして、自分の道を、自分で見つけなさい」
それだけ言い残して、依玲奈は事務所を去った。
◆
翼が目を覚ますと、そこは病室だった。
窓の外が眩しくて、反射的に目をぎゅっと閉じた。
「私……何してたっけ……」
そうだ。『イドラ』と戦闘し、その際頭を強く打った。
それで、件の鬼人種は逃してしまい――翼は気を失った。
あれからどれくらい時間が経ったのだろうか。身を起こし、首を捻って病室に備え付けられているデジタル時計を見つけた。
そこには「202X/05/16 14:37」と記されていた。
「半日は寝てたみたいですね……」
頭がガンガンする。ずっと寝ていたせいか、頭を打ったせいかはわからない。
とにかく、まずは目が覚めたことを『特殊警備』に伝えなくちゃいけない。ナースコールを押し、看護師の到着を待ちながら窓の外に視線をやった。
ともあれ、状態は悪いものではなく、明日からでもまた活動可能とのことだった。
しかし大事を取って明日は学校も仕事も休むべきだ、と古賀に念を押された。
「荷物、事務所の方に置きっぱなしだったのあずさちゃんが持って来てくれたから」
「ありがとうございます」
淀代市西区の病院まで迎えに来た古賀の車の後部座席には、翼の荷物が置かれていた。
後部座席に座ると、車が発進する。病院前のロータリーを回り、国道へと出た。
平日の市街地とあって車の通りは少ない。西区は、山間部とそれを切り開いて作った住宅地、東区や中央区に繋がる国道沿いや駅などが存在しているため、東区や中央区とはまた違った景色がある。
翼の暮らすアパートや通っている淀代高校も、西区に存在している。
窓にもたれかかり、翼は流れる景色に身を任せる。
「――例の鬼人種、まだ発見されてないんだって。今恋ちゃんに、
「そうですか」
古賀の報告にも、力なく返事をするだけだった。
「逃がしちゃったのはまぁ、仕方ないことだよ。意味わかんないくらい強かったんでしょ? どれだけダウンさせても動き出すって、尋常じゃないよ」
はは、と乾いた笑いを上げて、古賀は一人で続ける。
「恋ちゃんが撮った映像も見たよ。やばいよね、なんかうねうねしててさぁ。どうしよ、たこ焼き食べらんなくなったら」
上機嫌に語っているようにも聞こえるが――無理して気丈に振舞っているのは明白だった。
きっと励ましてくれているんだろう。敵を逃がし、あまつさえ気を失った自分を。
「まぁ、……そんな感じだからさ、翼ちゃんは気に病むことはないよ。僕たちは退魔士で、鬼人種と戦う術を持っているけど――所詮ただの人間でしかないんだ」
慰めるような優しい声音。だが、その奥には冷えた感情が沈んでいた。
「だから鬼人種に負けてもしょうがない!! 次の仕事のためにも切り替えよう!! って僕は思ってるよ」
……でも、そうは言っても、と、古賀は続ける。
「『負ける』って言うのが心底しんどくて、死ぬほど悔しいっていうのは、僕も痛いほど知ってる。実際僕も悔しい。何もできなかった自分が、如何に無力で情けないか。それを思い知らされるのはいつだってしんどいよ」
圧倒的な実力差。
基礎的なスペックの断絶が、人間と鬼人種にはあった。
だからと言って諦めることはできず、立ち向かえど負け、己の無力さを痛感する。
古賀の声は、その感情は間違っていないのだと、翼の心をいたわるかのように感じられた。
それから、古賀は何も言わない。
悔しくて、辛くて、泣きたくもなる。
でも翼は泣かない。
涙を流すのは、あの日が最後でいい。
◇
202X年5月15日。
『放置区域』内のとある廃ビルに、明かりが灯っていた。
当然電気が引かれているわけでもないため、発電機を利用している。尚且つ、外部から気付かれないように弱々しい裸電球が部屋を照らしていた。
部屋の真ん中にはベッドが置かれ、そこに一人の少女が横たわっていた。
「霊気を大量に消耗しているようだな。傷の修復が間に合わない」
白衣を着た金髪の男――朽那将宗がベッドに横たわる長下部椿を見下ろしながら言った。
「それにしても――大したものだ」
だが将宗は、現状に反してどこか満足げだった。
「霊気不足を精神力で補うとは。霊気は精神からの影響を受けると言うが、並の精神力でこれほどまでの効果を発揮することは難しい」
彼女の精神力はよっぽど強いらしい。
「どうしてそこまで戦えるんだ? お前の精神力の根源は一体なんだ?」
ベッドの上で朦朧とした意識の椿の顔を覗き込み、将宗は尋ねた。
「愛、ですよ」
ふ、と口元を緩めて、椿は答える。
「私が、兄さんを愛しているから」
それだけ答えると、椿の意識は落ちて行った。
「……
その二文字を口に出す。
愛。
親愛。友愛。性愛。
漠然としていて、それでいて誰もが心に持つとされる、ソレ。
「くははっ……愛、……愛など」
――俺は愛されたことなどない。
だからこそ、この少女の境遇に惹かれたのだろう。
両親から愛されなかった彼女の人生に。
だが――それはどうやら違うようだ。
長下部椿を愛する人はいた。
そして、長下部椿もその人物を愛していた。
「――下らん。だが――その下らんモノがトリガーとなり得るとは。つくづくこの世は――面白みに欠ける」
冷たく吐いた。
◇
夜の淀代。
五月の夜はまだ少し風が冷たい。
「へぇ結構頑張ってたんだ、箱崎さん」
『放置区域』の空っぽの廃ビルの中で、水城在果はスマホの画面を見ながら笑った。
「さてと」
スマホをポケットにしまいながら、在果は廃ビルの出口へと足を向ける。
「あたしもそろそろ、動き出すとしますか」
メサイアコンプレックス 佐倉ソラヲ @sakura_kombu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。メサイアコンプレックスの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます