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 慈光院の事件があってから、五日ほどたったある日、藤ノ木警部の使いだという若い巡査がやってきた。鏡花先生が言ったとおり、江口の書類箱から小刀ナイフが見つかった。それは新聞紙に包まれており、血を洗い流したあとがあったという。光子に確かめると、江口の小刀ではないと言う。六兵衛の家からは抱水ほうすいクロラールが見つかった。度々、江口に飲ませてどのくらいの時間で目覚めるかを実験していたらしい。

 厳しい取り調べが始まって間もなく、六兵衛は自供を始めた。動機や殺害方法も、おおむね鏡花先生の推理通りだった。

 鏡花先生のおかげで、正しい裁きが行なわれることは、僕にとってもこの上ない喜びのはずだ。

 だが、僕の心は沈んだままで少しも喜びを感じることができなかった。なぜならあの日、慈光院から戻って僕と先生、そしてすずさんの三人でお茶を飲んでいると、先生がいつになく慌てたようすで立ち上がった。

 飲みかけの湯飲みに手で蓋をしながら、「寺木くん」と僕を叱ったのだ。

「あそこの紙を貼っていないじゃないですか。埃が落ちてくるじゃないか」

 先生は顎で天井を指した。あの紙を剥がしたところで、マツさんに呼ばれ出掛けてしまったのを思い出した。

「申し訳ありません」

 僕は畳に額をこすりつけて謝り、すぐに踏み台を持ってきた。すずさんが細長く切った紙と糊を手渡してくれた。

 羽目板に紙は貼ったが、僕は自分の失敗が許せなかった。温厚な先生が、普段よりちょっとだけ声を大きくして僕を叱ったのも、かなりショックだったのだ。

 あれから何日もたつのに、僕は気持ちを立て直すことができないでいた。先生の前では変わりなく振る舞っていたが、こうやって玄関脇の三畳に一人でいると、鬱々とした気分に襲われるのだった。

「寺木くん、すまないがあんパンを買ってきてくれませんか」

 先生が襖を開けて、ほんとうに済まなそうな顔で言う。

「なんだか急に食べたくなってね」

「わかりました。すぐに行って参ります」

 僕は弾けるように立ち上がると、外へ飛び出した。さっきまでの憂鬱な気分はどこかに消えていた。

 先生は今、『尼ヶ紅』の執筆中である。あの事件が今度はどんな物語になるのか、僕は楽しみでならない。自分の買ってきたあんパンがその一助になるのだと思うと、嬉しくてたまらないのだ。

 紅色に染まったちぎれ雲が、ゆっくりと流れていった。

 


                〈了〉


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水鏡花の幻 第二話 尼ヶ紅 和久井清水 @qwerty1192

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