第9話
築四十四年、木造二階建てのおんぼろアパート。
それが、美夜の新しい城だ。
五畳半のワンルーム。薄い壁から聞こえるBGMは、アダルトビデオの艶めかしい音声。実に、この街らしい。
美夜は壊れかけのイーゼルを窓際に置いた。
短い鉛筆と、使いかけの油絵の具のチューブが床に転がる。
ピンポーンと甲高い音が部屋に響いた。
「ミヤ~。僕だよ~。いーれーてー」
「僕なんて知り合いは一人もいない」
「ひどいヨ! 牛丼大盛りツユダクのお土産つきだヨ!」
「しかたないな……」
美夜は仕方なく玄関のドアを開けた。
深紅の瞳の吸血鬼が、白いビニール袋を目の前で揺らす。甘い牛丼の汁の香りと油絵の具の匂いが混ざり合った。
「入ってもいい?」
「イヤだ。おまえが入ったら狭くなる」
「ミヤは相変わらずひどいヨ! せっかく引越祝いを持って来たのにサ」
「牛丼だけ置いて帰れ」
「いけず!」
「ハイハイ。わかったから。……静かに入れ」
背の高い西洋人が入ると、天井が急に低く感じるのはどうしてだろうか。美夜一人だとそこまで感じなかったのに。
「それにしてもよく牛丼が買えたな」
吸血鬼の姿を認識できる人間は少ない。できあがったものを万引きでもしたのではないかと不安になった。
「三丁目の新しいバイトの子の目がいいんだ。ああいう子、時々いるんだよね~」
ウィリアムは鼻歌を歌いながら、五畳半の部屋をくまなく見回ったあと、部屋の隅に座った。床に散らばる油絵の具を寄せる。窮屈そうにフローリングの床に座る彼の姿は少し滑稽だ。
「僕も隣に引っ越してこようかな~。そしたら毎日一緒に遊べるデショ」
「馬鹿言え。おまえはあのタワマンが似合ってる」
「一人じゃつまらないよ。ね~、戻っておいでヨ。ここ、テーブルもないデショ」
「テーブルはそこの段ボールな」
美夜は衣類の入った段ボールをウィリアムの横に足で寄せた。ウィリアムの眉が驚きで跳ねる。
「あそこは快適だけどさ、俺には俺の城が必要なの。それは譲れん」
「頑固だなぁ~」
「その代わり、新宿に引っ越してきてやっただろ」
美夜は牛丼を掻き込む。口の中に広がる優しい汁の甘み。何度食べても食べ飽きることはないだろう。一口食べたら、止まらない。
美夜は拝島駅近くのアパートを引き払い、新宿へと越してきた。
「ミヤが居なくなって僕の心にはぽっかり穴があいてるヨ」
「ハイハイ。そう言いながら毎日来るなよ」
「ミヤは弱々だから僕が生きてる確認してあげてるんだヨ」
「そりゃどうも」
牛丼の最後の一口を飲み込む。朝から何も食べていなかったの思い出し、膨れた腹をさすった。
「で、今日はどうしたんだよ」
「明日、絵が飾られるらしいから、見に行こうってデートの誘いさ」
「そんなのメールで充分だろ」
「そのメールを無視する男に言われたくないヨ」
頬を膨らませるウィリアムに、美夜は肩を竦めた。
美夜の描いた『夜の新宿、十二単』はSNSでバズった。春から賑わせていた都市伝説を形にしたと話題になったらしい。
それを見て、新宿のホテルのオーナーがホテルのロビーに飾りたいと購入を希望したのだ。
ウィリアムはレンタルという形でその絵画をホテルに貸し出すことにしたらしい。
「俺の絵が、ホテルのロビーにね」
「すごいよネ。楽しみだなぁ~。額縁は特注なんだヨ」
「そうか。そりゃあ……楽しみだ」
こんな風に絵が評価されると、想像できただろうか。
いまだ信じられない。
明日、ウィリアムと共にホテルのロビーで飾られている姿を見たら、実感するのだろうか。
「そういえばさ、ずっと気になってたんだけど」
「なに?」
「なんであのとき、俺に声をかけたんだ?」
まだ嘘ばかりの絵を描いていた個展。ウィリアムは二度、美夜に会いに来た。気まぐれにしてはやけに食い下がっている様子だった。
しかも、十二単のオンナ捜しには非協力的だったのだ。
「あれはネ。僕が暇してたら知らない人に声をかけられてね。『あそこに居る子もあんたと同じでひとりぼっちだから、きっといい友達になれる』って言われたんだ」
「なんだよそれ。失礼な奴もいたもんだな」
「そうだネ。でもそのお爺ちゃん、いい人そうだったからサ」
「……お爺ちゃん?」
「そう。皺くちゃで、笑うと目が笑うお爺ちゃん。こーんな大きい眼鏡かけてたヨ」
「もしかして、この人か?」
美夜は荷物の中から皺くちゃになった似顔絵を取り出した。
「ワオ! そうそう、この人。美夜の知り合い?」
「いや……。わからん。どうだろうな」
「なにそれ。でも、描いたってことは会ったことあるんデショ?」
「ああ。二回だけ。孫と饅頭が好きなじいさんだよ」
美夜はウィリアムの隣に座ると、ゆっくりと目を閉じた。夜の喧噪が窓の外から聞こえてくる。
騒がしくて、今夜は眠れないかもしれない。
「ウィリアム」
「なに?」
「……散歩でも行くか」
了
夜の新宿、十二単 たちばな立花 @tachi87rk
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