家とミツバチ ③

 思わず傘を下げた。浅くなった息を整えるために吸った空気が、妙に鉄臭い。仲間との同調に影響されたのだ。

「誰だよ、こんなモン送りつけてくるの」

 くそ、と唾棄しながら、まだ視界の戻っていない目を見開く。

 誰の、と言いながら、同時に理解してもいた。イスラエルはパレスチナ人が新たな家を建てることを認めていない。それがたとえフェンスの内側のパレスチナ人自治区であっても、だ。家族が増えたり結婚をして手狭になった家を改築したり増築したりすることも禁じている。そうして勝手にプレハブ小屋を建てただろう、と言って、ブルドーザで家々を壊して回る。

 今まさに、その現場に立ち会わされている仲間がいるのだ。

 ボクも、何度も見た。そういう現場にパレスチナ人テロリストが反撃を加えないように、イスラエル兵だけでなくミツバチも警備にかり出される。一方的な「排除」を目撃するストレスで、ミツバチたちが羽音の制御を過っても仕方がない。

 ぼんやりと視界が戻ってくる。ボクの前にはずっと昔に壊された「遺跡」がある。そしてパレスチナ人の、ミツバチに憧れる子供が──頭を血に染めて倒れていた。

 いつの間にか、ボクの周囲にはイスラエル兵士が何人も立っている。全員が銃身を切り詰めたM-16を携えて、黒い覆面をしている。

「大丈夫ですか?」とヘブライ語で、ボクを気遣う。「テロリストピグアですよ。危なかった。きっとこいつは」半長靴の底で、倒れている子供の太ももを蹴りつける。「ミツバチデボラ狩りの罠だ。その辺に大人が潜んでて、油断したところをさらっていくんです」

 兵士が散っていく。周囲に大人のパレスチナ人がいないか確かめに行くのだろう。きっと無関係であってもミツバチ誘拐を企てたと主張して、片端からパレスチナ人を逮捕してしまう。

 そうわかっているのに、彼らを止めることができなかった。ボクの意識は足元に倒れた子供に吸い付けられる。

 頭を、撃たれていた。ボクの両手で包んでしまえそうな、幼く小さな頭だ。血で束になった黒髪の隙間に、鈍色の輝きがあった。

 ──脳を包む、生体コンピュータの膜だ。ボクたちミツバチが育てる、仲間の証だ。

 いや、おかしい。ミツバチになるには学校に入らなければならない。語学や世界情勢を学び、善悪を判断できる知識を身につけ、それから脳に生体コンピュータを注入される。それだってすぐに使えるわけじゃない。何年も訓練を受けて使い方を学び、育てていくものだ。

 そうしてようやく、十四歳以上になって初めて本当にミツバチとなる意志があるのか、と問われる。否と言えば、ミツバチとして派遣されることはない。

 この子は、まだ学校に入るのがせいぜいの年齢だ。たとえ脳に生体コンピュータを注入されたとしても、まだ親指の先ほどの範囲にしか育っていないはずだ。着弾の衝撃を得てなお脳の形を保っていられるほど強靱に育っているはずがない。

 ボクは、いや、ボクらは、嫌な結論に辿り着く。

 ──これは「お姉ちゃん」の生体コンピュータだ。拉致されてなお、この子や力なき人々を守ろうとしたお姉ちゃんは、なにかの拍子で死んでしまったのだろう。

 それでも大人たちは成熟したミツバチの性能を、飛来する爆弾の探知や軍の侵攻情報を得ることを諦められなかった。自分たちや家族の命を守るために。生き延びて国を存続させるために、どうしてもミツバチが必要だった。

 だからお姉ちゃんに憧れ、ミツバチになりたいと願った幼い子供に、育ちきったお姉ちゃんの生体コンピュータを移植したのだろう。

 でも、結果は明らかだ。この子はミツバチにはなれなかった。仲間の誰も、ボクの裾を引いたこの子を仲間だと認識できなかった。あまつさえ、イスラエル兵を呼んでこの子を死なせてしまった。

 いまごろ、ボクの頭を覗いていた仲間たちはパニックを起こしているだろう。ボクたちミツバチはみんな同一規格だ。ボクはボクらであり、仲間の全てがボクであり、ミツバチはひとつの大きな家族でもある。

 それなのに、ミツバチ仲間を死なせてしまった。

 倒れた子はもう起き上がらない。傘を求めたりもしない。お姉ちゃんと同じ規格の生体コンピュータに包まれて、ボクたちと同調し損ねたまま、死んでしまった。

 容赦のない陽光が降り注いでいた。血に濡れた髪の隙間で、生体コンピュータが眩く輝いている。

 ボクは自分の日傘を地面に置く。せめてこの子とお姉ちゃんとが静かに眠れるように、ふたりを日陰で包んであげる。

 んー、とミツバチの羽音がした。

 日傘の内張で増幅された仲間の囀りかもしれない。ボクが無意識に、死んだ仲間の遺志を読み取ろうとしたのかもしれない。

 ボクの輪郭が揺らいで、拡張され、ボクはボクらになる。腹の底がひどく冷たかった。悲しみなのか憤りなのか絶望なのか、全然わからない。ボクら全ての感情が混在している。

 ──ゆるさない

 誰かの憎悪が、ボクらを圧倒する。

 誰かの自制がひび割れていくのを感ずる。

 ボクらは、この場に駆けつけた兵士たちの個人情報を特定している。覆面など無意味だ。出勤記録、配置、通信。全部がボクらに共有される。誰が発砲したのかは関係ない。調べればわかるけれど、誰も知ろうとしていなかった。それなのに。

 ──逮捕しよう

 ──殺しては、だめ

 頭の隅で仲間が諭す。

 どうして? とボクは弱々しく反発を抱く。仲間が死んでいるのに、どうして殺した兵士を生かしておかなければならないんだろう。

 わからなかった。

 ボクは緩慢に立ち上がる。日傘を残したまま、砂利道へと一歩を踏み出す。水を湛えた「遺跡」に背を向けて、パレスチナ人たちを閉じ込めるフェンスの脇を抜ける。

 どこへ行けばいいのか、わからなかった。ボクの裡に灯った復讐心がボク自身のものなのか仲間のものなのか、お姉ちゃんの遺志なのかもわからない。

 足元がおぼつかない。ボクの周囲にはミツバチの羽音が絶え間なく響いている。いや、ボク自身が、なにかに縋りたくて羽音を囀り続けているのだ。

「大丈夫?」と子供の声がした。ヘブライ語を話す、Tシャツ姿の男の子だ。身を屈めて、俯くボクを覗き込んでいる。頭頂部にはお椀型の小さな帽子を留めていた。

 ──イスラエル人だ。

 ボクはパレスチナ人の装いをしているのに、その子は警戒心もなく手を伸ばし、ボクの体を支えてくれる。

「ねえ、大丈夫? 歩ける? 少し先に水場があるんだ」彼は整えられた爪の先で、砂利道の先を指す。「泳ぐことだってできるんだよ。体を冷やして、休むといい。一緒に行こう。古い遺跡なんだ」

 案内するよ、と無邪気に笑う彼に、ボクは「違うんだよ」と呻く。

「そうじゃない。体調が悪いわけじゃないんだ」

「じゃあ、家まで送っていくよ」

「家?」はは、と嗚咽じみた笑いがこぼれる。「家なんて、どこにもないんだ。ボクに家なんかないし、あそこは遺跡でもない。ただの、普通の、家族が住んでいた家だったんだ」

 知っていて、と懇願するボクを不思議そうに数秒見つめると、その子は急に興味をなくしたようにボクを手放した。身を翻して、砂利道を走り去る。


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家とミツバチ 藍内 友紀 @s_skula

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