家とミツバチ ②

 子供たちがすっかり逃げ去ったと思い込んでいたボクは、ガラビーヤの裾が引かれる感触に息を吞む。

 ミツバチは対電子機器のスペシャリストだ。テロリストはもちろん、犯罪組織だって狙っている。その辺の貧乏人だってミツバチを捕えて売りに出せば、豪遊して暮らす人生が二回おくれるくらいの金になる。

 なにより情報過多によって視界を失っているミツバチをさらうのは容易い。実際に誘拐されてテロリストの手元で働かされているミツバチの存在だって感知している。

 束の間、けれど致命的な一秒間、ボクはパニックに陥る。握っていた日傘を下ろして視界を取り戻そうと試みたくせに、仲間と同調する羽音の囀りを止めることすら忘れて鼻歌を奏で続ける。

「ねえ」と幼い声がした。ボクの腰くらいの位置だ。「お兄ちゃん、ミツバチアン・ナフール、でしょう?」

 アラビア語──パレスチナ人だ。舌足らずな話し方の端にわずかなヘブロン訛があった。

「ねえ、その傘って、どこで買えるの? お姉ちゃんがね、傘がほしいって言うんだ。ねえ、どこでなら買ってあげられる? これで」小さな金属音──たぶん小銭がこすれる音──がした。「足りる?」

 ボクの、内張に金属繊維が編み込まれた、ミツバチ専用の日傘のことだ。

「お、ねえ、ちゃん?」たどたどしくアラビア語を繰り返す。「お姉ちゃんは……これを」注意深く、日傘を肩に掛け直す。「必要としているの?」

 うんナァム、と妙に力強い返事があった。なにひとつ後ろめたいことのない声だ。

 別にパレスチナ人の子供がフェンスの外にいることは問題ない。身分証明書次第ではイスラエル人入植地を横断したっていい。問題なのは。

「……きみのお姉ちゃんは、ミツバチなの?」

「うん!」と再び弾んだ声が答えた。「お姉ちゃんはすごいんだよ。いつ空爆が来るか、教えてくれるの。この前もね、おじちゃんの家に爆弾が降ってくるって教えてくれたんだよ。だからみんな死なずにすんだの!」

「それは……」

 すごいね、と続ける声が萎んでいく。だって、パレスチナ人自治区にミツバチは派遣されていない。この子の「お姉ちゃん」は不当な暴力で誘拐されたミツバチだ。だから日傘を持っていない。誘拐されたときに落としたか壊したかしたのだろう。

「お姉ちゃんがね」と続ける子供がジャンプを繰り返しているのを、ガラビーヤの裾から伝わる振動で理解する。「言ったの。日傘があれば爆弾を止められるのにって。爆弾を送り返すことだってできるのにって」

 ミツバチはあらゆる電子機器にアクセスできる。爆弾を抱いたドローンを制御することだってできる。だからこそ、ミツバチが派遣される場所は国同士のパワーゲームによって厳格に管理されるのだ。

 ──五、六歳くらいの子供。ひとり。周囲に大人の姿はなし

 ──遠隔操作可能な爆発物は不所持

 ──二分でイスラエル軍が到着する

 鼓膜を揺さぶる子供の声と、脳に直接届く仲間たちの緊張感に満ちた声がごちゃ混ぜになる。ひどい不協和音だ。

 ボクはゆっくりと、今度は自分の意志で、日傘を下ろす。内張を丁寧にたたんでベルトで留める。アンテナたる傘を失ったせいで、仲間の声が脳内から消え去る。でも問題ない。ミツバチの脳は常に仲間に開かれている。たとえ仲間の声が聞こえなくとも、仲間はボクの脳を覗ける。ボクの眼球が映す情報を、仲間内で共有し必要な部隊を手配してくれる。

 仲間から注ぎ込まれる情報を止めたことで、数秒を経てボクの脳は視ることを思い出す。

 まず見えたのは、白い壁だった。ボクに石を投げた子供たちが遊んでいた「遺跡」だ。

「でね、お姉ちゃんが言ったの」と小さな子供の手が、視界の端で閃いた。「昔はこのあたりも、わたしたちの土地だったんだって。綿を育てて綺麗な布を作ってたんだって。だから日傘もきっと、まだ、この辺りでなら買えるんじゃないかって」

 くせっ毛の、男の子とも女の子ともつかない子だった。まだ四、五歳だろう。長袖のシャツと薄桃色のジャージを穿いている。砂埃で汚れた右手でボクのガラビーヤを摑んだまま、爪の間に土が詰まった左手で遺跡を指している。

うんナァム」とボクは頷く。すぐに「ううん」と首を横に振る。

 イスラエル人の子供たちが紀元前からの遺跡だと教えられているそこは、百年ほど前までパレスチナ人が住んでいた、ごく普通の家だった。この辺り一帯がパレスチナ人の村だった。当然、そのころはまだフェンスや壁で隔離され閉鎖された村なんて存在しなかった。

 この土地をイスラエル人の国にしようと考えたイスラエル人が、軍事組織や民兵組織を投入してパレスチナ人を追い出したのだ。住人が逃げ出した家屋を破壊し、二度とパレスチナ人が戻ってこられないようにした。そうして子供たちには「古い遺跡だ」と教えた。そして今も、イスラエル人たちはわずかな土地にしがみつくように生きるパレスチナ人を追い出そうと、フェンスで隔離したり壁の中に閉じ込めたり、銃弾や爆弾を降らせたりし続けている。

「残念だけど、この日傘は特別なんだ。どこでだって買えやしない。ミツバチだけが持てる傘なんだ」

 そんなことは「お姉ちゃん」なら知っているはずだ。知った上で、そういう口実でこの子をフェンスの外へ出したのだとすれば、それはSOSに違いない。

「きみの……傘をほしがっているお姉ちゃんは、どこにいるの?」

 え? と目を瞬かせてから、その子ははにかんだ。悪戯っぽく目を細めて「内緒なの」と囁く。

 刹那、ボクはちょっとした目眩を覚える。仲間の誰かが羽音の出力調整に失敗して、周囲の仲間がみんな脳を揺らされたときの感覚だ。ひどく懐かしい。こんなに下手な同調は、訓練生のころにした味わったことがない。

 新人か? それとも誘拐された仲間の情報に動揺したのか? とボクは仲間の強引さに苦笑しながら傘を開く。

 もう相手の顔は見た。すでに仲間たちが身元を照会し、背後関係を洗い、テロリストの手先か否かを突き止めているはずだ。

 金属繊維の内張が眩くボクの視界を染める。パレスチナ人の子供の姿がかすみ、情報の渦がボクの眼前にあふれ出す。

「ねえ、じゃあさ、わたしも、ミツバチに」

 なれる? と子供の問いが囁きとなって、ボクの鼓膜に届く。

 どこからか、ぱん、と乾いた破裂音がした。

「なれるよ。もっと大きくなったらね」押し寄せる情報に溺れながら、ボクは答える。「ミツバチの養成学校があるんだ。きみのお姉ちゃんだって、そこで育った」

 訊いてみるといい、と声に出せたかは定かじゃない。

 ボクの眼前には、瓦礫の海が広がっていた。光と化した情報じゃない。仲間の誰かが視た光景だ。

 瓦礫の狭間から覗く小さな手は、砂埃で灰色に染まっている。ドロドロとエンジン音を響かせてキャタピラ社の大型ブルドーザが、その手の上を横切っていく。運転席のぐるりを金網で囲っているのは、投げつけられる石から運転手を守るためだろう。山型に連なった履帯で瓦礫を踏み砕き、まだ建っているボロ家へと突進していく。倒れた壁や落ちた屋根の間から大人が這い出ようとして、轢き潰されていく。

 ボクは──いや、仲間の誰かは、呆然とそれらを見つめている。

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