家とミツバチ

藍内 友紀

家とミツバチ ①

 ヨルダン川西岸地区と呼ばれる一画、有刺鉄線を冠したフェンスで囲まれたパレスチナ人の村が点在する丘に、ボクの家はある。少し遠くにはエルサレムの白い町並みがかすんでいた。

 毎朝ボクは、ダボダボの丈の長い上着ガラビーヤを被る。頭には白地に黒い格子模様が刺繍されたクーフィーヤを着ける。中国製の、靴底がすり減り土埃で茶色くなったスニーカに足を入れる。ヒゲをたくわえていないことに目をつぶれば、アラブ人らしい──有刺鉄線とフェンスで閉ざされた村に住むパレスチナ人の装いをする。本当はヒゲも生やしてみたかったけれど、まだ十五歳のボクのヒゲは貧弱で、他人様にお見せできるほど豊かには生えなかったので諦めた。

 もっとも、ボクはパレスチナ人じゃない。イスラエル人でもない。だからといって、イスラエルの入植地に居住を許可されたパレスチナ人のように国籍を持っていないわけでもない。

 ボクが生まれたのは公海上に浮かぶコンテナ船で、身分証明書には生まれて初めて寄港したトルコの国籍が記されている。ボクは船で教育を受け、船を所有する会社から仕事をもらい、ここに派遣されてきた出稼ぎ労働者エクスパットにすぎない。

 そしてこのパレスチナ人らしい装いは、仕事上の制服のようなものだった。

 ボクの仕事にもっとも大切な道具は、日傘だ。日傘さえあれば、ボクはどこでだって働ける。



 日傘を手に家を出ると、外は眩く晴れていた。絶好の日傘日和だけれど、ボクは慎ましく傘をたたんだまま、砂利道を歩く。

 あちこちにフェンスに囲まれたパレスチナ人の村が点在している。どれもこれも、学校はもちろん病院だって存在しないような小さな村だ。

 だから毎朝、フェンスの切れ目に設けられた検問所ではスクールバスが何十分も足止めをくらっている。毎朝M-16を構えたイスラエル兵がバスに乗り込み、座席に座るパレスチナ人の子供たちひとりずつに銃口を突きつけながら、身分証明書IDカードを確認している。

 スクールバスだけじゃない。パレスチナ人たちは食料を買いに村を出るために、今にも死にそうな怪我を負った子供を抱えて病院へ駆け込むために、隣の村で仕事を終えて帰宅するために、毎回M-16を構えたイスラエル兵士に身分証明書を示して、テロリストとして手配されていないことを証明しなければならない。身分証明書の提示を拒否するのはもちろん、少しでも怪しい素振りを見せれば簡単に、逮捕状だの権利だのも関係なく拘束されてどこかへ連れ去られていく。

 本当にテロリストかどうかなど、ボクらが囀ればすぐにわかるのに。

 と毎日ボクは呆れながらイスラエル兵士たちの働きっぷりを見る。でも、あれはあれで、彼らにとっては意味がある「嫌がらせ」なのだ。

 毎日テロリストとのつながりを疑われ銃口を突きつけられる生活が嫌ならば、検問所で止められることなく病院に駆け込みたければ、村を捨て土地をイスラエルに明け渡せということだ。

 だからボクらにテロ対策を外注アウトソーシングしておきながら、ボクらを使わない。

 でもそれでは外聞が悪い。イスラエルは国際社会に自分たちの入植の正当さを認めてもらいたがっている。だからこそボクらに、この土地に残るパレスチナ人をも守るのだと主張するような、パレスチナ人の装いを要求する。

 そんな国の思惑に付き合わされるボクらの徒労感には、気づかないのだろう。

 朝からげっそりとしつつ歩いていると、建物の少ない界隈に出た。

 砂利道の脇にある白い石造りので、イスラエル人の子供たちが水遊びに興じていた。学校をサボったのかもしれない。

 崩れた壁と石造りの土台しか残っていない遺跡群を、イスラエルの子供たちは救世主を腹に宿した聖母がこの丘を歩いていたころの建物だと信じている。そう、大人たちが教えているからだ。

 でもボクは、それが遺跡じゃないことを知っている。

「あ」と子供たちの誰かが声を上げた。ボクを指差して、「なあ、あれ」と仲間たちを先導する。「アラブ人だ!」

テロリストピグアだ! テロリストピグアだ!」

「誰か、軍を呼んで来いよ」

「俺たちで逮捕しようぜ!」

 ヘブライ語の叫び声とともに、ボクの足元で石が跳ねた。子供たちが石を持って、遺跡から飛び降りてくる。フェンスや壁の外にいるパレスチナ人はたたきのめしても良い、と大人たちの行動を見て学んでいるのだ。

 ボクは足を止める。嘆息をひとつして、ゆっくりと彼らを振り返る。飛んできた石をひょいとひとつ避けてから、日傘に手を掛ける。

 子供たちの中でもひときわ背の高い子が「あ」と青ざめるのが見えた。

 お構いなしに、傘を開く。快晴の下にあって、その傘は攻撃的な輝きを放つ。金属繊維の織り込まれた内張が、白地に刺繍されたミツバチと蜂の巣模様が、太陽を反射して彼らの頬を白々しく照らした。「ん」と一音だけ、ボクはミツバチの羽音に似た鼻歌を発する。

 ──ミツバチ。

 子供たちが、そう呻く。

 ボクはもう、彼らの顔を見失っている。傘の内張でボクが囀った羽音が増幅され、周囲で囀るミツバチ仲間の羽音と共振し、肌や血液から脳へ──脳の表層を覆う生体コンピュータへ伝わる。

 ボクはミツバチの羽音に似た鼻歌によって、仲間と同調する。ボクの輪郭が揺らぎ、ボクが拡張していく。仲間の持つ視野、思考、情報。そういう全てが脳へと直接届く。近場の仲間の情報が、その仲間を中継地点としてさらにその先の仲間が持つ情報が、さらにその先の情報が、膨大なデータとなって流れ込む。そのデータを処理するために、ボクの脳は視覚情報を遮断する。

 目の前には光の奔流と化した情報だけがどこまでも広がっている。

 仲間の脳は常にオープンだ。ボクらは仲間の脳に根を張る生体コンピュータの全てにアクセスできる。のみならず、おおよそ全ての電子機器とも同調する。一般市民の持つスマートフォンからイスラエル国防軍IDFの秘密通信、スマートキー搭載のメルセデスから高高度を飛ぶ無人偵察機。

 とりわけ、この地に派遣されているミツバチはテロリストの通信や遠隔操作爆弾、爆弾を抱えたドローンなどの監視を主要任務としている。人々の命と安全を守るミツバチは当然、人々からも守られるべき存在だ。

「やばい」と囁き合った子供たちが逃げていくのを、聴覚だけで把握する。でももう遅い。ボクが日傘を開き仲間と同調した瞬間から、彼らの顔データはあらゆる情報と照合されている。すでにボクの頭の中には彼らの名前や家族構成から、出生届や身分証明書までがリストとなって届いていた。

 ──サブラだよ

 と、仲間の誰かが教えてくれるのを、脳の表層で直接聞く。

 サブラとは、イスラエル生まれのイスラエル人を示す言葉だ。失われて久しい言葉だと思っていた。なにしろイスラエル人がパレスチナ人たちの土地へ入植を開始したのはずっと昔の、それこそ西暦一九六七年頃のことだ。あの子供たちの高祖父の時代にはもう、この土地の大半はイスラエル人が占拠していた。もはやサブラではないイスラエル人を探す方が難しくなっているくらいだ。

 ──夜にはみんな逮捕されてるよ

 ──石があたったことにしておこう

 仲間たちが次々に警察に通報を入れているのを、頭の片隅で感じる。彼らの罪を重くしてやろう、という提案に、みんながクスクスと笑っている。

 どのみち、ボク個人が事情を聞かれることはない。ミツバチは個人じゃない。ミツバチの脳に埋め込まれた生体コンピュータは全て同一規格だ。ボクの思考や発言は全てボクらのそれであり、ボクはミツバチである以上ボクらでもある。ボクが受けた暴言や暴力は、ボクら全員が受けたことになる。

 そして、ミツバチに暴行を加えることは、重罪だ。それが未遂であろうとちょっとした悪戯心であろうと関係ない。年齢も問われない。すぐに逮捕され、程度の差はあれ必ず刑罰が科せられる。

 だから油断した。

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