淫らな獣

下東 良雄

淫らな獣

 幸せな毎日を送っている。

 仕事も順調。出世に興味は無かったが、やりがいのある仕事を任されて期待以上の結果を出しているので、今やそれなりのポジションだ。

 家に帰れば、大好きな妻と可愛い娘が待っている。家事が完璧な妻。せめて食事の後片付けをしようとするが、ゆっくり休んでと妻から止められてしまう。娘もまだまだ父親の私にくっついてくる年頃なので、食後にいつも楽しい時間を過ごしている。



 今日の仕事が終わった。今日は取引先から直帰の予定。明日は土曜日、家でゆっくりできそうだ。

 そのまま最寄りの駅へ向かい、帰宅ラッシュで賑わうプラットホームで列車を待つ。


[――――――]


 反対側のホームに停車した逆方向へ向かう列車。その行き先表示に書かれていた駅の名前に、私の心臓の鼓動が強くなっていく。私はあの列車に乗ったことがある。


『――――――』


 あるセリフが女性の声で脳裏に蘇った。

 私の中の獣が首をもたげる。


 これはいつかの記憶だ。

 私をあの場所へ連れて行ってくれた列車が、今目の前で停車している。


 今を生きる私にとって、過ぎ去った日々は文字通り過去でしかない。


 なのに、戻りたいと思った。もう一度あの場所に行きたいと思ってしまった。

 思うやいなや、無意識に踏み出した一歩が、私をあの場所へ連れて行く。


『今日は残業で帰れない』


 滑り込みで乗り込めた反対方面への列車。多くの帰宅客と揺られながら、私は妻にメッセージを送った。


 すっかり夜も更けた頃、列車は終着駅に到着した。乗客もまばらだ。

 私は駅を出ると、駅前の寂れた繁華街へと足を向けた。もう記憶も随分薄らいだが、身体が覚えているようだ。

 そして私は、ある古びた雑居ビルへと足を踏み入れた。薄暗いエントランから狭いエレベーターに乗り四階へ。がくんがくんと不安になるような揺れ方もどこか懐かしい。

 蛍光灯が切れかけていることを主張する中、カビ臭い通路をゆっくりと進んでいく。


『OPEN』


 看板すら出ていない店の扉に掛けられた開店中を示すボード。


「まだやっていたのか」


 私はポツリと呟いた。

 心臓の鼓動が早くなっていく。

 私は期待と不安を抱えながら扉を開けた。


「あら、こんばんは」


 扉の向こうには黒いドレスに身を包んだ妖艶な女性がひとり、バーカウンターに座り、こちらに顔を向けていた。

 心の奥底に封じていたあの頃の記憶が勢い良く湧き上がってきた。

 女性も私の顔を見て、同じように頬を赤らめる。


 女性は甘い香りを残しながら、私を素通りして扉に向かい、ボードを『CLOSE』に、そして扉の鍵を閉めた。

 そのまま私の方に向き直り、本当の自分を隠していたヴェールを外すかのように黒いドレスを脱ぎ、その場にストンと落とした。生まれたままの姿を晒す女性。

 私もその場にカバンを落とし、すべてを脱ぎ捨てる。


 お互いに微笑み合った後は、もう言葉などいらなかった。

 あの頃のように、そして空白の時間を埋めるかのようにひたすら求め合う。そこには理性も倫理観もなく、夜空が白む頃まで獣のようにお互いをけがし合った。


「またいらっしゃいな」

「そうだな、ありがとう」


 最後に口づけを交わし、私は朝日を浴びながら帰路についた。



「ただいま」

「お帰りなさい。朝ご飯はどうしますか」

「今朝はいいや。ありがとう」

「そう。じゃあ、少しお話があるんだけど」

「わかった。じゃあ寝室で」


 私は妻を伴って、二階の寝室に向かった。

 娘はどこかへ遊びに行っているようだ。


 寝室に入り、振り返る私。

 妻は優しい笑顔を浮かべている。


「どうしたん――」


 言葉を言い終わる前に、左頬に強い衝撃と鋭い痛みが走った。

 妻が私の頬を叩いたのだ。


「どうして叩かれたか、分かってるわよね?」


 何も言い返せない私。


「やってしまったことは仕方がないわ。それから――」


 右頬に強い衝撃と鋭い痛みが走った。


「これは娘を裏切ったことへの制裁」


 そうだ、私は妻だけでなく、娘も裏切ったのだ。

 自分のしたことがどれだけ罪深いことだったのか、右頬の痛みに思い知らされ、うなだれる私。


「そして、これが最後――」


 先程の二発とは比べ物にならない程の強さで左頬を叩かれた。私はその場に倒れ、尻もちをついてしまう。

 妻が顔を間近まで近づけてきた。微笑みを浮かべてはいるが、目がまったく笑っていない。


「お前、誰がご主人様か忘れたか?」

「い、いえ……」

「忘れてないのに、他の女と寝たのか。あぁ?」


 妻は本気で怒っている。


「も、申し訳ございません! 女王様!」


 私はその場で土下座し、床に額を擦り付けた。

 そんな私の髪の毛を鷲掴みにして、頭を持ち上げた妻。


「おい、その女を連れてこい」

「えっ……」

「まとめて面倒見てやる」


 額に冷や汗が流れる。


「お前も、女も、普通の責めで終わると思うなよ」


 その言葉に、被虐嗜好の性癖による期待が心の中を占め、女性の心配など霞のように消し飛んだ。

 私は思い出した。私の獣は捕食される側なのだと。


「いつもみたいに『お許しください』なんて言葉で手加減しねぇからな。お前は知ってるよな、私がガチのサディストであることを」


 妻から発せられる獣の吐息が寝室を埋め尽くしていく。誰にも止められない獰猛な嗜虐の獣。その目に睨まれて身動きが取れない私は、どのように捕食され、どのようにこの身体が咀嚼されるのか、その期待に打ち震えるのだった。



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