駐在員と市街戦  (後篇)

    第十一章


          1


 十二月十二日の朝十時頃、その日も老人と真壁が一緒に作業をしていると、突然、作業小屋に女将が姿を現し、叫ぶように言った。

「昨日、野党の大統領候補がアキノさんに統一されたの。これでマルコスの勝つ可能性はなくなったわ」

 女将の声が子供のようにはしゃいでいる。老人と真壁は作業の手を止め、テーブルのある居間へ三人で移動した。

「ほうっ、話がまとまったのか。ラウレルというのはたいした男だね。プロの政治家なのに、政治の素人に、よくも大統領候補を譲ったもんだ。もっとも、アキノに比べると熱狂的な人気には欠けているから、その辺はわきまえていたのかな」

 原田老人が、タオルで汗を拭きながら言う。

 即座に真壁はマニラへ戻る決意をした。マルコスが劣勢となれば、日本人駐在員に構っている暇などないのではないか。そうでなくとも、今やマルコスは無茶なことは出来ないはずである。日本人駐在員を殺してスキャンダルでも発生すれば、当選する可能性は完全になくなってしまう。もはや支払いにこだわっている状況にはないと真壁は推測した。

 それでも、油断は出来ない。万が一ということを考えれば、支店への出勤は勿論、宿舎へ戻るのも危険だ。出勤は避けられるが、寝る場所をどうするのか。ホテルに泊まるのは、軍の情報機関に察知される恐れがある。

 長井や小川に頼るか、日本大使館に相談するか真壁は迷った。女将の厚意にすがるのが、この間の経緯からして都合が良いのだが、おんぶに抱っこという訳にはいくまい。店の常連客というだけで、これ以上甘えるのには心苦しいものがある。

「私の知り合いにアパートを経営している人がいるの。マニラへ真壁さんが戻った時に必要になると思って、賃借りの話をしてあるのよ。場所はマカティの『サルセド・ビレッジ』で、家具・電話付きだからすぐにオフィス代わりにもなると思うわ」

 願ってもない話が、女将の口から出てきた。幸いにも、会社の口座がある銀行の小切手帳は、「サンロレンソ」に駐めた会社の車の中に隠してあり、賃貸契約に必要な残高もある。

 真壁が礼を言うと、

「これくらい先のことを考えておかなければ、料理屋の女将は務まらないわよ。遠慮しないで」

 笑顔を浮かべながら、いつものようにさっぱりした口調で女将が言う。

 わずか二泊三日の滞在であったが、別れる辛さを心に感じながら老人の家を後にした。一宿一飯の義理などというものではない。命を救われた上に何かを教えてもらった、自分を取り戻したという感覚が真壁にはあった。



          2


 マニラへの帰途、遅い昼食をとるためにラグナ州サンパブロ市に立ち寄った。市の周辺は土地の起伏が多く、道も曲がりくねっている。

 四十年前、サンパブロは、旧日本軍の藤重兵団による後方無人化作戦、つまり住民の大量殺戮が行われた町であった。ラグナ州ではロスバニョス、カランバ、サンパブロ、隣接するバタンガス州ではタナワン、バウアン、リパ、ロザリオなど多くの町で、数万人のフィリピン人が殺害されたと、車を駐めながら女将が言う。

 沿道沿いのレストランに入った。レストランといっても、ガラスも何もない、柱と屋根だけの風通しの良い店である。色とりどりの裸電球が屋根の周りに飾り付けられており、夜は居酒屋になるのだろう。

 パンシット(フィリピン風焼きそば)を食べながら、女将が語った虐殺事件を思い出していると、真壁のお尻はむずがゆくなってくる。

 周囲の目が急に気になった。自分と同じ日本人の手により、この町で、この地面の上で多くのフィリピン人の血が流されたことを思えば、とてもではないが、悠長に食事などしていられない気分である。店の客の中に、被害者の親類縁者がいてもおかしくないのだ。

 じっとしていられないのは、いつしか周囲のフィリピン人が日本人である自分に気付き、襲われるという恐怖感からだろうか。

(俺は臆病だなぁ。何で怯えているんだろう。マニラの市街戦といい、ラグナ、バタンガスの虐殺事件といい、全ては親の世代がしたことじゃないか。俺がやったわけじゃないんだ。それに、もう日本は生まれ変わっている。虐殺なんぞ、俺の知ったことか)

心の内で真壁は厭な気分を振り払おうとしたが、罪悪感に似た不安は拭いきれない。

 次第に心臓の鼓動が激しくなった。他の場所ならいざ知らず、実際に殺害が行われた現場で恐怖心に捕らわれると、精神も肉体も異常をきたすものらしい。

「どうしたの。顔色が悪いじゃない」

 女将が心配そうに言いながら、

「分かるわ。この街で、この周辺で、何が四十年前に起きたか、貴方は考えているんでしょう。でも、殺されようとしたフィリピン人を、救おうとした日本人もいたのよ」

「そんな日本人がいたんですか」

 真壁には初耳であった。日本人を美化するための作り話にすら思える。

「信じてもらえないかもしれないけど、このサンパブロにいたのよ。住民殺害を命じられた憲兵隊長が良心に耐えかね、町の幹部を逃がしてから脱走したの。中尉だった人で、彼は師団からの処刑命令を遅らせるだけ遅らせ、兵団司令部の使者が抗命を理由に逮捕に来る寸前に逃げたのね。でも、逃亡中に田んぼの中で射殺されてしまったそうだけど」

 女将の言葉に真壁は勇気づけられた。言われてみれば、日本人だからといって、皆同じ筈がないのだ。あの軍国主義の時代で、しかも軍人でありながら、朱に交わらず、己の良心に従って命を落とした人物もいたのである。

「いきなりだけど、訊かせてもらうわね。真壁さんが教職を離れたとき、何かあったんでしょ。学校に迷惑をかけたくなかったから辞めたと言っていたけど、私には信じられないわ。格好良すぎるもの」

 女将が真壁の目を覗き込んでいる。赴任早々、「鳥羽屋」で話したことを、彼女は言っているのだった。上っ面の説明は、とっくに見破られていたのである。

 なぜか真壁の心は素直になっていた。助けてもらった恩もあるのだろうが、何よりも、変わらない自分の臆病さから、この辺で解放されたいという思いが湧いている。今こそ嘘臭い言い逃れはするまい。真壁は覚悟した。

「すいませんでした。嘘をつくつもりはなかったんですが、あまりにみっともなくて……」

 五年前の職員室で、強面の男から詰め寄られ、臆病心から逃げ出したことを真壁は打ち明けた。

「そうだったの。確かに、怖い顔をした男から脅されたら、誰だって逃げ出したくなるわよ。私にはよく分かるわ」

 真壁の心境を理解している言葉を聞いて、女将の顔が違って見えた。理解してくれる人がいた喜びが湧くとともに、事実を隠していた引け目が真壁の心から消えていく。

「でも、商社マンになって、少しは変わったでしょ。その辺のことは、どう考えているの」

 女将から質問され、真壁は心許ない表情を見せた。確かに強くなった気はするが、これまで避けてきた問題だけに、どこがどう強くなったのかは自分でも見当がつかない。

「よほどのトラウマになっているようね」

 考え深げな顔を女将が見せた



          3


 夜の帳がおり始めた頃、「サンロレンソ・ビレッジ」の女将の自宅に着いた。早速、女将はアパートの持ち主に電話をかけ、即日、入居が可能になる。

 女将に言われた「サルセド・ビレッジ」の住所を探し当て、アパートの部屋の前に来ると、フィリピン人の青年が立っていた。大家の息子だと言う。

 鍵をもらい、ワンルーム、フィリピンではスタジオタイプと呼ばれる部屋に入った真壁は、早速、仕事に取りかかった。まずは、本社への報告である。

 三日間、何の連絡もせず支店を留守にしたことで、本社は大騒ぎになっているかもしれなかった。というのは、女将に連れられていった町には電話がないため隣町まで行ったのだが、通信事情の悪い田舎では「ロングディスタンス(長距離)」と呼ばれる方法しかなく、マニラへ繋がるまで四、五時間待たされるのは当たり前で、真壁が申し込んだ時は、二日待ちと言われていたのだ。

 夜八時、日本は九時である。もう誰も残っていないだろうと思いながら本社へ国際電話を入れると、栗山部長が出てきた。

「三日間も支店に顔を出さず、何をしていたんだ。お前のしたことは、敵前逃亡だぞ。帰国命令を出すから、明日にでも戻ってこい。これは社長も了解済みだ」

 真壁の報告を聞こうともせず、いきなり部長の怒鳴り声が聞こえた。

「報告が遅れ申し訳ありませんでした。月曜の夜、『エドサ大通り』で襲われたんです。理由はお分かりと思いますが」

 あえて不払いが理由で襲われたと言わずに、真壁は謝った。

「何を言ってるんだ。襲撃されたのは、君が市議会議員を説得できなかったからじゃないか。何でもかんでも他人のせいにするな」

 部長が真壁の話を遮った。遠回しな真壁の言葉が、癪に障ったらしい。

「私が悪いと部長は仰るのですか。元はと言えば、不払いのせいじゃありませんか。散弾銃を持った男に私は襲われたんですよ。殺されかければ、逃げるのが当然じゃないですか。それとも、平の社員は死んでも構わないと思っているのですか」

 真壁は声を荒げて言い返した。殺されかけた上に職場放棄と見なされ、帰国すなわち解雇というのはあまりにも理不尽である。部長へ初めての口答えをして、まるでマラソンランナーかのように、真壁の心臓は激しく波打っていた。

「責任転嫁もいい加減にしろ。しかし、それほど言うなら、お前の苦労に免じて帰国命令は撤回してやっても良い」

部長が急に態度を変えた。真壁の口答えに驚いたようでもあるが、海千山千の部長のことである、何を言い出すかと真壁は気を引き締めた。

「その代わり、大至急、ひと仕事してもらいたい。というのは、つい一時間前、『ホンエイ商事』の社長室から電話があって、至急、マニラの影山顧問に会うよう依頼されたんだ」

 帰国命令が取り消され、真壁は安堵した。影山に会うのは気が進まないが、首になることを考えれば何のことはない。エリザベスのことも頭を掠めた。

 部長の本心は真壁にはお見通しである。「東比」の幹部は、大統領の怒りを恐れてフィリピンには入れない。別の社員を送って、新たな生け贄にするのも気が引ける。そこで、一度生け贄にした真壁を、そのまま使おうという魂胆なのだ。そう考えてみれば、真壁を帰国させる意図などは最初からなく、敵前逃亡だ帰国命令だのと真壁に精神的圧力を加えて、予め準備していた命令に服従させようと目論んでいたのであろう。

「影山顧問に会う件は了解しました。ところで、また襲撃される可能性があるので、しばらく事務所を移すためにアパートを借りようと思うのですが、よろしいでしょうか」

 新しい仕事を依頼されたことに乗じて、真壁は仮事務所の許可を申し出た。

「寝ぼけたことを言うな。支店は我が社の前線基地だぞ。たとえ一時的でも、移転などもってのほかだ。みっともない真似をするな」

 一方的に電話が切れた。言いたい放題の部長であったが、半ば予想していたことでもある。

 それにしても、影山に会う理由が分からない。本社が「ホンエイ商事」と日本でやりとりすれば済む話ではないのか。日本を離れたマニラの地で、一体、何を話してこいと言うのだろうか。

 あれこれ不審には思うものの、勝手に推測しても始まらない。真壁は影山に連絡を取った。



          4


 夜九時、影山から来るように言われたのは、マカティ地区の中心部を走るアヤラ通りに面したアパートだった。アパートメントと名が付いているが、日本なら最高級のマンションである。

 玄関で応対に出てきたのは、二十代半ばの若い日本人の男だった。無愛想そのものの青年で、瞬きもせずに前だけを見ているような、不気味さを漂わせている。いつぞや長井が言っていた、何をしでかすか分からない連中の一人に思われた。

「久しぶりだな」

 応接間に通されると、ソファーに座ったまま影山が薄笑いを浮かべていた。影山とは、二ヶ月前にマビニのナイトクラブで顔を合わせたきりであるが、ふと最初に会ったときの影山の姿を思い出してしまう。ナイトクラブの女に「シャラップ」と怒鳴り返され、へたり込んだ老人の姿だ。

 窓際にある応接室から横目で真壁が外を見ると、眼下には一流デパートの「ルスタン」、外国資本の「インター・コンチネンタル・ホテル」や広い駐車場が夜空の下に佇んでいる。

「早速だが、話を始めようか。まず、君に見せておくものがある」

 テーブルを挟みソファーに真壁が座ると、テーブルに置かれていた見開きのファイルから、数枚の書類を影山が取り出した。出張帰りなのか、影山は背広姿である。

「君の全てがここに記録されている。読んでみるかね」

 影山の表情には、真壁をもてあそぶ様子が見て取れた。

(俺の全てだって。大袈裟なことを言いやがって)

 そう思いながら手渡された書類をざっと見ると、真壁の過去を記録した個人ファイルのようであった。まず戸籍謄本、次に現在の住民票、そして法務省発行の「無犯罪証明書」がある。どれも本人でなければ入手できないと思われるが、大きな組織をバックにしている影山には可能なのだろう。

 驚いたのは最後に納められていた一枚のブリントとだった。個人年表のようなもので、簡単ではあるものの、そこには真壁の経歴と行動が書かれている。

 

File No. 1950ー1012592 

本名 真壁進次郎(マカベ シンジロウ)

 一九五十年(昭和二五)

九月 東京大田区蒲田生まれ

 一九六九年(昭和四四)

四月

 稲穂大学教育学部歴史科学専修入学

 読書研究会に入る(山本石太、黒山信士、

 池林伝一郎らと友人関係)

 一九七十年(昭和四五)

十月二一日

 ベトナム反戦デモに参加

十一月

 数人の友人に三島由紀夫の義挙を批判

 一九七三年(昭和四八)

三月 稲穂大学卒業

四月 社会科教師として千葉の中学へ赴任

 一九七四年(昭和四九)

四月 教職員組合加入

六月 授業で偏向教育(ロッキード事件に言及)

 一九七五年(昭和五十)

四月 船橋から千葉へ転居

 一九七七年(昭和五二)

四月 同僚の沼林景子(英語教師)と交際

七月 教師仲間の飲み会で参議院選挙結果を

批判(一票の格差に言及)

 一九七八年(昭和五三)

六月 授業で偏向教育(侵略戦争発言)

十月 授業で偏向教育(環境問題に言及)

  一九八十年(昭和五五)

七月 中学校を退職

八月 東比貿易に入社

 一九八五年(昭和六十)

九月 マニラ赴任

 ー所見ー

父兄の追求により教職を放棄。左翼的心情を

改める兆しあるも、一九九五年末まで監視を

要する。 (1985/09/15記)



          5


 真壁は気分が悪くなった。心臓の鼓動が激しくなってくる。民主主義と言われる今の世の中に、知らぬ間に自分の情報が集められていたとは信じられない。ましてや、自分などは取るに足らない社会科教師ではないか。

 こんなファイルを誰が何のために作っているのか、大きな疑問が湧いてくる。所見の欄に、「父兄の追及により教職を放棄」とあるのが気になった。

「かなり驚いている様子だな。それでは、もう少し驚かせてやろうか。この最後の書類には、想像もつかないほど多くの人が協力しているんだ。人数だけじゃない。君にとっては意外な人たちが協力してくれたんだ。

 君という人間は世間知らずも甚だしい。教師という優越的な立場を利用して生徒に自分の考えを押しつけていたが、みんな我慢していたんだ。君の教師仲間でさえ内心は苦々しく思っていたからこそ、貴重な情報が集まったんだよ。それなのに何も気付かなかったのは、多くの日本人が心得ている日本民族の素晴らしさを、君が知らなかったからじゃないのかね。これを機に、深く反省するんだな」

 どれほどの真実を影山が語っているかは分からないが、真壁は動揺せずにはいられなかった。自分の周りにいた友人知人の中に、実は自分とは正反対の考えを持っており、そのことを隠していた者が何人もいたとは信じられない。

 次第に目の前にいる老人に、真壁は苛立ちを覚えてきた。彼の背後には大きな組織があり、その組織によって自分が監視されていたのだ。

「一体、あなたは何者なんですか」

 ソファーから立ち上がり、興奮のあまり、ろれつが回らなくなるのをこらえて真壁は影山に詰め寄った。

「そんなに無気になることはないだろ。全ては君がしてきたことだ。いつ天誅が下されても文句は言えまい」

 居丈高な言葉を投げつけながら、当初からのにやついた顔を影山は真壁に向けている。

「冗談じゃない。いったい、このファイルは何ですか。誰が、何のために作ったものですか。しかも、天誅を下すなどと、貴方は言う。私を脅そうという魂胆が、見え見えじゃないですか」

 影山の態度に感情的になり、真壁は大声を出した。

「君を取り巻いている状況がどんなものか、まずは知っておいてもらおうと思ってな。では、本題に入らせてもらおうか」

 真壁の怒りを無視し、影山が姿勢を正した。



         6


「まず君に贈り物をしておこう。例の『漁港』の件だが、君の手柄にさせてやるよ。この案件は、『東比貿易』に受注させてやる。つまり、当社は引き下がるわけだ」

 もったいぶった口調で、影山が満面の笑顔を浮かべた。

 これから何を言い出すのか、真壁には厭な予感がする。何らかの交換条件があるのは、容易に想像がつく。

「いつ入札になるか分からない『漁港』を譲ると言われても、私には即答できませんね。ましてや円借款には交換公文があります。その期限切れで、お流れになることだってあるんだし」

 真壁は次の影山の言葉を待った。不払い問題により今後の円借入札には参加させないとフィクサーから言われていることを口実に、影山の提案を受けない手もあるのだが、影山の依頼は既に部長へ伝えられているかもしれない。「君の手柄にさせてやる」と言われても、信用など出来ないのである。もし伝えられていれば、なぜ勝手に余計なことを言うのだと怒られるのは間違いないのだ。

「そんな心配は無用だ。入札を早めるのも遅らせるのも、交換公文の一つや二つ延長するのも、我々にはどうだって出来る」

 真壁の不信感が全く届かなかったかのように、影山が話を進めた。

「ただし、譲るには条件がある。簡単なことだ。昨日、野党の大統領候補が統一されたことは、君も知っているだろう。つまり、今回の選挙は、かつての親日一族であるアキノ、ラウレル両家と、元抗日ゲリラのマルコスが戦うことになったわけだ。そこでだ……」

 言いかけた言葉を影山が飲み込んだ。もったいぶった様子が、真壁の心を緊張させる。

「そうそう、本題に入る前に、君に教えておくことがあった。大統領への不払いのことだ。駐在員の命が危ないのに、なぜ支払われないのか、君は知っているのかね」

 いかにも芝居がかった口調で、意地悪そうに影山が真壁の目をのぞき込んだ。影山が不払いのことを知っているのは、長井の電話があったときに教えられていたが、不払いの理由までは藤原支店長から聞かされていない。

 何も答えられず、真壁は黙るしかなかった。以前から疑問に思っていながら、平社員の自分には何も知らされていないのである。しかも、フィクサーから脅され、支払いを部長に催促しても逆に罵られ、終には命を奪われそうにもなった。情けないにもほどがあるというものだ。

「なんだ、知らないのか。ひどい会社があったもんだな。それなら教えてやろう。君の会社は、三年前に中近東で大型土木工事の契約を取ったのだが、入札時の見積もりが大きく間違っていたため、現在は三十億円の赤字になっているそうだ。

 通常の土木入札なら、設計に見合った見積もりは、応札前に自社の別部門でチェックするだけでなく、外部にも発注してミスを防ぐ。それでも見積もりミスで赤字になることがあるので、業者間の談合をして利幅を大きくしているわけだ。ところが、君の会社には見積もりをチェックする部門はない。にもかかわらず金を惜しんで、外部にチェックを依頼せず応札してしまった。その結果の損失が大統領への不払いになっているというわけさ。お粗末なもんだな。貧乏会社の悲劇と言えば、君にも納得がいくだろう。

 しかも、まだ工事は完成していないから、この先、いくら赤字が出るのか見当もつかない。どう転んでも、大統領へ支払われる見込みは全くないわけだ」

 影山の言葉を聞いて、冷静を装いながらも真壁は驚いていた。三十億円もの大損を出しているとは、想像も出来ない。驚くのはそれだけではない。社員である自分も知らない、いわば社内の極秘情報を影山が知っていることだ。商社筋の情報とすれば「ホンエイ」が絡んでいるのだろうが、それにしても、その「ホンエイ」は、どこから情報を得たのだろうか。



          7


「色々と前置きをしてきたが、これからが本筋だ。君に頼みたいことがあるんだよ。マニラ市街戦のことなんだが……」

 影山が話を止め、一呼吸すると再び話を続けた。

「市街戦の起きた責任は、日本にではなく、当時のラウレル政権にあると大統領に言わせて欲しいのだ。この選挙期間中に、どこかの演説の中で、『マニラ市街戦は当時のラウレル大統領が、マニラの無防備都市宣言を怠ったために生じた』と言わせて欲しいんだよ」

 依頼内容を二度繰り返しながら、真壁の反応を影山が窺っている。

「それが『漁港』の契約を取る当初の狙いだったのですか。契約を口実に大統領と直接コンタクトを取り、多額の賄賂と引き換えに市街戦の話を持ち出そうという計画だったのですね」

 なぜ「ホンエイ」が強引に「漁港」入札に横入りしてきたのか、長らく抱いていた疑問が氷解したものの、とんでもない依頼の話に真壁は信じられない思いであった。

「簡単なことじゃないか。あの戦争で日本に恨みを持っているフィリピン人は、まだ大勢生きている。そこに、アキノ、ラウレルという、願ってもない親日一族が肩を組んで選挙に出てきたんだ。政敵を落とし込めるために、マルコスは必ずのってくる。しかも、充分なお礼があるとなれば、我々の依頼を断る理由などありえまい」

 深々とソファーに座り直し、投げ出した両足ズボンの裾を交互に引っ張りながら、真壁の反応を無視して影山が言った。

「そんなに簡単なことだと思うなら、ご自分でやられたらどうですか。当社の出る幕などないはずですが」

 突拍子のない依頼に、真壁は憤慨していた。マニラに無防備都市が宣言されなかったのは、ラウレル大統領の責任ではない。当時のフィリピン政府は日本の傀儡にすぎなかった。日本軍の少尉クラスが、フィリピン政府の閣僚を呼びつけていたことからも分かるように、実質的な支配は日本の軍政下にあり、山下将軍は無防備都市宣言の許可を大本営に求めていた。それゆえ、全ての責任は進言を無視した大本営にあるのだ。影山の依頼は、完全に歴史の偽造なのである。

「鈍い奴だな。君の頭は飾り物かね。さすがに元教師だけのことはある。確かに半年前は大統領に直接働きかける計画だった。だが、状況が急に変わったんだ。この選挙期間中に、大統領を説得せねばならないんだよ。そこで『漁港』を譲ることになったわけだ」

 得意げな表情を浮かべ、影山が真壁を睨んだ。真壁の心に、怒りが湧いてくる。

(俺の頭が飾り物で、元教師だけのことはあるなどと、よくも言いやがったな。教師を無能呼ばわりするのは勝手だが、元教師だからこそ譲れないものもあるんだ)

 腹立たしい思いがこみ上げてきた。影山の依頼を聞いた時、歴史偽造への怒りと共に、契約を取って商社マンとして認められたいと相反する考えが浮かんでいたのだが、影山の一言で吹っ切れた気がする。



         8


「なるほど、それで大統領と直接コンタクトを取れる当社にお鉢が回ってきたというわけですか。勿論、急いでいるからだけではなく、『東比』に工作をさせれば、万が一にも偽造工作がマスコミや世間に露見しても、たいしたニュースにはならないと作戦を変更したわけでしょう。しかし、あの市街戦をラウレル政権のせいにするのは、かなり無理な話だと思いませんか。世界の常識というものがあるでしょう」

 偽造工作の先兵になることはもはや考えていないが、ここは疑問を投げかけて、影山の依頼に耳を傾けるふりをした。

「君は何を言っているのかね。あの市街戦は、我が陸海軍が強力なため、陸軍と海軍を切り離そうとマッカーサーが仕組んだものだ。山下が山に籠もったのは、まんまとアメリカの作戦に引っかかったんだよ。もし陸軍が山に逃げ込まず、海軍と共同して戦っていれば戦局は変わっていた。今、こうして我々が、山下の尻拭いをする必要などなかったんだ」

 真壁の言葉を嘲るかのように影山が笑う。そんな影山の表情に、更に真壁は苛立ちを感じた。昭和二十年八月十四日の御前会議で、連合艦隊を失い、沖縄県民に多大の犠牲者を出し、更には本土を空襲された挙げ句、二発の原爆を落とされても、まだ戦局は五分五分だと言い張った阿南陸軍大臣並の神経ではないか。

「それにしても、歴史の偽造を、なぜ私がやらなければならないのでしょうか。私のような三流会社の平社員には、あまりにも荷が重すぎますよ」

 本心が悟られないよう、真壁は軽口を叩いて見せた。

 真壁が心の余裕を取り戻し、影山の様子に目をやった時である。ソフアーに座った影山が、しきりにズボンの裾に手をやっているのに気がついた。裾をそろえているようにも、脛を掻こうとしているようにも見える。女将の父親の言葉が蘇った。長井の父親を射殺した特務機関員とは、この目の前の影山ではないだろうか。

「『歴史の偽造』という言葉は穏やかではないな。君はまだ分からんのかね。君は日本民族に対して、不忠を犯してきた。あの大東亜戦争を、侵略などと全くのでたらめを生徒に教えたんだ。ここで禊ぎの機会をもらったと考えたまえ」

 有無を言わせぬ口調で、苛ついた表情を影山が見せた。真壁が影山の過去を疑い始めたことには、まるで気がついていないようである。

「分かりました。影山さんの依頼は、必ず本社に伝えます。急ぎますので、今日の所は、ここで失礼します」

 影山の依頼に応えるふりをして、真壁は退出しようとした。「漁港」に介入してきた「ホンエイ」の狙いを小川に、この男の正体を長井に、いち早く伝えてやりたい思いに駆られている。

「いちいち、本社の指示を仰ぐことはないだろ。今ここで、『必ずやります』と約束したまえ。それとも君は名ばかりの支店長代理なのかね。いったい何を躊躇っているのか俺には理解できんな」

 影山が息を継いで、真壁の顔を見つめた。真壁の態度に不信感を抱いたのである。

「いいか、よく考えろ。もし君が『やります』と即答すれば、俺は本社には何も言わん。『漁港』の契約は君の力で取ったことになる。会社からは特別ボーナスだって出るだろう。出世も間違いないぞ」

 執拗に影山は誘いをかけてきた。しかし、真壁は承諾できない。これほどの大事は、いつか本社へ知れ渡る。

「分かった。ではこうしよう。君が本社へ報告するのは勝手だとして、ことが成就した場合には、君には我々からの謝礼を個人的に払おう。一千万円ぐらいは約束するが、どうかね」

 個人的な謝礼と聞いて、真壁の頭に浮かぶことがあった。小川の炊き出しで出会った「ガナップ」達の移転問題である。日本政府は勿論、どこからも援助がなく貧しさに苦しむ彼らを、いったい誰が救えるのだろうか。個人的な謝礼が一千万円どころか五百万円もあれば、今より安全で暮らしやすい場所に彼らは移住できるのだ。

「まだあるぞ。もし『東比』のようなうさんくさい会社が厭なら、工作が成功した際には、我々の幹部として君を迎えてやる。我々は大歓迎だ。何しろかつての偏向教師が、自虐史観を捨てて改心したんだからな。

 いいか、もう一度言うぞ。君がなすべきことは、自虐史観を改め、将来の日本人、つまり今の子供たちに卑屈な思いをさせないことだ。日本民族の汚名をそそぐためには、こんな絶好のチャンスは金輪際ないかもしれん。我々の依頼を断る理由などないはずだ」

 影山が真壁の顔を覗き込んだ。



          9


 真壁は急に恐ろしくなった。影山に対してではない。迷い始めた自分に対してである。

 迷い始めの原因は「ガナップ」のことだ。五百万円の費用がかかると小川は言っていたが、一千万円もあればお釣りが来る。そのお釣りを日本人からの贈り物として、彼らの労に報いる慰謝料に充てれば、どんなに彼らは喜ぶだろうか。

 顔を下に向けて真壁は黙っていた。歴史をねじ曲げる陰謀には従わないと決心しているのに、影山に啖呵を切れない自分が恨めしい。

「私は『東比』の平社員、しかも単なる駐在員に過ぎません。私の一存で、貴方の依頼を引き受けることは出来ません」

 影山の気迫に押されながらも、かろうじて真壁は言い切った。

「そうだ、忘れていたよ。こんな手紙があるんだがね。まぁ、後でゆっくりと読んでみたまえ」

 背広の懐から一通の封筒を影山が取り出した。封筒には、日本の弁護士事務所の会社名が印刷されている。心当たりはないものの受け取らないわけにはいかず、真壁はズボンの後ろポケットにしまい込んだ。

 薄笑いを浮かべ、影山が話を続けた。

「いいか、即答できないなら、君の会社へ伝えろ。大統領への不払い金十三億円は、全て我々が肩代わりする。それから大統領へは、五億円の謝礼を払う。君の会社へは二億円、つまり総額二十億円を用意していると伝えろ。ただし、君らに与えられた時間は、選挙戦の最終日、つまり二月五日迄だ」

 具体的な条件を持ち出し、勝ち誇った表情を影山が見せた。

「倒産寸前の三流商社だ。これだけの条件を出せば、すぐにでも君の会社はゴーサインを出すだろう」

 軽蔑したように影山が真壁を見つめ、付け足すように言った。

「分かりました。本社へ伝えます」

 頭を下げて、真壁は部屋を出た。

 車に向かいながらも、薄気味悪さがつきまとう。影山とは何者なのか、背後に控える組織は何なのか見当もつかない。

「それにしても……」と真壁は独り言を呟いた。気分が重い。自分の臆病風がまた吹き始めている。「歴史の偽造などまっぴらごめんだ。恥を知れ」と影山に言いたかったのに、そんな啖呵の一つも切れなかった自分は、今後、はたして影山や部長の圧力に耐えられるのだろうか。



          10


 部長から却下された、一晩限りの事務所兼宿舎のアパートへ戻った。相変わらず気分がすっきりしない。備え付けの冷蔵庫からサンミゲル・ビールを引っ張り出し、真壁は瓶の栓を開けた。

(マニラへ戻った早々、このざまだ。新しい事務所が却下されたと思ったら、歴史偽造の片棒担ぎを頼まれる。まるで俺はスケープゴートと歴史偽造の先兵、最悪の一人二役じゃないか。

 それだけじゃない。どうやら長井の父親を殺したのは影山らしい。何とか長井に教えてやりたいが、女将との約束を破るわけにはいかない。俺はどうすれば良いんだ)

 暗澹たる気分でビールを飲み始めた真壁だったが、次第に、とんでもないことになろうとしているという思いが強くなってくる。

 まず歴史偽造のことだ。自分の責任も大事だが、それより考えねばならないのは、自然災害や戦争など、多くの犠牲を払って積み上げてきたものが人類の歴史であり、それを偽造するというのは、将来の日本人にも間違った教訓を残すことになる。それこそ良心に悖る、重大な犯罪なのではないか。

 さらに心を落ち着かせて真壁は考えた。なぜ影山は、マニラ市街戦の責任をフィリピン側に押しつけたいのだろうか。「日本民族の汚名をそそぐため」と影山は言ったが、果たして本当に、汚名をそそぐことになるのだろうか。

 偽造が成功した場合には、何が起こるのだろう。マニラ市街戦の責任が日本にあることは、世界中に知れ渡っている。それなのに、被害を受けた国の大統領であるマルコスが自分たちの責任だと言い出せば、日本が疑われるだろう。選挙資金欲しさの弱みにつけ込んだとして、金満大国日本がやり玉に挙げられ、世界の笑い者にならないだろうか。

 一国の大統領を金で動かしたとなれば、日本への信頼は失われ、影山の行為は民族の誇りを取り戻すどころか、歴史を冒涜する民族として新たな歴史を刻み、軽蔑されることになるだろう。

 偽造に手を貸す考えは、消え失せていた。マニラ市街戦を指揮した岩淵少将のことが頭に浮かんだ。四十年前に死んだ人物でありながら、どこか自分と共通している所があるのを感じる。時こそ違え、同じマニラの空気を吸っているからであろうか。

 海軍上層部の勇ましい言葉に踊らされ、終には自決へと追い込まれた岩淵少将の姿を真壁は想像した。一方、不払いの問題から襲撃されたことを、フィクサーとのネゴに失敗したためだと、部長の強弁に振り回されている自分がいる。軍人魂に洗脳され右往左往した岩淵、一人前の商社マンになるため「東比」流の考えに染め上げられている自分。どちらも全く同じ、人間の弱みにつけ込まれている構図ではないか。

 部屋に戻って考えていたのは歴史の偽造問題だが、それ以上に真壁の心を重くさせるものがある。それは「東比」が倒産寸前と知ったことである。

 何だかんだと「東比」への不満や怒りはあるものの、山岸に脅されて教職を捨てた自分の臆病さ、景子との別れの辛さを忘れることが出来たのは、「東比」で仕事をしているときだけだった。一宿一飯の義理どころではない。軍隊のような「東比」で働いたからこそ、青春時代のどん底を耐えられたのだと思う。そう考えれば、今こそ恩返しをすべき時ではないのだろうか。

 考えがまとまらないままひと息ついていると、影山から渡された封筒のことを真壁は思い出した。

 封を開くと、それは日本の弁護士からの通知であった。その内容は、沼林景子を顧客として、一ヶ月以内に然るべき回答がない場合、婚約不履行により真壁を告訴するというものである。

 いきなり頭を殴られたようだった。これを驚愕と言わずなんと言おうか。五年前に別れたとは言え、いまだに胸の内がくすぶっている女性から、裁判を起こすと脅されたのだ。勿論、真壁には覚えがない。確かに結婚の約束はしていたが、「好きな人が出来た」と言いだし、離れていったのは彼女からではないか。

 何か事情がありそうである。今更、何のために訴訟を起こそうというのかと考えて、やはり影山の指図で動いているのだと推測せざるを得ない。そうでなければ、こんな訴状を影山が持ってきた理由が分からない。歴史偽造の実行を強要する意図があるのだろうが、影山と沼林恵子との間にどんな関係があるのだろう。

(なぜ彼女は影山の手先になっているんだ)

 かつての恋人への、怒りにも似た思いが真壁の心を覆い始めた。



   第十二章


          1


 マニラへ戻り影山に会った翌日の十二月十三日、金曜日の朝午前八時、一晩を過ごした仮の事務所から栗山部長の出社時間を見計らって国際電話を入れた。

「良い話じゃないか。すぐにでも動いてくれ」

 影山の依頼と条件を報告すると、今にも笑い出しそうな、上機嫌の部長の声が聞こえる。想像を超える良い話のためなのだろう。

 影山の依頼に沿って動けと言われるのは分かっていた。大統領への不払い理由が影山の言う通りだとすれば、影山の持ち出した条件は、倒産寸前の『東比』にとって千載一遇、まさに願ったり叶ったりなのである。ガナップの件だけでなく、会社への恩を返すべきか否か迷いのある真壁には、部長へ同調したい気分にとらわれた。 「こういうことなら、俺がマニラへ行くか、藤原君を呼び戻さねばならないが、そう簡単にはいかんだろう。君が襲われたとなると大統領は本気で怒っているようだし、となると、うちの幹部がフィリピンで拉致でもされて支払いを要求されたら、こちらはにっちもさっちもいかなくなる。そもそも影山の条件を話して、未払い分を払う、献金もすると言ったところで、大統領も市議会議員も信じてはくれないだろうしな……」

 考えあぐねるような、それでいて言い訳がましい部長の口ぶりである。社員は殺されても構わないが、幹部は拉致されたら困るという発想には腹が立つ。部長の腹の内、会社の冷徹さを真壁は読み取った。

「選挙参謀に話をしたらどうだ」

 しばらく間を置いた後、部長の指示が出てきた。

「それはどうですかね。選挙参謀から話を始めるとなると裏金を要求されますよ。それより、まず大統領腹心のロドリゲス副大臣、次にツベラ官房長官に話をしたらどうでしょうか。官房長官なら、大統領のスケジュールだけでなく、演説内容にも関与出来ると思いますが」

 影山の依頼を実行するかどうか、まだ迷いがある真壁はもっともらしい逆提案をした。官房長官を含めれば、そう簡単に面談はできず時間稼ぎになるからだ。

「それもそうだな。それなら選挙参謀ははずすとして、君の言うとおり副大臣や官房長官にあたってくれ」

 あっさりと部長は真壁の提案を受け入れた。エンリレ国防相に渡りをつけた実績が、利いているようである。

「しかし、それでも大統領が首を横に振るかもしれんから、先に判事にあたったらどうだ」

 マニラ市街戦の責任をフィリピン側になすりつけるのは、さすがに難しいと部長も知っているようで、副大臣や官房長官では説得しきれない場合を部長は考えているようであった。判事のアイデアを出してきたのは、大統領への影響力が大きいからである。

「分かりました。しかし判事は大統領へ話を通してくれますかね。なにしろ、あのお歳だから当時の事情を良く知っているし、正義感の強い人です。それに清廉潔白な人柄なのは部長もご存知でしょう。金で動くとは思えませんが、りあえず部長の仰るとおりにいたします」

 部長の言う「判事」とは、元最高裁判所の長官で、マルコス大統領夫妻の媒酌人をした人物である。マルコス大統領の信頼も篤く、温和な人柄であったせいか真壁も二度ほど自宅を訪ねたことがあるが、質素なアパート住まいで、金に縁のない人物であることがよく分かった。



          2


 部長への報告を終えた後、真壁は「ホンエイ」マニラ支店へ電話を入れた。リサがどうしているのか、もうアメリカへ行ってしまったのか、いても立ってもいられなかったのである。

 電話の結果は、真壁を落胆させた。案の定というべきか、二週間前に会社を辞めていたのだ。そんなことなら、わざわざ電話などせずに、「東比」支店の秘書テシーに会ってからでも聞き出せたのにと後悔もするが、はやる気持ちを抑えきれなかったのだから仕方がない。

 電話に出た女性が気になることを言っていた。リサは影山の下で働いていたのかと訊くと、「ホンエイ」に入社したのは二年前からで、ずっと営業のアシスタントだったと言う。しかも電話の終わり際に漏らしたのは、「ホンエイ」入社前に彼女はアメリカに住んでいたと言うのだ。

 アメリカ帰りとは初耳だったが、フィリピンでは珍しい話ではない。これまで、なぜ洪水の夜の秘書の家で、唐突にアメリカへ行くと言い出したのか不思議だったが、元々、アメリカにいたのなら合点がいく。

 それよりも真壁が不審に思うのは、真夜中の葬儀屋で再会した夜、影山の命令で来たと言っていたことだ。なぜ嘘を言う必要があったのか、なぜ影山の名前を出したのだろうか。

 しばし想像を巡らせていると、「東比」支店の現地従業員が出勤する時間になった。三日間も行方不明になっていたのだから、一刻も早く彼らを安心させてやらねばならない。

 支店へ行き従業員に顔を見せると、案の定、真壁の行方を心配していた様子であった。うるさい日本人が不在で羽を伸ばしていた風には全く見えない。あえて言えば、支店長代理の所在が分からなくなり、会社の行方に不安を覚えていたはずだが、藤原とは違う真壁の人柄に、少しは親近感を感じていたのかもしれない。

 従業員との談笑を終えると、長井と小川に連絡を取った。晩飯に誘い、なぜ「ホンエイ」が「漁港」入札に割り込んできたのかという疑問に対して、影山の狙いが歴史偽造にあったことを伝えるためである。

 昼になると、支店からマビニへ出かけ女将の店で食事をした。せっかく借りてもらった部屋をキャンセルする詫びを入れることが第一の目的だったが、助けてもらったお礼を言うとともに、原田老人の話を長井に伝える許可を女将から取りたかったのである。

 原田老人の話を伝えることは、女将から断られた。長井にとって大切なことなのだと説明したが、女将は首を横に振るばかりである。

「長井さんの父親が、元上官と脱出した時の様子を伝えたいのです。誰から聞いたかは決して教えません。ですからお願いします」

 影山の正体なども伝え、真壁は懇願した。

「長井さんのことはうちのお客さんだから、それなりのことは知っているけど、もし事実を伝えれば何が起こるか貴方は分からないでしょ。自分の父親を射殺した犯人を知ったら、長井さんがどんな行動を取るか、あなたは想像できないのかしら。それに、なんといってもジャーナリストなのよ。万が一にも市街戦のことを記事にすれば、私の父だけではなく長井さんの身にも危険が及ぶわ。少しでも裏の世界を暴いたら、彼らが黙って見ているはずがないでしょ」

 女将の考えを、真壁は否定できなかった。長井が記事を書けば、女将の父親に危害の及ぶ可能性があり、もし長井が影山に復讐するとでもなれば、長井に真相を伝えることが、はたして良いことなのか疑問になってくる。

 以前、真壁がマニラ市街戦の勉強をしたいと言ったとき、女将が曖昧な態度を取っていた理由がようやく分かった。父親から話を聞いていた女将はかなりなことを知っており、真壁が市街戦の真相を知ることになればどうなるかを心配していたのである。そして今は、長井の父親の死と影山の存在から、長井の心配もしているのだ。自分の考えの足りなさを、真壁は思い知らされた。



          3


 その日の夜、真壁は女将の自宅へ小川と長井を案内した。昼間、女将と話している時、真壁の頭に計算が働いたからである。女将の自宅で歴史偽造の話し合いをし、少しでも長井の姿を見せれば、女将の心が動くかもしれないと思ったのだ。

 真壁の思惑を知ってか知らずか、人目の付かないところで歴史偽造の対策を練る必要があり、女将の知恵も借りたいと申し出ると、大統領選挙の騒ぎで旅行客が激減したので暇だからと、女将は快く自宅を提供してくれた。夕食も準備すると言う。

 まず小川、次に長井をピックアップして、午後七時頃、真壁の運転する車は女将の自宅に着いた。女将に出迎えられて中に通されると、意外に静かなのに気がつく。二十四時間、マニラは喧騒に包まれている街なのだ。真壁にとっては三度目の自宅訪問であり、今更気がつくのもおかしな話なのだが、これまでは気が動転していたり、心配事で頭がいっぱいだったのだろう。

「ここは街の騒音が少ないですね」と真壁が漏らすと、「フィリピン人の夫が出張中で子供がないからじゃないかしら」と女将が返事をした。余計なことを言ってしまったかと、真壁は内心で恐縮する。

 四人がテーブルに着いたところで、会食が始まった。出てきた料理はカレーライスである。

「ウスターソースをかけるんですか」

 小川の様子を見て、真壁が驚きの声を出した。関東地方出身の真壁には、初めて見る光景である。

「えっ、君はソースをかけないのか」

 今度は小川が驚いてみせる。

「福神漬けやらっきょうなら分かりますが、ソースはねぇ」

 真壁が言葉を返す。

「岡山では常識だよ。関西では生卵も入れるぞ」

 何事もないように小川は食べ始める。

 食事が終わり応接間のソファーに移動したところで、エドサ大通りで襲撃されたこと、影山のアパートで見せられた個人ファイルのこと、歴史偽造の依頼があったことを真壁は報告した。女将も同席している。

「なるほど、『ホンエイ』が『漁港』に乗り出したのは、契約を結んで大統領に近づき、その上で賄賂と引き換えに歴史偽造を頼み込むためだったのか。しかし政治状況が急に変わり、たまたまアキノ、ラウレルという、かつての親日一族が対立候補になったことで、計画を変更したわけだ。統一候補となれば、今度の大統領選挙でマルコスに勝ち目はない。頼みとなるのは多額な選挙票買収の資金だ。そこで賄賂と引き換えに歴史偽造の演説をさせる、つまり君に歴史偽造の役目を押しつけたわけだ。本当にけしからん話だが、まさか君は引き受けるつもりではないだろうな」

 ひと通りの話を真壁が伝え終えるや、真っ先に声を出したのは小川だった。

「歴史を直視出来ない民族は、他の民族から信頼されないのは自明の理だ。俺たちはフィリピンにいるからよく分かる。マルコスの失政で今は経済状況が悪いため日本に遠慮しているが、いずれ経済が好転すれば黙っちゃいないぞ。

 そもそも、ラウレルがマニラの『オープン・シティー』を宣言しなかったのが市街戦の原因だなんて、そんな無茶な話がこの国で通用すると思っているのが理解できないよ。当時は日本の軍政が敷かれ、軍政監部の少尉や中尉クラスの将校がフィリピン政府の大臣を呼びつけて指図していたのは、フィリピン人ならずとも我々だって知っていることだ。傀儡政権のラウレル大統領が、『オープン・シティー』の宣言を出せるはずなどないだろ」

 小川の言うことは、全くその通りである。ガナップのために炊き出しをするぐらいだから、これまでもかなりの勉強をしていたらしい。

「それで、襲撃を逃れた後、君はどこにいたんだ」

 たたみかけるように、小川が真壁に問いかけた。

 どう答えるかを少しの間考え、

「現地社員の家に隠れていました」

 女将の父親に話が及ぶのを恐れ、せっかく親しくなった友人に嘘をつく後ろめたさを覚えつつ、女将の表情を窺いながら真壁は返事をする。

「君らしくないな。フィリピン人を巻き込むなよ。いざ自分の命が危なくなれば、なりふりかまわずフィリピン人に頼るというのは、俺には理解出来んな。なぜ、俺の所へ来てくれなかったんだ」

 不満そうに小川が言った。スラムで炊き出しをしている小川である。フィリピン人第一に考える習慣が出来ているらしい。同じ日本人同士、水くさいとでも言いたいのであろう。

「まぁまぁ、そう怒りなさんな。お互いライバル商社なので、真壁さんは遠慮したんでしょ」

 真壁の内心を察したのか、女将が助け船を出してくれた。



          4


 不満そうな顔をしていた小川だったが、まだ何か言いたそうな顔を見せている。

「影山が持ち出した条件で、何か言い忘れてないか」

 小川が複雑な顔を見せた。言いにくいが言わずにはいられない様子である。

 歴史偽造に協力すれば、「漁港」案件が「東比」に譲られることは既に話してあるが、「洋々」の駐在員である小川としては、もし『東比』が偽造に協力するのであれば、「洋々」にも何らかの見返りが欲しいであろう。自分が仕組んだ案件であり、商社マンとしては当然の考えだと真壁は思う。

 そのことを真壁が伝えると、

「違うんだ。真壁君に個人的な口銭を払うと、影山が約束していないかと思ってね」

 躊躇いがちに小川が言った。

「私が偽造工作を引き受けるなら、私にも口銭として一千万を払うと言われましたが」

 誤解を恐れて黙っていたのだが、小川の質問を無視するわけにはいかない。歴史偽造へ協力すれば、真壁にも口銭が支払われる旨を真壁は打ち明けた。

「そういうことなら、俺を助けてくれないか。ほらっ、例のガナップ達のことだ。半分の五百万でも彼らのために役立ててくれないか」

 歴史偽造の犯罪性について語っていたせいか、申し訳なさそうな顔を小川が見せる。

「私も彼らのことは気にかけているので、影山に協力すべきか迷うところがあるんです」

 正直な胸の内を真壁は打ち明けた。偽造に加担すれば、ガナップの問題が解決するだけでなく、社内に留まって一人前の商社マンになる初志も貫け、沼林恵子の訴訟からも逃げられる。歴史の偽造などあり得ないと頭では分かっているのだが、それでも揺らぐ気持ちはまだ残っているのだ。

「ちょっと待ちなさいよ。そんなことで良いのかしら」

 慌てた様子で女将が口を挟んできた。

「あなた達の個人的な利害で、こんな大事なことを決めるのはおかしいでしょ」

 女将は怒り顔を見せた。小川と真壁は顔を見合わせる。確かに、歴史偽造とガナップの件は別問題であり、そもそもその大きさが違う。歴史に対する冒涜なのだ。

「ところで、影山が君に見せたファイルのことだが、ファイルと言えば俺が記者をしていた頃に聞いたことがあるんだよ」

 沈黙する空気が漂う中、長井が口を開いた。



          5


「総理大臣直属の特別機関に『内閣調査室』というものがある。吉田茂が首相をしていた頃に作られた日本版『CIA』だが、そこに国民の素行調査を記録したファイルがあったらしい。勿論、今も引き継がれて存続しているのは間違いない。内閣に顔の利く瀬川虎三が『ホンエイ商事』の社長に成り上がるときにも利用したと聞いている。自分に反対する者、昇進を決める上司を懐柔するために、ファイルを借用して過去を調べ上げ、時には恫喝の材料にしたそうだ。影山が君に見せたファイルも、それと同じ類いだろう」

 長井が話題を変えた。

「当時の私は中学校の教師ですよ。しかもまだ若かった。役職についてもいない教師に、権力者が神経をとがらすことなんてあるのでしょうか」

 日本政府が国民の情報を収集をしていたとは、真壁には半信半疑である。長井の話が信じられない表情を見せると、

「甘いなぁ、君は。ファイルの目的は、世論操作だ。例えば、政府に都合の悪い発言をする学者や政治評論家に対しては、戦前の言動をファイルから持ち出して変節ぶりを指摘したり、研究費を渡したりして、大人しくするよう脅しをかけているんだよ。公務員志望の保守的な東大生には、サラリーマンの給料にも匹敵する小遣いまで与えて囲い込んでいるそうだ。何しろ税金が資金源だから、金はふんだんにある。特に君のような教育関係者は、将来の日本人を特定の方向へ向けるために、ファイル対象が広くなるんだろう」

 長井の説明に真壁は納得した。あのファイルを実際に見ていなければ、「内閣調査室」が関係しているなどと、長井の言うことは単なる噂話程度にしか思うまい。

「それから、マニラ市街戦の責任を当時のラウレル政権に押しつけるアイデアは、『天智大学』教授の渡会昭一から出たものだ。えらいことだぞ。何しろ敵の正体は内閣に顔が利き、大学や政財界、マスコミにも大きな影響力を持っている連中だ。影山の依頼を蹴るとなれば、よほど君は覚悟せねばならないぜ」

 無精ひげをなでながら、長井が深刻な顔をした。

 大学教授の名を聞いても、真壁は驚かなかった。科学的、客観的な分析をするでもなく、ただ日本民族の誇りのために歴史の事実をねじ曲げようというのは、学者のすることではない。大学教授の肩書きが聞いて呆れるというものだ。

長井の話を聞きながら、真壁は大いに迷っていた。原田老人から聞いた、マニラ市街戦の真っ最中、昭和二十年二月十八日夜の出来事である。長井の父親が特務機関員に殺されたのは間違いなく、しかもその特務機関員が影山の可能性があると長井に伝えたいのだが、女将や原田老人との約束は守らねばならない。歯がゆい思いをしながら、真壁は耐えねばならなかった。



          6


「ところで、長井さんに教えて欲しいことがあります」

 目の前にいる女将を意識しながら、なんとか父親の最後を伝えられないかと、遠回しな言い方を真壁は始めた。何事かと、不審な表情を長井が浮かべる。

「日本には裏の社会があるようですが、どんなものなんでしょうか」

 かねてから疑問に思っていることを真壁が訊ねると、即座に「それは常識だよ」という長井の答えが返ってきた。具体的に教えて欲しいと真壁は頼む。

「裏の世界があるのは、政界から財界、マスコミから芸能界まで全てさ。政治の世界については、満州国に全てが遡る。つまり、裏の世界が力を持つようになったのは、満州で得たアヘンや軍事物資を貴金属に変えて日本へ運び込み、それが戦後の日本復興のどさくさに紛れて、マスコミや広告会社、更には政党結成の工作資金になったということさ」

 長井の説明が続く。

「例えば、ロッキード事件だ。九年前、元首相が逮捕されただろ。トライスター売り込みの五億円収賄容疑だ。満州からの隠匿物資でのし上がった大物フィクサーに、十億円が払われたのも分かっている。ところが、ロッキード社は日本側へ三十億円を超える賄賂を払ったと証言しているとなると、残りの十数億円が何のために、誰に渡ったのか今も不明のままというのはおかしいだろ。裏の世界に属する何者かが、元首相逮捕の報道で国民の目をそらしたとしか考えられない。

 この夏に起こった、金の先物取引で殺された会長の話も疑問だらけだ。被害総額が二千億円、使途の判明しているのが六百億円、その内訳には宗教団体の名もあるそうだが、残りの千四百億円が行方不明になっている。しかも、会長の殺された日が、警察に事情聴取される前日だったのもおかしい。会長が取り調べを受けたら一切合切を白状すると見込んで、誰かが口封じをしたとしか考えられない。更には、多数のマスコミが会長の部屋の前に集められ、そこに二人組の犯人が乗り込んで殺害したというのもおかしな話だ。逮捕された犯人は『マスコミに煽られて殺害した』と言っているそうだが、そんな馬鹿げた釈明はないだろ。この事件は何者かによって上手く仕組まれていたとしか言いようがないよ」

 長井が話をしている間、一部は原田老人から聞いたこともあり、真壁は別のことを考えていた。

(マニラに集積されていた貴金属のことは、長井も知っているようだ。しかし、市街戦との関連を俺が話し出せば、彼の父親の最後、影山の存在も話したくなる。しかしそんなことを話し出せば、女将の心配するように、長井の身に危険が及ぶことにもなりかねない。さて、どうしたら良いものか。ここで女将がマニラに集められていた貴金属の話でも、自発的にしてくれれば良いんだが……)

 迷いと期待を抱きながら真壁は成り行きを見守っていたが、女将は口を開かず、真壁の期待は実現しなかった。女将の自宅へ二人を招待した目論見は失敗したようである。

「君はどうするつもりなんだ。本社の実行命令は時間を稼いでごまかすとしても、影山は君の動きを逐一見張っているに違いない。もし君が協力していないと奴が判断したら、どんな手を打ってくるか分からんぞ」

 長井の発言を受けて、女将と小川が心配そうな顔を真壁に見せた。



          7


 影山の存在は、全く以て不気味であった。依頼に応えている振りを真壁が見せたところで、そう簡単に欺せる相手でないことは、誰にも分かっているのだ。

「まだ具体的には何も考えていませんが、ひとつ言えるのは、会社の方はもう見切りをつけて、首を覚悟したことです。エドサ大通りで殺されかけたというのに敵前逃亡と言われ、命拾いをした後は歴史偽造の役割を負わせられた、つまり、私は二度もスケープゴートにされたのですから、もはや大人しくなんぞしていられません。きっと復讐をしてやります」

 復讐という真壁の言葉には、沼林景子の訴状に対する私情も込められていた。真壁には自分の感情が分からない。真壁の私情とは恨みである。これまでの自分は、恨みなどという感情を抱いたことがなく、好きな人が出来たと景子から言われたときも、それほどのこだわりはなかったのだ。

「影山には負けません。危険と隣り合わせは慣れっこですよ」

 長井の忠告は現実になるかもしれないと考えながらも、更に真壁は強がって見せた。

「ちょっと威勢が良すぎるんじゃない」

 ゆっくりとソファーから体を浮かすと、女将はテーブルの上にビールの入ったコップを置いた。

「気を悪くしないで頂戴ね。真壁さん一人で大丈夫かしら。だって、影山は一筋縄ではいかない男なんでしょ。具体的な対策を考えておかないと、土壇場で腰砕けなんてことにならないかしら」

 ストレートな女将の発言に、真壁は赤面した。サンパブロのレストランで女将は自分の弱さを知っており、いざとなれば逃げ出す人間と思っているのだろう。あんたは臆病者だから心配しているのよ、と言いたいのだ。

 しかも、真壁には迷いがまだ残っている。一人前の商社マンになるという入社したときの決意、惨めな自分を救ってくれた「東比」への恩返しを忘れるわけにはいかない。スラムのガナップ達に金銭的な援助もしてやりたい。更には、自分の過去を知っている影山の圧力、沼林恵子の訴訟などを考えると、今後の不安から歴史の偽造問題も影が薄れてくる。真壁は返す言葉に詰まった。

「少しばかりきついことを真壁さんに言わせてもらうわね。サンパブロのレストランで、私が貴方に訊いたことを覚えているかしら。自分が強くなったことを、貴方は理解していなかったように私には見えたわ。どうしてかしら」

 女将が真剣な眼差しを真壁に向けている。どういう意味なのか分からず、真壁は女将を見返した。

「貴方の問題はね、うわべで人を判断していることよ。可愛い女の子を見れば惚れてしまう。怖い顔をした男がいれば萎縮してしまう。同じレベルの問題じゃないかしら。でも、それは貴方の先生時代の話。商社に入ってからは、いろんな人に会い、いろんな失敗をしてきたはずよ。怖い顔、優しい顔、正直そうな顔かどうかを見て、貴方は仕事をしてきた訳じゃないわよね。時にはうわべに捕らわれて、痛い経験もしたはずよ」

 女将の言葉に真壁は素直に頷いた。確かに、相手の顔を見て信用できるかどうか、出来る人物かどうかを、初対面から決めつけて商売は行えるものではない。

「私が言いたいのは、貴方は商社で鍛えられて強くなったこと。経験を積み重ねて、人は見かけで判断できないことを少しずつ学んだはずなのよ。過去のことは過去のこと。もう忘れてしまいなさい。五年前の貴方は、中学生を相手にしていたから、強面に対する免疫がなかっただけなのよ」

 真壁にとっては、虚を突かれたような女将の言葉だった。人は見かけで判断してはいけない。そんなことは子供でも知っている。しかし、本当にそんな教訓が血肉化しているかどうかとなると、別問題だったのだ。

「いつまでも逃げていないで、自分と向き合ったらどうかしら」

 女将の言葉が身にしみた。それだけではない。自信が湧いてくる。生まれ変わったとは言い切れないが、五年前と違う男になっていることだけは、真壁には確かに思えた。



          8


「話が火急なときに恐縮だが、俺は帰国することになった」

 小川が言い出した。帰国は今月末つまり大晦日だと言う。

「そこで申し訳ないんだが、ガナップの連中を引き継いでくれないか。月に一回、炊き出しをしてくれるだけでも良いんだが」

 小川が真壁に向かって深刻な顔を見せた。

「どういう訳で急に帰国することになったのですか。小川さんが赴任したのは僅か二、三年前でしょ。まだ任期は三年くらいあるのでは……」

 真壁は事情を尋ねた。

「そうなんだが、例の『漁港』がらみで帰国命令が出たのさ。自分の仕掛けた案件を、どんな事情があるにせよ横取りされるとはけしからんと、うちの部長が言うんだな。勿論、俺は反論した。『ホンエイ商事』がメーカーに近づいていたのに、半年間も気付かなかったのは、本社の責任ではないのかとね。しかし、認められなかった。理由はどうであれ、担当者としての責任がある、日本でやられたらマニラでひっくり返すのが当然で、この半年何をしていたのか、駐在員として失格だと言うわけさ」

「どこの商社も同じようなものでしょうが、厳しい部長ですね。しかし、何とかならないんですか。大きな政治的力を背景に『ホンエイ』が乗り込んできたのですから、いくら小川さんがマニラで動いても無理なものは無理でしょう」

「まぁ、これが商社というもんだ。影山の狙いが分かった今、マニラを去るのは断腸の思いだが、仕方がない。俺もサラリーマンだから、上の命令には従うしかないんだよ」

 商社勤めに疲れたかのように、気落ちしている様子が見える。

「帰国したらどうするつもりなの。まさか、辞めるつもりではないでしょうね」

 女将が言う。

「辞めたくはないんですが、選択の余地はありません」

 女将に向かって小川が残念そうな顔を見せた。

「それで、今後はどうするんですか」

 明日は我が身と知りつつも、真壁は心配せずにはいられない。炊き出しに見た人間らしい側面、実行力があり、とことんやりぬく小川の姿が、真壁には懐かしく思い起こされる。

「家族を養わなければならんからね、さしあたっては塾の教師の口を女房が見つけてくれたので、大人しく従うつもりでいるよ。ところで、ガナップの件だが、なんとか引き受けてもらえないだろうか」

 ボールが真壁に戻ってきた。

「協力したいとは思いますが、私もいつまでこの国にいられるか分かりませんよ」

 心苦しさを感じながらも、無責任な返答は出来ない。真壁は回答を保留した。

「ガナップのことなら、私も力を貸すわ。ゴルフや女遊びだけの駐在員ばかりを見てきたから、小川さんの炊き出しを知って驚いているの。店舗を増やす予定もあるから、彼らの就職も含めて私が面倒を見るわ」

 女将の発言に小川は笑って頷いた。真壁も胸をなで下ろしたい気分である。



            9


 一晩を女将の家で過ごし夜明けが近づいた頃、三人と別れ、これまでのように「ホワイト・プレーン」の宿舎に戻った真壁は、歴史の偽造について考えていた。女将に諭されてから、歴史偽造は大変な罪だと緊張感が増してくる。

「俺はどうしたら良いのだろう」

 真壁は呟いた。女将や長井、そして小川の手前、影山と対決すると言ってしまったが、ことはそんなに簡単ではない。「東比」へ入社した頃の決意、会社を救わねばならない社員としての義務、恵子との訴訟沙汰に対する恐れ、そしてなんといっても影山と対決する勇気の欠如など、他人には理解してもらえない個人的な問題を抱えているのだ。

「歴史を直視出来ない民族は、他の民族から信頼されない」と小川が言っていたのを思い出す。民自党の曽根元総理大臣も新聞で語っていた。まさにその通りだと真壁も思う。

 そんなことを考え始めた頃、そろそろ自分の腹を決めねばならないと思った。

 歴史の偽造問題に立ち向い、最終的な決断をする前に、再度、考えるべきことがあるように思える。しかし考えはまとまらず、真壁はインスタントコーヒーを作り始めた。

 コーヒーカップに口をつけていると、女将の忠告が耳に痛く蘇る。影山を相手にするのであれば、何をどう決意しようとも、己の弱さから思い通りにやり合えないのは分かりきっているのだ。

(もう逃げるわけにはいかない)

 問題は己の臆病心、精神的弱さの克服であるが、今度こそ正面切って向かい合わねばならないと覚悟した真壁は、今後の展開を計算した。

 選挙運動は二月五日が最終日である。明日が十二月十四日なので、十二月の残りは十七日。それに一月の三十一日と二月の五日を加えて、ぬらりくらりと五十三日間、影山や本社を欺し通さねばならない。十二月にはクリスマス休暇があり、一週間や十日くらいは時間が稼げるはずだから、実質的に動きを見せねばならない期間は四十五日ほどとなる。

 一ヶ月半ともなれば、その間、色々あるはずだ。なんと言っても、かつてマニラの駐在をしていた部長が、真壁の動きに口を出さないはずがない。

 部長に真壁が提案したツベラ官房長官のことは、面識がなくコネ作りに時間がかかることから、約束が取れなかった、会えなかった、断られたと、滑った転んだの言い訳で押し通しても疑問には思われまい。

 しかし、日本の常識では考えられないことを、部長は色々やってきたと聞いている。例えば、雇用問題で訴訟を起こした現地社員を、何年も裁判開始を遅らせて諦めさせた話だ。手口は簡単で、裁判所の職員に賄賂を渡し、訴訟の書類を常に順位の一番下に置かせたのである。その話を聞いたときは、その汚いやり方に真壁は憤慨したものだが、それくらいの悪知恵は朝飯前の人物なのだ。

 影山の動きはどうだろうか。急がされたり脅されるのは当然として、見張りがつくことも覚悟せねばならない。どのように彼らは自分を見張るのだろうか。影山の手下が何人いるのかも気になる。

 あちこちと頭を巡らせた。ほかにも考えねばならないのは、藤原支店長がマニラへ戻ってくることだ。もし藤原が戻ってくれば、真壁への帰国命令も予想され、歴史偽造の陰謀が阻止できなくなる。

 早朝ではあるものの、早速、藤原に連絡を取った。ひと月半ほど前、藤原はネグロス島のバコロド市におり、今朝は、今回出張の拠点としているパナイ島イロイロ市のホテルに宿泊しているはずである。不払い問題が片づいていないので、戻って来ないとは思うのだが、万が一ということもある。ここは少し脅しておかねばならない。念のためと思い、真壁は電話をかけた。

「分かった。そういうことなら、俺はマニラへ戻るよ」

 この間の事情を報告すると、予想通りの言葉が藤原から返ってきた。影山の依頼を実行して不払い問題が片付くなら、もはや命が狙われる危険はないと踏んだのだろう。真壁にはお見通しである。

「分かりました。お待ちしております。しかし、マルコスは我々の条件をすんなりと受け入れますかね。市街戦の責任が日本にあることは、全てのフィリピン人が知っていますから、市街戦の責任がフィリピン側にあるなどと言い出せば、むしろ選挙の票を失うとマルコスは考えるのではありませんか。我々の提案を受けるかどうか、私には疑問ですね。

 そもそも、大統領へ依頼を繋ぎ説得するまで時間がかかるし、その間にフィクサーの殺し屋にまた襲われるかもしれません。下手をすれば、マニラへ戻った途端、支店長がズドンと空港でやられることにもなりかねませんよ、二年前のアキノ議員と同じように……」

 やんわりと、真壁は藤原を脅しにかかった。

「俺は怖くなんかないぞ。しかし、それほどお前が心配するなら、本社の指示を仰ぐことにする。なにしろ、こちらは海底ケーブル入札の仕込みの真っ最中だ。この二ヶ月間にレイテ、セブ、ネグロス、パナイの州知事にはやっとのことで面談できたが、まだサマールとボホールは手つかずなんだよ。今ここを離れたら、ライバル商社に先を越されてしまうのは目に見えているから、部長が許可するかなぁ」

 藤原の言い訳がましい様子が感じられる。真壁は笑い出してしまうほどだった。

「今ここを離れたら、ライバル商社に先を越されてしまう」などと、よくも白々しいことを言うものである。藤原の様子に真壁は安堵した。恐らく、この電話の後、真壁の報告を受けた藤原は形式的に部長に連絡を取り、マニラへ戻るかどうか指示を仰ぐだろう。当然にも真壁をスケープゴートにすると二人で打ち合わせている部長は、まだ不払い問題が最終的に片付いていないのだから藤原を戻すはずがない。藤原がマニラへ戻ることはないと、改めて真壁は確信した。



          10


 十二月十五日の日曜日、マニラ南港に近いボニファシオ広場では、アキノ支持の集会が開催されていた。主催者発表十万、警察発表一万の数字である。統一候補となってから初めての集会であり、テレビニュースの画面には、黄色い旗、黄色い鉢巻姿が目につく。黄色はアキノ陣営のシンボル・カラーである。

 朝十時に宿舎で目を覚ますと、真壁はパサイ市の市場へ出かけた。パサイ市はマカティ地区に隣接しており、市場の近くにはバクララン教会がある。バクララン教会は膝ずりの行により血まみれになりながら願い事をすることで有名で、普段は水曜日が混み合うのだが、日曜日のためもあってかかなりの人出であった。

 前回と同じように、日本人相手でも法外な値段をふっかけなかった婆さんの出店に行く。食糧庁のポリ袋に入った米二十キロと菓子類を買うと、花火をおまけにつけてくれた。

 市場から、小川の炊き出しに直行する。長井にも参加を呼びかけているのが心苦しかった。というのは、原田老人の語ったことを、伝えられないもどかしさがあるからだ。

 スラムに通じる路地に入った。以前より悪臭がひどく感じられる。重い米袋を担いで呼吸が荒いせいなのか、それとも毎日のように汚物が堆積するのだから当然のことなのか。

 十二時前にスラムの空き地に着いたが、長井はいなかった。エプロン姿の小川が、手慣れた様子で大鍋に野菜を入れている。エプロンの持ち合わせがない真壁は、半袖シャツにズボンといった普段着で、早速、加勢に入った。

 持ち込んだ米を、水瓶から柄杓でくみ取った水でとぎながら、「長井さんはまだですか」と真壁が訊くと、「今日は遅れてくるらしい。昨晩、電話があって、バターン半島へ行くと言っていた」と小川が答えた。

 長井が現れたのは夕方である。炊き出しの後片付けを終え、小川と真壁が引き上げようとしていたときだった。

「面白いことになってるぞ」

 いつものパパラッチ姿で、カメラを肩にかけた長井が慌てている。エドサ大通り沿いの長距離バスターミナルから直行してきたと言いながら、汗だらけの長井が飲み物を所望した。

「バターン半島へ入る沿道に、妙な選挙ポスターが張り出されているんだ」

 長井がメモを二人に見せた。メモには、「アキノ、ラウレルは日本の手先、マルコスはゲリラの戦士」とある。ここで言う「アキノ」とは、戦争中、親日組織のリーダーであった故アキノ上院議員の父親であり、「ラウレル」とは、当時の大統領で、今回の選挙で副大統領候補になったラウレル氏の父親のことだ。

「バターンは『死の行進』の出発地点だから、反日感情を利用して世論工作が簡単に出来る。マルコスには票の稼ぎ所だ」

 コーラの瓶を一気飲みしてから、長井が二人の顔を見渡した。どう思うか訊いているのである。「バターン死の行進」は、日本のフィリピン統治に大きな意味を持っていた。アメリカの植民地であったため、アジア人意識に目覚めたフィリピン人は白人に嫌悪感を持っており、もし日本の軍政が友好的なものであったら、後の反日感情はかなり抑制されたはずなのである。

 しかし、開戦当初、バターン半島に籠もった米比軍が降伏した際、大本営から派遣された辻政信参謀は、捕虜の処刑を独断で命じた。その結果、一部の部隊は実行し、さらに二万人ほどの捕虜が六十キロあまりの過酷な行進のため死亡したことで、日本への恨みは決定づけられた。地元のバターン州では、今も「忘れるな」と書かれた看板が目立つという。

「影山たちが動いている証拠がないかと思ってね、マリベレスの町で、最近、日本人の姿を見かけないかと訊いて回ったんだが、幸いにも返事はノーだった」

 よほど喉が渇いているらしく、コーラの次に出された黄色い液体の「マウンテンデュー」をラッパ飲みしながら、長井が説明を加えた。マリベレスは政府から輸出加工地区に指定された、東シナ海沿いの町である。

 当時の日本軍司令官であった本間中将は、戦後、日本で逮捕され、マニラで裁判にかけられた後、『バターン死の行進』の責任を負わされ死刑になった。一方、大本営作戦課部員として捕虜の処刑を現地部隊に触れ回った辻政信は、罪を問われることもなく戦後は国会議員になっている。アウシュビッツ捕虜収容所のアイヒマン所長は辻政信と同じ中佐でありながら戦犯とされ、逃亡先の南米でイスラエルの秘密警察に捕まり絞首刑になった。この差は何なのか、日本の戦後処理は本当に終わっているのか、真壁は疑問に思わざるを得ない。

「ところで、ここにいるティムからも聞いたのだが、東南アジア各地の富豪から収奪した大量の貴金属が、市街戦前にマニラに集積されていたのを知っているだろう」

 ソフトドリンクを飲み干し、ひと息ついた長井が言い出した。

「俺も聞いたことがある。それが山下財宝になっていると当地では言うのだが、疑問だな。そもそも山下財宝を掘り当てたというのは、イメルダ夫人が言っていることで、それは不正に蓄財したマルコス家の財産の出所をごまかすためだと思うよ。しかし、マニラに貴金属が集積されていたのは紛れもない事実で、その荷が市街戦の前後にどうなったのか、ひとつのミステリーではあるな」

 小川も興味があったらしく、話に乗ってきた。

 小川の発言に、長井がどう反応するか気になった。真壁はそわそわしてくる。原田老人から聞いたこと、影山のことを長井に教えてやりたい衝動に駆られているのだ。

 しかし、今の状況では女将との約束は破れない。真壁は沈黙を通してその場をやり過ごした。



   第十三章


          1


 日本では盆暮れの休みにあたる期間にフィリピンは入っていた。キリスト生誕を祝う二十五日のクリスマスや、三十日の「リサール・デー」は祝日になっており、田舎へ帰る人が多いため、一月一日までの長い休みになる。「東比貿易」の支店では、日本が六日までの正月休みということもあり、二日までのクリスマス休暇を伝えていた。

 過熱する大統領選挙をよそに、マニラ市内には、十二月に入る前から和やかな雰囲気が漂っている。貧しさにあえぐ人々の気持ちが、この時ばかりは、宗教心に満たされているのだ。気候も良く、朝方は半袖シャツだと涼しく感じられ、つい「寒い」と真壁は口走ってしまうくらいであった。

 主要な街頭の木々は、星形をした赤や黄色の華やかな飾り付けで賑わっている。通りのあちこちに露天商が店を開き、パーティー用のとんがり帽子や花火、新年用のお飾りが売られていた。中には、禁止されている爆竹も売られている。大晦日の午前零時前になると、多くの人が通りに出て、一斉に爆竹を放り投げ新年を祝うのだ。新しい年がすぐそこまで来ているのが、外国人である真壁にも感じられる。

 しかし、表向きの華やかさとは裏腹に、フィリピン国民の間には閉塞感が充満していた。失業率は政府発表では十数パーセントだが、実際には四十パーセントを超していると言われている。共産党の軍事組織である新人民軍の動きも活発になっており、フィリピン全土で政府軍との激しい戦闘が繰り広げられていた。

 二年前の八月、アメリカから台湾経由で帰国したアキノ元上院議員をマニラ空港で暗殺し、当面の政敵を葬ったマルコス大統領だったが、選挙のため希に登場するテレビの姿は、腎臓病からくる顔のむくみや体力の衰えを隠せない。

 大統領府の記者会見では、ジャンパー姿の大統領がテレビ画面に映る。気温や湿度も高く猛烈に暑いフィリピンでは、ジャンパーを着ることなどはない。国民は「冷房が効いているんだなぁ」とあざ笑っている。

 十二月二十三日の月曜日、買い物と映画で昼の時間を潰し、夜はマカティのコマーシャル・センターで晩飯を済ませて、ケソン市の宿舎へ真壁が戻ってくると電話がかかってきた。時間は夜の九時を回っている。

「突然で御免なさい」

 受話器を取った真壁の耳元に、女の声が聞こえた。忘れもしない、沼林景子の声である。

「どうしたの、急に」

 五年前に自分を裏切ったばかりか、今は影山と組んで訴訟を起こそうとしている女である。咄嗟に驚きを隠し、ぶっきら棒に真壁は疑問を口にした。

「私は今、『シェラトン・ホテル』に泊まっているの。あなたの会社から電話番号を聞いて、支店にも宿舎にも十日前に連絡したのよ。でも、あなたの返事がなかったので、見切り発車でマニラへ来たというわけ」

「それは失礼なことをした。日本から電話があったことは聞いていたけど、君の名前を、お手伝いさんが聞きとれなかったんだよ。しかし、それが君だったとはね」

 どんな言葉を交わしたら良いものか、真壁の頭に浮かんでこない。過去の仕打ちに怒るのは大人げなく、かといって心の傷は今もって癒えてはいないのだ。もっとも、生まれつきと言うべきか女性は苦手で、気の利いた話など真壁は出来ない男なのだが。

「年末年始で私も忙しいから、一泊二日の航空券を取ったの。それで、明日、日本へ戻ることになってるの。だから、必ず今夜会ってくれないかしら」

 明日帰ると言われては断ることもできず、承知して真壁はすぐにホテルへ向かった。



          2


 車の中で、真壁は推測した。わざわざ景子がマニラへ来たのは、影山の指図に間違いない。歴史偽造を実行せねば裁判に訴えると、真壁への脅しに現実感を持たせようとしているのだろう。

 ロハス大通りに面した中央銀行の裏手近くに、「ハリソン・プラザ」と呼ばれるショッピング・センターがあり、その駐車場を隔てた反対側に「センチュリー・パーク・シャラトン」ホテルの建物があった。

 ホテルに着き、受付カウンター近くのインターホンから景子に電話をかけると、部屋に来て欲しいと言う。真壁は警戒し、即座に拒否するとともにロビーで待つと伝えた。身に覚えのない婚約不履行で訴えられているとなれば、どんな仕掛けが待っているか分からない。うっかり彼女の部屋に入り込み、婚約不履行の他に婦女暴行の罪まででっち上げられたら万事休すだ。フィリピンで裁判にでもなれば重罪なのである。

 豪華なシャンデリアがぶら下がる一階のロビーには、楽団の生演奏が鳴り響いていた。流れている曲は、数年前に日本でも流行ったフレディ・アギナールの「アナク(息子)」である。

 景子が降りてくるのを待って、真壁はソファーに腰かけた。天井いっぱいに広がる演奏を聴きながらも、複雑な思いが真壁の胸に去来する。景子への警戒心が大きいのは当然なのだが、なにやら甘酸っぱい思いもこみ上げてくる。

(俺は煮え切らない男だな。肝っ玉が小さいくせに、まだこんな感情にとらわれるとは)

 煙草を吹かしながら真壁は思った。

 芋づる式のように、職員室から逃げ出した自分の姿が蘇ってくる。間違いなく、自分の惨めな行動は、景子の耳にも入っていることだろう。

 あの日、あの時、なぜ自分は恥ずかしい真似をしてしまったのか、今更になって後悔しても始まらないが、小川や長井の助言を受けてもトラウマから抜け出せていないとなれば、どの面を下げて景子に相対したら良いのか途方に暮れる。

 自虐の念を心の隅へ追いやるように頭を振っていると、景子が手を挙げてロビーに現れた。

「このクリスマスの時期に、よく航空券が取れたね」

 景子が目の前に座ると、皮肉たっぷりに真壁は話しかけた。影山の指示でマニラへ来たとなれば、どんな時期でも航空券など簡単に取れるだろう。

(色っぽくなったなぁ)

 口に出した皮肉な言葉とは裏腹に、真壁は動揺する自分を感じている。憎んでも憎みきれない女、拭い去ろうにも拭いきれない恋の痛手を抱えて五年余りを過ごしてきたはずなのに、いざ面と向かって景子の姿を見れば惚れ直してしまいそうだった。

「今年はフィリピンへの旅行者が少ないからじゃないかしら。大統領選挙が過熱して、かなり物騒になっていると新聞で読んだわ。私だって、影山さんから言われなければ、マニラには来なかったもの。おまけに、私のような日本人の女性客は珍しいらしくて、機内では男性からじろじろ見られて大変だったわ」

 機中の経験を思い出したのか、迷惑そうな顔を景子は見せた。確かに、若い女性が、しかも景子ほどの美貌の持ち主が男の客ばかりの機内にいたら、かなり目についたであろう。この女は何者なのかという好奇心に晒されたに違いない。それにしても、影山から言われてマニラへ来たとは、やけにあっさりと白状したものである。

「そりゃ、大変だったね。そういえば僕がマニラへ来るとき、スチュワーデスから聞いたんだけど、マニラの路線は八十パーセントが男の客で、こんな国際線は他にありませんよ、と言っていたなぁ」

 他愛のない言葉を景子に向かって言いながら、

(投票を来年早々に控えた今は、確かに何が起きてもおかしくない。旅行客が減るのは当然だが、だとしても、この時期に航空券を取るのは、普通なら出来ない芸当だ。やはり影山の背景には、何か大きな力があるのに違いない)

 胸の内で真壁は考えていた。フィリピン国内で批判を浴びていた売春ツァーは控えめになったものの、日本で働いていたフィリピン女性を追いかけて渡比してくる日本の男は多く、このクリスマスシーズンに殺到することから、簡単に航空券は取れないはずなのだ。

「結婚したんだね」

 景子の左手薬指に光る指輪が気になり、真壁は訊ねた。会うまでは、もしかしたらまだ独身なのかもという、期待に近い心情があったのである。

「そうよ。ちょうど一年前ね」

 視線を真壁から外して景子が言った。

「一年前なのか。僕と別れた後、直ぐにでも結婚したと思っていたよ」

 真壁の頭に、どっと暗い記憶が蘇る。「そうよ」と言った景子の言葉には、どこか棘があった。いつ結婚しようと、貴方には関係ないでしょ、とでも言いたげな、よそよそしい響きである。

「あの時は御免なさい」

 軽く頭を下げると顔を上げ、景子は真壁をまっすぐ見つめている。



          3


 景子の様子に、真壁は拍子抜けした。

(何を今更、「御免なさい」だ。謝ってもらっても済まないことがある。こっちは死ぬほどの思いをしたんだ。それなのに、反省している様子など全く見えないじゃないか。じろじろと俺を見つめやがって)

 真壁の気持ちを察知して構えているのか、それとも言いたいことがあるなら言えというのか、依然として景子は視線をそらさず、表情も崩さない。

「早速だが、君の用件を聞いておこうか。婚約不履行で、僕を訴えるという手紙を読んだけど」

 白々しい対話を交わしているうちに、過去にこだわる男と思われるのも癪になって真壁は本筋に迫った。

「そうね。思い出話をしに来た訳じゃないものね。マニラへ私が来た目的を話しておかないと」

 意を決した口調で言い、景子が大きく息を継いだ。

「はっきり言っておくわ。私の訴訟は、影山さんの依頼に貴方が応えられるかどうかにかかっているの。もし協力しなければ、私は貴方を訴えることになるわ」

「その訴訟の話だけど、訴えたいのはこっちの方だぜ。それは君が一番よく知っているはずだ」

「それは貴方の考え違いよ。私が貴方に愛想を尽かしたのは、結婚に対する貴方の不誠実な態度があったからでしょ。貴方が父兄とトラブルを起こさなければ、何よりも教師を辞めなければ、私は貴方と結婚していたわ。裏切ったのは貴方なのよ」

「何を言っているんだ。父兄とトラブルを起こしたことや教師を辞めたことが、一体何だと言うんだ。そうじゃないだろ。僕が君に電話をした時、好きな人が出来たと君は言ったじゃないか。君の心が変わったから、俺は結婚を諦めたんじゃないか」

 無性に腹が立ち、真壁はソファーから立ち上がった。

(なんて女だ。わざわざ会いに来るんじゃなかった)

 真壁の胸の内は、憤激に満ちていた。五年前にこけにされ、またしても同じ仕打ちを景子から受けたようなものである。

(これが景子の目的だったのか。わざわざマニラまでやって来たのは、やはり訴訟が本気だと俺を脅かすためだったのだ。影山の指示通りに動いているのは明白だが、もしそうだとすると、俺はまんまと彼らの作戦に引っかかったことになる。彼女の挑発に乗り怒ったことで、俺の動揺ぶりが見え見えではないか)

 このまま立ち去るかどうか、真壁は迷った。ふと目の前に座っている景子を見ると、景子が何かを書き留めている。明らかに不自然な仕草である。



          4


「怒ったふりをして帰って」

 景子が小声で囁き、真壁が我に返った瞬間、テーブルに置いたメモを見るよう景子が目配せした。メモには「二時間後に来て」とある。

 真壁は全てを察した。景子は真壁を怒らせ、喧嘩別れをしたように見せたがっているのだ。影山の部下が、ロビーのどこかに紛れて見張っているのに違いない。

 真壁は軽く頷いて了解の合図を目で送った。それからメモを手のひらで握りつぶすと、大声で「ふざけるな」と言い放ち、ホテルの玄関口へ向かった。我ながら迫真の演技である。影山の手下は真壁の怒鳴り声を聞いており、影山へ報告するに違いない。怒った風を装って肩と腕を振り続けながら、真壁は足早にホテルを出た。

(二時間後と景子がメモしたのは、さすがに利口な女だ。俺が立ち去れば、三十分、いや一時間は、影山の手下が残っているかもしれない。更にもう一時間あれば安全と考えたのだろう。しかし、それにしたところで、何を景子は考えているのだろうか。歴史偽造への俺の本心を探り出せという影山の指図があるのかもしれない。だとすれば、俺を油断させるために、あんな小芝居をしたのか)

 正面に広がる駐車場へ向かいながらも、真壁の胸の内は疑心暗鬼に満ちている。

 見張られていることを考慮して、とりあえずホテル前の駐車場から車を出した。運転しながら、これからどこで時間を潰すか、どこで景子と話の続きをするか、どのように彼女の真意を探り出すか思案を巡らす。これといった当てもなく、真壁は近くのロハス大通りに車を走らせた。

 夜の零時が過ぎ、きっちり二時間後に「シェラトン・ホテル」へ戻ると、インターホンを使って真壁は景子を呼び出し、ホテル前のショッピングセンター玄関口で待っていると告げる。

 十分ほどして助手席に乗り込んできた景子に、真壁は話しかけた。

「せっかくマニラへ来てくれたんだ、今の時期、マニラ湾沿いでクリスマスのお祭りをやっているんだ。ここから近いので案内するよ」

 二時間待つ間に、真壁は恰好の場所を見つけていた。「ブームブーム」という催しである。場所はマニラ湾に突き出た広大な埋め立て地だった。その一角は「フィルサイト」とも呼ばれているが、このシーズンだけの特設遊園地がある。ローラーコースターやお化け屋敷、子馬に乗るといった子供向けの遊び場であるが、大人も多い。人混みが凄まじいのは、一年に一度だけのお楽しみということで金を貯め、マニラ近郊からも人が集まってくるからだ。

 混み合う会場の駐車場に車を駐め外へ出ると、スリや強盗も出てくる危険な雰囲気を感じ、景子は真壁の腕にすがってきた。

 人混みを避け、二人は「フィルサイト」の岸壁に向かう。そこも大勢の人で混み合っており、二人だけになれるような場所ではなかったが、軽食を振る舞うレストランがあり、客はフィリピン人ばかりなので、日本人の見張りがいれば見つけやすい。



          5


 テーブルに着くと、真壁は景子の表情を用心深く確かめた。

「あの訴訟は私の本意ではないわ」

 真壁の不信感を早く晴らしたいのか、景子が切り出した。

「私の父は今、校長になれるかどうかの瀬戸際にいるの。二週間前、県の教育委員が私の家に来て、貴方への訴状を差し出し、この書類に署名しろと言うのよ。そして、私が署名すれば父を校長に昇進させる、署名しなければ昇進させないと言うの。婚約不履行の事実はないし、訴訟などできないと私が言うと、『本当に訴える必要はない。真壁進次郎を説得する材料に使うだけだ』と言われたわ。その日は断ったのだけれど、父の昇進のために結果的に署名してしまったの。訴状にサインしたのは、本当に申し訳ないと思ってるわ」

 景子の話は納得いくものであった。教員の世界では、昇進となると黒い噂がつきまとう。教職に就いた学生時代の友人から実際に聞いた話によると、教頭や校長への昇進には二十万、五十万の礼金を教育委員の実力者に差し出すのが常識という。それは、九州のある県の実際の慣習だそうだ。

 教育委員にまつわる黒い噂と言えば、昇進だけではない。教員採用試験では更に凄まじく、コネのある受験者には百点も水増しして強引に合格させることがあるという。口利きのあった国会議員や県議には合格発表前に合否が知らされ、加点する仕組みがあるのだ。しかも、合否の発表前に試験結果を特定の関係者に知らせる教育委員の例は地方ではいくつもあるというのだから、いずこも学校での教育委員の力は絶大なのである。

「金銭ではなく、訴状に署名することが校長昇進の交換条件だったという訳だね。それにしても、その訴状で僕を脅し、何をさせようとしているのか、君は知っているのかい。奴らの計画は、マニラ市街戦の責任がフィリピン側にあると、歴史を偽造することなんだぜ」

 影山のこと、マニラ市街戦のこと、それがなぜ歴史偽造になるのかを、順を追って真壁は説明した。

「それは大変な事ね。もし偽造が成功したら、日本は世界中の笑いものになるわ」

 景子の発言に、真壁は勇気づけられたような気がした。しかし、他人の景子の言葉に勇気づけられるとは、妙な心理だと真壁は思う。それは自分の弱さに関係しているような気がする。景子に勇気づけられようがされまいが自分は自分であり、歴史の偽造は誰もが糾弾すべきことなのだ。

「歴史偽造の話は貴方に任せるとして、最初に五年前に何があったかを話しておくわ」

 バッグから取り出したハンカチで口元の汗を拭き取りながら景子は話しを続けた。

「あの日、貴方が叱ったのは、山本という男子生徒よね」

 念を押すような景子の言葉に、真壁は頷いた。真壁の記憶は少しも薄れていない。真壁が私語を叱ると、山本は無視した上に、真壁に唾を吐きかけたのだ。

「山本君は家に帰ると、貴方から叱られたことを父親に話したそうよ。それに貴方が偏向教師で、貴方から唾を吐きかけられたって」

 景子の話は真壁には想像できた。たとえ嘘であれ、教師から唾を吐きかけられたと息子が言えば、父親なら逆上するだろう。

「職員室に押しかけてきた三人の中に、山岸という人がいたでしょ。彼は県の教育委員だったのよ」

 景子の口から意外な事実が飛び出した。

県の教育委員と聞いて、あの時の状況に納得がいく。山岸が「偏向教育」を口に出すと、しばらく間を置いて教頭が真壁を叱ったのは、山岸が県の教育委員であることを知っていたからであろう。学校施設の運営などを担当する市の教育委員とは違い、県の教育委員は人事や給与、更には教科書選択などの権限を持っており、迂闊な口がきけなかったのだ。

「それだけではないの。山岸は貴方を辞めさせるために、私たちの仲まで裂こうとしたのよ」

 辞めなければ毎日のように押しかけるぞと真壁を脅した教育委員が、なぜ景子と真壁の仲を裂こうとしたのか訳が分からず、真壁は考え始めた。

今更ながらではあるものの、押しかけてきた男達のわざとらしさに気がつく。あの騒ぎの現場にいた父兄の発言の一つ一つが、計画通りに役割を分担しているようだった。「息子は傷ついたんだぞ」と怒鳴り始めたのは山本の父親だが、それを皮切りに、世間知らずを罵る関西弁の男から最後に偏向教育を責める山岸へと、準備したセリフを順番に言っていたのではなかろうか。



          6


 それにしても、なぜ教育委員が真壁と景子の関係を知っていたのかと疑問が湧く。真壁の目に思い浮かぶのは、影山が真壁に見せたファイルである。確かにあのファイルの中には、二人の関係が記録されていた。

「教育委員が僕を辞めさせたかったのは、偏向教育をしている教師を追放したかったからだろうが、なぜ僕たちの仲を裂く必要があったんだろう。そもそも、どうして君はそれを受け入れたんだい」

 自分を失意のどん底に突き落とした失恋が、あの教育委員に仕組まれていたと言われて、真壁の頭は混乱している。

「あの時も私の父がらみよ。教頭になる昇進試験を控えていたの。そして、二人が別れるのなら、父を昇進させてやると言われたのよ」

 景子が頭を下げ、申し訳なさそうな瞳を真壁に向けた。

「僕を辞めさせるために、どうして二人が別れねばならなかったのか、さっぱり分からんな」

 景子の顔を見つめながら、真壁は首をかしげた。

「貴方を学校から追い出すためには、偏向教育を責めるだけでは不充分で、失恋の痛手で精神的に追い込もうとしたんじゃないかしら。こんなことを言うと貴方は怒るかもしれないけど、貴方は読まれていたのよ」

「僕が読まれていたとは、どういう意味だい」

 ますます真壁には意味が分からない。馬鹿にされているようにも聞こえる。

「あなたが精神的に弱いことよ。だってそうでしょ。なぜ山岸と喧嘩もせずに逃げ出したの。どうして学校を辞めたの。なぜ私が別れたいと言ったとき、私を引き留めなかったの。みんな貴方の弱さのせいではないのかしら」

 突然、景子が感情的になった。張り上げた景子の声に驚いたのか、隣のテーブルにいたフィリピン人の視線が一斉に注がれる。

 五年前の別れは、彼女の心も傷つけていたらしい。景子の言葉を、真壁は認めざるを得なかった。痛いところを突くものだと真壁は思う。

「確かに、君の言うとおり、僕は臆病な男だった。そのことは心から謝るよ。しかし、もう君は結婚したんだし、今となっては、全てが覆水盆に返らずというやつさ。もう過去の話はやめようじゃないか」

 言いたいことは自分にもあるが喧嘩はしたくないのだと自分に言い聞かせながら、真壁は話の転換を図った。

「ほらっ、もう逃げている。私を引き留めなかったというのは、私と喧嘩するのを避けていたからでしょ。私は私の非を堂々と責めて欲しかったの。それなのに貴方は口喧嘩の一つも出来ず、去って行った。私はどうしようもないじゃないの」

 景子が目を伏せた。言いたくないことを言ってしまったのだろう。二人の間に、気まずい雰囲気が漂った。



          7


 しばらく沈黙が続いたが、まだ景子の話は終わっていないようであった。むしろ、これからが本題であるかのように、目が緊張している。

「五年前、貴方を確実に辞めさせるために私たちを別れさせた教育委員と、今回、訴訟を迫ってきた教育委員のことだけれど、全く同じ人物、つまり山岸なのよ」

「五年前、そして今、同じ教育委員というのは分かったけど、いったい山岸というのは何者なんだい。県の教育委員という肩書きは立派だが、尋常な思想の持ち主とは思えないね」

 話の先を真壁は促した。

「山岸には裏の顔があるの」

 真剣な眼差しを景子が見せた。黙って真壁は景子を見つめる。

「裏の顔とは穏やかな話ではなさそうだけど、よく知ることが出来たね」

 景子の話が信じられず、真壁は問い返した。

「父の先輩だったからよ。大学時代のね。私が訴訟に同意しないと父に話したら、山岸の素性を話してくれたの。そこまで打ち明けられると、私も父が気の毒になって訴訟の署名に同意したのだけれど……」

 辛そうな表情を景子が見せた。二度にわたる真壁への仕打ちに済まないと思っているのか、それとも自分の父親の苦悩に心を痛めているのであろうか。

「君が僕と別れたのも、訴訟に同意したのも理由は分かった。それで、山岸の裏の顔というのは何だったの」

 山岸の異常さを以前から感じていた真壁は、景子に先を促した。

「日本で最も過激な組織の幹部らしいの。街宣車を繰り出すような表に出る政治結社ではなく、非合法のテロ組織だと父から聞いたわ。だからここへ来たのも、影山に逆らえば貴方の命が危ないことを知らせたかったからなのよ」

 恐ろしい現実に引き戻されたかのように、景子の顔は真剣さを増していた。

 山岸が県の教育委員だったことは、今知ったことである。しかし、誰にも裏の顔があるものだ。見かけや地位だけで人が判断できないのは、この間の経験から身にしみて分かっている。当然ながら、教育委員といえども例外ではなく、景子の話は大いに信用できた。

 内閣調査室のファイル、テロ組織、民族主義グループの大再編、歴史の偽造といった言葉が、次々と脈絡もなく真壁の頭を駆け巡る。影山と山岸が繋がって見える。

「言おうか言うまいか迷っていたんだけど、まだ貴方が変わっていないようなので言わせてもらうわ。怒らないで聞いてね。私が貴方と別れた本当の理由は、貴方が私のことを何も知らないと思ったからよ」

 別れた理由は景子の父親の昇進だと聞いたばかりなのに、何を言い出すのか真壁は戸惑った。

「貴方は理想主義者なのよ。私に対しても、勝手な理想を持っていたでしょ。女に対する男の身勝手と言ってもいいわ」

 厭な予感がする。真壁は身構えた。

「話を蒸し返して申し訳ないけど、貴方は弱虫なのよ。貴方が教育委員に何も言えず職員室から逃げ出すのを見て、なんて男らしくない人だと私は思ったわ。失望して泣いたのよ。そして貴方との結婚を諦めたの。だって、言い争いも出来ずに職場から逃げ出すような弱い男と結婚しても、そんな男に妻や子供を守れるはずがないでしょ」

 景子は涙声になっている。



          8


 真壁は二の句が継げなかった。あの時、あの場所に景子がいたことを初めて知ったのだ。山岸の強面に怯えてパニックに陥り、彼女の姿すら見えなかったのであろう。いや、気付いていながらも、余りにみっともないので、見えなかったと自分に思い込ませていたいたのかもしれない。恥ずかしいにもほどがある。真壁は針のむしろに座った気分に陥った。

 一方で、景子の本心を知って情けなくもなった。男らしくあることが、そんなに重要なことだと知らなかった自分に対してである。男らしいかどうか、そんなことは二の次であり、むしろ人間らしさが大事だと考えていた。女性を勝手に美化して生身の姿を知ろうとしなかった自分を、景子は理想主義の持ち主だと言っているのであろう。

「お願いだから、影山の言うとおりにして。歴史の偽造に手を貸してあげて。さもないと、本当に貴方は殺されるわ」

 景子は真剣である。今は他人の真壁のことを、心から心配しているのを感じた。それでも、真壁は頷けない。男らしくないと言われたばかりなのである。考えを変えて歴史偽造に加担するなどと言い出せば、影山に怯えていることを白状するようなものだ。

「貴方の考えは分かったわ。もう影山に協力してとは言いません。歴史偽造の話をあなたから聞きながら考えていたのだけど、今は別の心配をしているわ。歴史偽造に成功してもしなくても、実行したあなたは、いずれ口封じされるのではないかしら」

「僕も君が考えるとおりだと思うよ。奴らのやり口を考えると、まともな人間とは思えないからね」

 景子の心配に答えながら、真壁は恐怖に捕らわれていた。協力しようがしまいが、自分の命は風前の灯火だと景子に気づかされたのだ。

 しかし、そんな怯えの一方で、何かが心の内で吹き払われた気がする。敵の正体がはっきりしたからではない。歴史の偽造からは逃げないという決意が強まったのだ。歴史の偽造が世界を敵に回すとすれば、日本を救わなければならないと思うのは、日本人である限り当然ではないか。そんな当然の責任が、今は真壁一人の肩にかかっているのだ。それを理想主義と言って笑うなら笑えば良い。

「協力しようがしまいが口封じされるとなれば、僕は全力を尽くして戦うことにするよ。なんと言っても、君が訴訟に同意しないとなれば、後顧の憂いなしだ。今度マニラへ来るときは、旦那と一緒に来てもらいたいな。歓待するよ」

「やめておくわ。私の旦那さんも、実は教師なの。この先、なんだかんだと山岸たちにつきまとわれたら、何が起こるか分からないでしょ。今度こそ、私は本当に貴方の足を引っ張るかもしれないわ」

「分かった。君の言うとおりだ。とことん奴らは君を利用するだろう。その時に僕たちがいがみ合わないよう、きっぱりと別れるべきなんだろうね」

 帰国する景子が、なぜか羨ましかった。自分が取り残されているようにも感じる。恐らく、日本への里心がついているのであろう。不甲斐なくも涙が流れそうになった。

 景子をホテルへ送り返し車内で一人きりになると、景子の言葉が重く心に蘇ってきた。自分は喧嘩の出来る男にならねばならない、このマニラで頑張り、影山と大喧嘩をして見せてやる、今度こそ逃げないぞと真壁は決意を新たにした。

 マニラの夜が終わろうとしている。自分の青春が過ぎ去ったのを真壁は感じていた。



  第十四章


          1


 十二月も終わりとなり、いよいよ大晦日になった。小川の帰国する日である。空港横のレストラン「ラ・メール」で昼飯を取った後、小川を見送って、真壁は長井と共にマニラ国際空港の出発ゲートにいた。時間は成田行きの便が出る午後二時の三十分前である。

「ガナップの連中を頼む」

 真壁に小川が声をかけた。つい昨日も小川は電話をよこし、真壁は引き受けたことを伝えてある。

「ガナップの面倒を見るのは、日本人のつけを回されたようにも、貧乏くじを引いたようにも思うかもしれないが、まぁいいじゃないか。どれほどの散財をしようと、日本人としての負の精算をしていると考えれば、それが僅かであっても納得いくだろう」

 小川が真壁の手を強く握った。よろしく頼むという熱意が伝わってくる。

「承知しました。先のことは分かりませんが、私がフィリピンを離れるまでは責任を持ってガナップたちの面倒を見ます。『鳥羽屋』の女将も、協力してくれると約束してくれましたしね」

 真壁の言葉に偽りはなかった。景子の話を聞いてから、何もかもがすっきりしてきたのである。景子と別れた理由がはっきりし、くすぶっていた景子への恨みも解消したからだ。

 しかし、歴史の偽造を拒否しながらも、面と向かって影山と対決できるかどうか、自分の弱さが克服出来るかどうかは、今以て不安である。更には、行方の分からないリサがどうしているのかも気になっていた。

 それでも真壁は決心している。これからは、本当に自分がしたいことに、喧嘩する覚悟を持ってぶつかる日々を送ることだ。その覚悟のひとつが、小川の頼みを受けることであった。女将が協力してくれることも、励みになっている。

「車の中でも話しましたが、くれぐれも用心して下さいよ」

 長井に向かって、小川が心配そうな顔を見せた。

 空港へ来る途中、長井が語っていたのは、戦争中にマニラへ集積されていた貴金属の話で、どんな貴金属だったのか、ひょっとすると日本軍がマニラにこだわった理由に関連してはいないかと、米軍の資料や当時の港湾作業者を探し始めたことであった。港近くのトンド地区にも顔を出していると言っており、スラム街の治安が悪いことから、小川が心配しているのである。

「心配は無用だよ。トンドの連中にも沢山の知り合いが出来たし」

 小川の心配をよそに、長井は自信たっぷりの表情を見せた。さすがにジャーナリストだと真壁は思う。

「それだけじゃないです。例の影山にも食い込んでいるとなれば、いずれ我々との関係が知られ、まずいことになるのではありませんか」

 更に小川が長井の身を気遣った。真壁も同感である。ジャーナリストが何かを嗅ぎ回っているとしても、それが核心に触れたとなれば、影山も容赦はするまい。三年前に長井を訪ね、マニラ市街戦をめぐって不審な態度を見せた元上官のことが、真壁には気になっていた。

「分かっているよ。感づかれないように用心するから、心配しないでくれ」

 長井が応えると、背後から声が聞こえた。

「出発者以外は立ち入り禁止だ。直ぐに出ろ」

 自分たちのことかと真壁が振り向くと、少し離れたところに、空港警備の兵隊がいた。両腕を使って自動小銃を抱えている。



          2


 兵隊が声をかけたのは真壁らに対してではなかった。中肉中背、黒いTシャツ姿の白人男が、すたすたとやってくるのを止めようとしていたのである。

 警備兵は自動小銃を斜めに構え、白人男の胸に押し当てて進入を阻止しようとした。ところが、その瞬間、白人男は自動小銃をひょいと片腕で払いのけ、何事もなかったような顔を見せて真壁らの側を通り過ぎていく。その後も落ち着き払った足取りで、ゆっくりと出発ゲートに向かって歩いていった。

 面子を潰されたのか、照れ隠しのように兵隊は戸惑いの表情を浮かべている。やがて、近くにいた同僚の兵隊が駆けつけると、二人で顔をつきあわせて笑い出した。

「我々とは随分と扱いに差があるんだな」

 肝が据わっているのか、職業柄なのか、ずけずけと長井が兵隊に声をかけた。からかっている態度が見え見えである。

「あの白人はアメリカ人だから仕方ないだろ」

 憤然として、警備兵が答えた。まずいところを見られたと、内心は恥ずかしく思っているのに違いない。

「どうしてアメリカ人だって分かるんだ」

 更に長井が兵隊に問いかけた。ばつの悪さから一刻も早くこの場を去りたいと思っている兵隊が怒り出しはしないかと、真壁は気が気ではない。自動小銃を目の前にしていると、どうしてもびくついてしまう。

「うるさい奴だな。お前は知らないのか。フィリピンはアメリカの裏庭なんだよ」

 これ以上からかうと撃つぞとばかりに、相棒の兵隊が銃口を向けてくる。

 確かに、自動小銃を払いのける度胸といい、堂々と歩いて行く姿といい、恐らくアメリカの軍人か大使館員なのに違いない。かつての宗主国であり、スービックに海軍基地、クラークに空軍基地を置くアメリカは、今もフィリピン人の心を支配しているのである。

 真壁は思い出していた。二ヶ月ほど前、「世界復興銀行」、別称「第二世銀」から派遣されているアメリカ人コンサルタント一家に付き合って、買い物へ行く途中のことである。左折禁止の場所で警官に捕まると、コンサルは全く悪びれる様子なくまくし立てた。

 どんな抗議をしているのかと真壁が聞き耳を立てていると、「俺たちは外人だから見逃せ」、「なんでそんな所に立っていたんだ」と声を張り上げている。そんな問答が炎天下の路上で三十分も続くと、さすがに真壁は警官が気の毒になり、百ペソ紙幣一枚をこっそりと渡して引き上げてもらったものだ。アメリカ人の態度は、このフィリピンでは度を超しているのである。

 兵隊に向かって「ゴメンネ」とばかりに長井が片手を挙げると、真壁らを追い払いもせず、あっさりと二人の兵隊は背を向けて歩き出していった。

「近いうちにまた会おう。二月五日が選挙運動の最終日だったよな。歴史偽造を打ち砕く結果報告を待っている」

 小川が真壁に声をかけ、出発ゲートに入って行った。あっさりとした別れだが、これが男同士の挨拶というものだと、少しばかりしんみりとしながら真壁は思う。

「さてどうしますか」

 真壁は長井に声をかけた。

「『ホンエイ』のリサを君も知っているだろ。もう彼女は退職したそうだが、これから会いに行くんだ」

 真壁の意表を突く言葉と共に、嬉しそうな顔を長井が見せた。

「恋人ですか。長井さんも隅に置けないな」

 反射的に真壁は茶化して見せた。そういうことなのか、現実は意外なものだと真壁の心は動揺している。長井の奥さんは病死したと聞いており、リサと恋人関係であっても独身であれば目くじらを立てる筋合いはない。

 そうはいっても、かつて恋人にしたいと思っていた女性が、自分の友人と恋仲になるのは心穏やかならぬものがある。二人の関係がいつから始まり、どれほど深いのか知りたくもなる。

「気になるのかね」

 真壁の動揺に気がついたのか、長井がからかうような表情を向けた。

「そりゃそうですよ。あれほどの美人ですからね。羨ましく思うのは当然じゃないですか」

 半ば破れかぶれ、敗残者のような気持ちに捕らわれながら、真壁は笑って見せた。

 長井に頼まれるまま、リサが待っているという「マニラ・ホテル」まで送って行き、真壁は宿舎へと車を走らせた。運転しながらも、恋心を失った痛みが、軽い嫉妬とともに真壁の胸にこみ上げてくる。



          3


 年が明けた一月三日金曜日、出社早々の真壁に部長から電話があった。影山の依頼を実現する最終かつ非常手段として、大統領の演説原稿をすり替える手はずをしておけと言うのである。真壁は驚いて見せたが、そこまでやるのかと思わせるのが部長であり、予め覚悟はしていた。日本の正月休み期間中、部長は陰謀を巡らせていたというところだろう。

「東比」のような零細商社が一流メーカーと組んで政府入札に参加するには、一流メーカーの強い引きがなければならない。それは大手商社の出来ないこと、避けていることを成し遂げてこそ可能になる。例えば、二番札、三番札の契約を取るのは当たり前であるが、そんなレベルの話しではなく、出張してきたメーカー社員が性病に罹ったり、帰国が遅れてディスカウントの航空券が無効になったり、物騒なブラックマーケットでのペソ交換など個人的な面倒まで見るのだ。こんなことまで駐在員はやらねばならないのかと、常日頃から真壁は辟易していたものである。

 部長の指示は、まさに低レベルも極まれりであるが、言うは易く行うは難しであった。まずはスピーチ・ライターつまり演説草稿を作る人物を探しだし、近づかねばならない。草稿者探しは評論家よろしく、あちこち聞き回れば良いが、問題はどう近づくか、どう口説き落とすかである。口説くための行き着く先は金の話になるのだろうが、いくらフィリピンでも個人的な信用がなければ金の話は出来ない。こればかりは、飛び込みというわけにはいかず、然るべき人物からの紹介を仰がねばならないのだ。

 歴史偽造に手を貸すためではなく、部長の目をごまかすために真壁は動いた。影山を油断させるためにも、本格的に行動する必要がある。

 演説原稿草稿者の信頼が得られる、然るべき人物は誰かと真壁は考えた。大統領の取りまきが候補に挙がる。取りまきといっても、役人の必要はない。

 真壁の方針は正しかった。「東比」とコネがあり、マルコス大統領の選挙を応援している船会社の社長に頼み込むと、数日後、演説原稿の担当者に紹介される。

 面会場所はケソン市の「スル・ホテル」であった。普段は大統領府勤務なのだが、わざわざ外で会おうと言うのは、いずれ金の話になると踏んでいるのだろう。

 予想外だったのは、草稿者が三人いること、原稿は演説前の会議に諮らなければならないことだった。会議のメンバーはツベラ官房長官、選挙責任者、与党幹部など数名だと言うが、いずれも面識がない人ばかりである。誰の発言力が強いのかを聴き出そうとしたが、いずれも癖の強い人ばかりで、一人に絞るのは難しいと言う。

 内心、真壁はしてやったりと思った。今日の報告をすれば、大至急、全員に会えと部長は言うであろう。となれば、これだけの人数である。全員と面談するには、面談を取り付けるだけでも半月近くの時間がかかる。一所懸命やっていると部長や影山に思わせるには、恰好の口実になるに違いない。

 一方で、影山の依頼を受け、部長に実行を命じられてから、紆余曲折の迷いを抱えながらも、真壁はマルコス側近を訪問していた。影山の目が光っているとなれば、いい加減な真似は出来ない。尾行されているのは、この間の出来事からも明らかであった。

 時には大統領府を訪ね、時には個人の事務所や自宅を訪ねることを繰り返す。勿論、面談の約束などを取り付ける必要はなく、訪問の許可だけを秘書からもらい、ひたすら待合室で時間を潰したり、自宅訪問の空振りをして動いているのを見せれば良い。実際に面談するとなれば、大変な手順を踏まねばならず、しかも異常な神経を使わねばならないのだから、ある意味で真壁にとっては気楽な日々であった。



          4


 二月五日の選挙運動最終日を一週間後に控えた一月三十日木曜日の夕方五時頃、突然、一人の日本人青年が支店に現れた。襲われてマニラへ戻ったその晩、影山のアパートで真壁を出迎えた若者である。相変わらず不気味であった。この時も瞬き一つせず、まっすぐ真壁を見つめて、直ぐに影山の部屋へ来いと言う。半ば命令口調で、自分より一回り年下の乱暴な言葉に真壁は厭な気分がする。

 アヤラ通りに面する影山のアパートを訪ねるのは二度目であった。今度は気分が全く違っている。連行されるような圧迫感を覚えるのは、二月五日の選挙運動最終日を控え、歴史偽造の最終確認を求められると思うからだ。この一ヶ月間、数度にわたり進展具合を影山には電話で報告していたのだが、ぬらりくらりの真壁の態度に、もはや我慢ならなくなったのであろう。

 影山の部屋に入ると、高価そうな皿を並べた観賞用の戸棚が部屋の奥にあり、その棚の上には無線通信機が置かれている。真壁に座るよう手を差し出して勧め、ソファーに座った自分の脇に若い男を立たせたまま影山が口を開いた。

「この間の報告を締めくくってもらおうか」

 影山は薄笑いを見せている。

「選挙参謀や官房長官へのコネ作りに手間取りましてね。彼らの関係者を当たって、ようやく面談できる手はずになったんです。タイムリミットが近づいていますが、まぁ、心配しないで下さい。いざとなれば演説草稿に細工しろと、部長からも指示されていますから」

 愛想笑いを返しつつも、本心が気付かれないかと真壁は気が気ではない。

「白々しい嘘を言うな。いつ演説が行われるか、俺は交渉の結果を訊いているんだ。いいか、お前の魂胆は分かっているぞ。ジャーナリストの長井とも連絡を取っているようだな。奴から余計な入れ知恵をされているんだろうが、それで本当に良いのか。沼林景子が訴訟を起こすぞ。婚約不履行で訴えられたら、どうするんだ。裁判になればお前は帰国せねばならなくなる。会社も首になるのは覚悟しているんだろうな」

 口調を急に変え、意地悪そうな唇を影山が開いた。

「心配などしていませんよ。仮に婚約不履行で訴えられても、時効というものがあるでしょう」

 真壁にしては余裕綽々の反論であった。沼林恵子の本心を既に聞いており、怯える必要はもうなくなっている。

「何も知らない元教師だな。婚約破棄の慰謝料が支払われていない場合、債務不履行の請求権は十年もあるんだぞ」

「不履行も何もないでしょ。そもそも、別れを言われたのは私なんですから」

 真壁はうんざりした顔を見せた。

「どちらが言い出したか、そんなものは問題にならん。我々には優秀な弁護士がついており、裁判官にも仲間がいる。事実なんてどうにでもなるんだ」

 影山の脅し文句が続いた。真壁には逃げ隠れする理由はないのだが、今ひとつ不安は拭えない。これからの話し合いで、果たして自分が影山とやり合えるかどうか自信がないからである。

「たかが一個人の民事訴訟ではないですか。弁護士までなら話は分かりますが、裁判官まで仲間内というのは大袈裟すぎませんか。それより、なぜ、こんな手紙に沼林恵子を巻き込んで署名させたんですか」

 裏の事情を知っている真壁は、余裕を持って惚けた質問をした。嘘に嘘を重ねさせ、少しでも影山より心理的な優位に立とうという目論見である。

「署名させたりなんぞしておらんよ。お前は卑怯な男だな。まるで彼女が嘘をついているような言い方じゃないか。お前は彼女と結婚を匂わせてつきあっていたんだろ。結婚詐欺師と同じじゃないか。そんな輩が訴えられるのは、当然の話だろ。今更何を言っているんだ」

 余裕を感じさせる真壁の反論に、影山が苛立ちの様子を見せた。 

「分かりました。訴訟の話はさておいて、今日、私を呼びつけた理由を言ってもらいましょう。先日の依頼を私が意図的にサボっていると、疑っておられるようですね」

 回りくどい影山の言い方に、真壁はしびれを切らした。

「その通りだ。お前の浅はかな企てに騙される俺ではない。いいか、甘く見るなよ。俺の目は節穴じゃないんだぞ」

 真壁の態度に気がついたのか、脅しの効き目がないことから影山は本題に入った。

「ところで、お前に会わせたい人物が来ているんだ」

 影山が言い終わらぬうちに別室のドアが開き、二人の男が姿を現した。どちらも見覚えがある。



          5


 真壁は戦慄した。忘れもしない、五年前、職員室で真壁を脅した関西弁の男と山岸ではないか。心臓の鼓動が激しくなってくる。あの時の動揺ぶりが、そしてあの光景が、はっきりと目の前に蘇った。

「影山さんを手こずらせているそうだな。ふざけやがって」

 乱暴な仕草で、どっかりと影山の隣に山岸が腰を下ろした。真壁の真正面である。

「あの時のお前は、可哀想だったな。涙を流して職員室から逃げ出したんだ。そんなに俺が恐ろしかったかね」

 山岸が真壁を睨みつけた。五年前と同じ鋭い目つきである。

(こいつら全員が、同じ組織のメンバーなのか)

 まずいことになったと思った瞬間、これまでと違う自分であることに真壁は気がついた。

(今は場所が違えば状況も違う。あの時は偏向教育をしていると責められ、自己弁護をしようとした。そして、その瞬間、喉が詰まって声が出なくなった。声すら出せない自分の弱さに俺は絶望し、為す術がなくなって逃げ出した。しかし、今の俺は自己弁護をしようというのではない。恥さらしな歴史偽造の企みを、全ての日本人に代わって阻止しようとしているのだ)

 胸の奥底で、勇気とは違う感情が湧き上がっていた。大きな責任感である。

 一方で、真壁の頭にはエンリレ国防相の姿がちらついていた。国を憂い、民族を思い、何かをじっと待っている男の姿である。真壁は二人の男を比べざるを得ない。目の前の山岸は、強面に威勢を張り、真壁を怖がらせているだけの小男に見えた。

「仰るとおりです。恐ろしい貴方にまたお目にかかるとは、私も運のない男です」

 怯えながらも、真壁は落ち着いていた。四人の男に取り囲まれても、声が出せたのだ。これを立派と言わずになんなのか。他人から見れば立派でも何でもないのだろうが、過去の自分を知っている真壁には、我ながら褒め称えてやりたい心情なのであった。

「臆病者のくせに、一丁前に落ち着き払いやがって。いい加減に恥を知り、我々に協力すると覚悟を決めたらどうなんだ」

 真壁を軽くあしらうような山岸の口調は、もはや聞く耳は持たぬと言っているようであった。

「どうする。ここで死んでもらうか、それとも約束を守るか、どうするんだ」

 山岸が真壁の決断を迫った。

「まんまと私はおびき出されたようですね」

 若い男、関西弁の男、それに影山と山岸ら、四人に向かって真壁は笑って見せた。声を出せたことが力になっている。

「分かりました。では、はっきりと言いましょう。歴史偽造の協力は出来ません」

 ゆっくり、そして全身に力を込めて真壁は言い放った。

「ほうっ、あの時のなよなよしたお前が、少しは男らしくなったようだな。だが、そこまでだ」

 ソファーの横に立っていた若い男と関西弁の男に、山岸が目配せをした。二人が頷き、出てきた部屋に戻っていく。

 十秒もしないうちに、散弾銃を脇に抱えて男たちが戻ってきた。二人とも黒い目出し帽をかぶっている。

「エドサ通り」で襲われた記憶が、電流が走ったかのように蘇った。あの夜の、襲撃犯はフィクサーの私兵ではなかったのだ。とんだ思い違いもあったものだと思いながら、真壁は山岸を睨みつけた。

(襲撃を命じたのは、影山なのだろうか、山岸なのだろうか。もし山岸だとすれば、わざわざ犯行のために日本からやってきたことになるが、当時は「漁港」の問題があったのだから、影山が命じたのは間違いあるまい。そして、あの夜、自分を襲ったのは目の前の二人の子分であり、関西弁の男は五年前の職員室で大阪から来たと言っていたので、普段から各地を渡り歩く組織専従者なのだろう)

 修羅場に追い込まれながらも、真壁の頭には雑念が浮かんでくる。誰の命令で襲われたのか、関西弁の男が何者なのかはどうでも良いことだ。エドサで襲撃されたときも、間の抜けた言葉が浮かんでいたのを思い出す。小説のような作り話とは違う、これが現実の人間の姿なのであろう。

「今頃気がついたのか。やはり、元教師というのは頭が鈍いんだなあ」

 影山が薄笑いを浮かべた。唇がへの字に曲がっている。この男にはこんな癖があるのかと、今更ながら真壁は気がつく。

 散弾銃を抱え直し、二人の男が銃口を真壁に向けた。一秒、二秒と時間が過ぎる。影山か山岸か、どちらかの合図を待っているのだ。



          6


 銃弾が発射されたら、自分の脳が吹き飛ばされる。真壁は即死を覚悟した。その瞬間、父、母、姉、長井、小川、女将そしてリサの顔が、カメラのフラッシュのように次々と脳裏に閃いた。時間にすれば零コンマ2,3秒、瞬きする間もない、ほんの一瞬の現象である。

 突然、部屋の奥にあった棚の上から大声がした。無線通信機からである。

=影山さん、聞こえますか。大変です。至急、応答して下さい=

 辺り構わぬがなり声のため、スピーカーの音響が割れている。

 関西弁の男に、無線を受けるよう影山が指図した。

=アジトが荒らされたんです。まだ近くに潜んでいます。すぐ応援に来て下さい=

 無線機の向こうにいる男は、かなり慌てていた。舌をもつらせ、なりふり構わず叫ぶ様子が真壁の耳に伝わってくる。

「なんや。もっと詳しく言わんと、こっちも動きようがないやろ。いつ押し入られたんや」

 関西弁の男も、つられたように言葉を荒立てる。

=たった今です。私が外から戻ると、アジトから逃げ出した奴がいたんですよ=

 無線の報告に驚いたのか、一瞬の静寂の後、影山が口を開いた。

「ぼんやりするな。直ぐに車を取ってこい!」

 影山の命令一下、真壁を連れに来た若い男が真っ先に外へ飛び出した。山岸もソファーから立ち上がっており、慌てた表情を見せている。「ええんですか、こいつをこのままにしておいて」

 関西弁の男が口を尖らせて山岸に言うと、そのまま口惜しそうな目つきを真壁に向けた。

「そんな場合でないことが分からんのか。お前も後を追って車を急がせろ!」

 山岸が怒鳴り声を上げた。助かったと安堵するものの、影山と山岸の異様な姿に真壁は気を取られてしまう。

 車が来る時間を待つ間、影山が口を開いた。

「今度こそ『東比』本社の部長にお出まし願いたいところだが、来ないだろうな。わざわざ俺が東京に戻ってマニラへ来るよう頼んだのに、忙しいだ何のと言い訳しやがって、本当は不払いのために殺されるのが怖くて仕方ないんだ。可愛い部下の支店長は地方へ雲隠れさせ、中途入社のお前を大統領の生け贄にしているんだから、社長といい部長といい、お前の会社は臆病者ばかりだな」

 真壁に向かって、相槌を求めるように影山が言う。威張り腐った栗山部長の顔が思い浮かび、「その通り」と、思わず真壁は声を出しそうになった。

 影山たちと一緒にマンションを出て路上で別れると、夜十時を回っていた。近くの「インターコンチネンタル・ホテル」のロビーに寄り、二十五センタボスのコイン三枚を公衆電話に入れて真壁は長井に電話をかけた。

 電話の呼び出し音を聞きながら真壁の頭に浮かぶのは、今し方の無線のやりとりである。もしかすると、影山の事務所に忍び込んだのは、長井ではないのか。何か重要なものが奴らのアジトにあったのだろうか。もし長井が忍び込んだとすれば、無事に逃げ切れるだろうか。心配がつのった。

 しかし、もしそうでないとしても、今夜、影山に呼び出された顛末を伝え、これ以上、長井が影山に近づくのは危険だと警告しておかねばならない。真壁のサボタージュは見破られており、長井との関係も知られているようなのだ。

 電話口に長井の応答はなかった。ホテルのロビーで半時間を費やし、再度、連絡を試みたが結果は同じである。

 疲れ果ててはいるが、意を決して真壁は長井の住居へ車を走らせた。「レガスピ300」に着き、薄暗い廊下で呼び鈴を押しては何度もドアを叩いたが、長井の部屋から応答はなかった。



   第十五章


          1


 影山に呼び出された四日後の二月三日、栗山部長から電話がかかってきた。日本は月曜日の午後四時頃である。

「なぜ報告してこないんだ」

 早速の怒り声である。報告がなかったと真壁を責めているのは、四日前の出来事を指しているのだろうが、連絡しなかったのは真壁の計算だった。影山が部長へ真壁の非協力ぶりを報告するのは間違いなく、そうなれば部長は真壁の報告を待つだろう。しかし、土曜、日曜を挟んでいることもあり、真壁の報告はない。影山の依頼を果たせず、報告もしてこない真壁に、怒り心頭に発した部長は電話をかけてくる。そうなればこっちのものだ。聞く耳を持たない部長に依頼を果たせなかった言い訳をする必要もなく、むしろ自分の怒りをぶつけられる。なにしろ、二度も殺されかけているのだ。もはや上司にへつらう男ではないと、部長に思い知らせてやる考えだった。

「どうもこうもないでしょ。呼ばれて出かけてみれば、影山の部下から私は散弾銃を突きつけられたんですよ。どれほどの恐怖だったか、あんたには分からないんですか」

 予定通り、真壁は部長にたてついて見せた。

「まぁ、それはいい。もう何を言っても始まらん。しかし、やってくれたもんだな。ついさっき、日本にいる影山から電話がかかってきてな、昨日の日曜日、NBIに踏み込まれて国外追放されたと言っていたぞ。お前が仕組んだのだろう」

 初めの怒り声はどこへやら、半ば茶化すような部長の口ぶりに変わっていた。もともと影山への個人的な印象が悪いためなのか、影山の依頼に自分が振り回されてきた後ろめたさがあるのか、それとも真壁の態度に驚いたのか、一連の責任を追求するニュアンスは感じられない。

「本当に追放されたのですか。それが事実だとしても、私は仕組んでなんかいませんよ」

 部長の口調に釣られて、つい真壁も軽く返事をした。影山がフィリピンから追放されたというのは、誰の仕業なのか真壁に心当たりは全くない。

「それでこれからのことだが、しばらく君にはマニラに残ってもらうことにした。当面は選挙結果が出るまでだ」

 拍子抜けする部長とのやりとりだった。会社の命令に背き影山の依頼を足蹴りにした真壁の責任は、当然にも厳しく追及されると覚悟していたのである。

「どうして選挙が片付くまで私は残るのですか。明日にでも私は帰国して構いませんが」

 部長の意図は分かっている。選挙の結果が出るまで残れというのは、大統領への不払い問題を見極めたいのだろう。

「こっちは銀行に追われて、てんやわんやなんだよ。影山からの入金がなくなり、会社が危ないんだ。馬鹿な社員の相手をしている暇なんかないんだよ」

 捨て台詞を残して、部長の電話が切れた。切羽詰まった経営ぶりが、目に見えるようである。



          2


 影山のマンションから解放されて以来、長井の事務所には何度も電話を入れた。しかし、「地方へ取材に出ている」、「まだ戻っていない」と秘書は繰り返すばかりである。

(こんなに心配していても、とんだ取り越し苦労になるかもしれない)

 影山のマンションで聞いた無線が気になるものの、長井が賊であったとは言い切れない。なにしろ、泥棒が珍しい国ではないのだ。

(まさか、リサと地方へ遊びにでも……)

 良からぬ考えが頭を掠める。年末に小川を見送った後、確かに長井はリサに会うと言っていた。意味深な印象も拭いきれない。

 影山の国外通報を知らせる部長の電話があった翌日、二月四日の朝十一時頃、突然、長井の秘書から電話があった。気が動転しているのか、秘書の話すタガログ語と英語のまぜこぜが良く聞き取れない。とにかく、大変なことが起きたことは分かる。長井の事務所兼住まいになっている「レガスピ300」のビルに真壁は駆けつけた。

 秘書の電話を受けてから、三十分以上が過ぎていた。真壁が事務所に飛び込むと、仕事机を背にした長井が、血まみれの椅子の上で仰向けになっている。首から肩にかけて噴き出る血の中で、脳みその一部が見える状態だった。

 真壁が救急車を呼んだのかと秘書に訊くと、真壁に電話する前に呼んだと言う。フィリピンの例に漏れず、半時間が過ぎてもまだ到着していないのだ。

「長井さんが外から戻ってくると、直ぐに一人の男が入ってきて、いきなり散弾銃を発砲したの」

 真壁に秘書が訴えた。散弾銃と聞いて真壁の頭に閃くのは、「エドサ通り」で真壁を襲い、影山のマンションで真壁に散弾銃を突きつけた男のことである。

「もしかすると、その男は目出し帽をかぶっていなかったか」

「そうよ。それから『テンチュー』と叫んでいたわ」

真壁の質問に秘書が頷いて答えた。「テンチュー」とは「天誅」のことであろう。だとすれば犯人は強盗などではなく、影山の手下に違いない。影山が国外追放されても、まだ彼らは残っていたのだ。

 数日も留守にしていた長井が、今朝になって突然戻ってきたこと、散弾銃の男にカメラが奪われたことなどを秘書から聞き取っている間にも、いつ救急車が来るかと気になって仕方がない。

(襲撃犯人が影山の一味となれば、やはり、あの無線で話していた侵入者は長井さんだったのだ。何日もかけ、やっとのことでマニラまで無事に戻ってきたのに、帰宅直後に襲われるとは、さぞ残念だったろう)

 どこで、どのように隠れて追跡を振り切ったのか、影山のアジトからマニラまで、どれほどの距離があったのかと頭の片隅で思いながら、十分、二十分と時間が過ぎる。



          3


 このまま待つか病院へ運ぶか真壁が迷っていると、リサが部屋に入ってきた。真壁より三十分ほど遅いが、真壁と同様に秘書に呼ばれたのであろう。

「早く病院へ運ばないと駄目じゃないの」

 もたついている様子に苛立ったのか、真壁はリサに叱りつけられた。

 リサに手伝ってもらい長井の肩を担いで一階の玄関口に辿り着くと、血だらけになった三人の様子を見た人たちが駆け寄り、よく聞き取れないタガログ語を叫んでいる。「ビリサンモ(急げ)xxx」とかなんとか言っているのだが、もどかしいばかりである。

「マカティ・メディカルセンター」へ真壁は車を走らせた。俗に「エムエムシー(MMC)」と呼ばれており、唯一といっても良い、フィリピン屈指の信用がおける病院である。

 交通渋滞を抜け、やっとのことで病院の裏口へ着いたのは、秘書から電話を受けて三時間も過ぎた午後二時をまわっていた。建物の正面は外来患者の出入り口になっており、裏口に「救急救命室」がある。

 担架で運び込まれた長井を診ると、直ぐに医者は絶命を告げた。脳が破壊されており、呼吸もなく、出血多量で手遅れだと言う。

 長井の遺体は安置室へ運ばれた。遺体安置室は救急室と同じ階の建物の端にあるらしい。薄暗く長い廊下がむき出しのセメントに変わった頃から、漂うホルマリンの匂いが次第に強くなってくる。

 リサと共に遺体に付き添って歩きながら、真壁は考えていた。

 三日前の栗山部長の電話を思い出す。影山が国外追放されたと言っていたが、はたして長井が関係しており、その恨みをかったのだろうか。しかし、長井にフィリピン当局を動かす力があったとは思えない。

 遺体安置室に入ると、検視官が来るまで院内に留まるよう係員が言った。いつ来るか分からないが、とにかく待てと言ってにやりと笑う。何事もちゃらんぽらん、これがフィリピンだ、済まんなという気持ちが見て取れる。

 やりきれない気分がつのった。秘書が呼んだ救急車は来ず、事件が発生してから病院に辿り着くまで三時間もかかり、更に検死官はいつ来るか分からないと聞くと、何につけてもルーズな感じがして苛立ってくるのだ。

 自責の念も覚える。後悔しても仕切れない。気が動転していたとは言え、救急車が直ぐ来ると思っていた。だが、ここはフィリピンではないか。日本とは違うのだ。更に、救急車を呼んだかどうかは訊いたものの、どの病院へ電話したのかすら真壁は秘書に確認しなかった。何という慌てぶりだったのかと、自分が情けなくもなる。恐らく長井は即死状態だったのであろうが、もう少し早く病院へ運び込めなかったものだろうか。

 血に染まったシーツに包まれた遺体を見ているうちに、三年前に肺気腫で死んだ父親のことを思い出す。火葬場で遺体が焼かれると、胸の中が空洞になったような虚しさを感じたものだ。

 だが、その時と今は違う。悲しみはそれほど大きくない。それは肉親か他人かの違いだけではなく、殺されたことへの怒り、理不尽さに対する怒りが強いからであろう。

「ここから出ましょう」

 リサに言われて真壁は我に返った。しかし、つい数時間前まで生きていた長井を置いて立ち去るのは忍びなく、真壁はしばらく遺体安置室で立ちすくんでいた。



          4


 病院内にレストランがあった。外来患者用の正面玄関を入って直ぐの右側である。

 席についても空腹を全く感じない。リサも同じらしく二人はアイスコーヒーを頼んだ。

 しばらく沈黙が続いた。何を言ったら良いのか頭に浮かばず、運ばれてきたコーヒーを眺めながら時間が経っていく。

「大変なことになったね」

 ようやくのことで真壁は口を開いた。何を考えているのか、リサは返事をしない。当然と言うべきか、元気がない様子である。

 無理に話しかける気分にもなれず黙っていると、真壁の胸中に長井の姿が蘇ってくる。僅か三ヶ月前に国内空港の前で出会った男、父親をマニラ市街戦で失った男、「東比」の不払いを知って注意を促す電話をくれた男、ライバル会社の小川を空港で一緒に見送った男、そしてひょっとしたらではあるがリサの恋人の男。いったい彼の死が、どうしてこんなにも悲しくさせるのだろうか。

 思えば、ただ国内空港で知り合っただけではなく、あのとき彼は大統領の賄賂問題を追及してきた。父親を失った話では、マニラ市街戦の疑問を話しあった。大統領とのトラブルを心配する電話では、バッカイ医師の話を細かくしてくれた。リサの恋人かどうかは推測の域を出ないが、もしそうであったにしても、「これからリサに会う」とわざわざ教えてくれたのは、彼なりの気遣いだったのだろう。

 あの時、その時の長井の声と情景、自分の姿が蘇えってくる。一つ一つの出来事に細かな思い出が詰まっていることを、今更のように真壁は気付かされ涙が出てくる。

「私が悪いんだわ」

 心ここにあらずの様子だったリサが、不意に呟いた。

「どうしたの、突然」

 長井を振ったことなのかと真壁は思うが、色恋沙汰でリサを責めるようなことは口に出せない。嫉妬心を悟られるのは恥ずかしく、女心を傷つけるのも男らしくない。

「長井さんが殺されたのは、私のせいなのよ」

 意味の掴みかねることをリサが言い出した。落ち着いて、順序立てて話してくれと真壁は頼む。影山らの国外追放から話は始まった。

「私は影山の正体を知っていたの。それで私はNBIに協力を頼んで、危険な彼らを国外追放させたのだけど、一網打尽とはいかずに、まだ影山の手下が残っていたのね」

 真壁の目を見つめながらリサは、表情を崩した。何を言い出すのかと、真壁には理解できない。言い方は悪いが、こんな小娘にNBI(国家犯罪捜査局)を動かす力などあり得るのだろうか。

「それと長井さんが殺されたのとは、どんな関係なの。君がNBIを動かしたのが事実だとすれば、追放したのは君であって、長井さんではないんだろう。それなのに、なぜ長井さんは奴らに恨まれて殺されねばならなかったんだい。そもそもNBIに協力させたと言うけど、いったい君は何者なんだ」

 素性を隠されていた不信感とも言うべきか、湧き上がる感情に耐えられず、真壁はまくし立てた。

「私はアメリカ合衆国政府から派遣された、『対日戦争犯罪追及委員会』のスタッフよ」

 リサの言葉に真壁は我が耳を疑ったが、合点がいくこともある。

「なるほど、アメリカ政府の職員ならフィリピン政府やNBIを動かすのも簡単というわけか。それにしても、『対日戦争犯罪追及委員会』というのは初めて聞く名称だな。そもそも、戦犯の追及は『東京裁判』でとっくに終わっているはずだよね。本当に今も存在している組織なのかい」

 かしこまった政府機関の名前を聞かされ、しかもリサがアメリカ政府の職員だと知って、真壁の口調は大人しくなってしまう。強面だけでなく、権威にも弱い男なのだと真壁は自覚する。

「貴方には信じられないでしょうけど、生体実験や細菌兵器に従事した日本人の動向を始めとして、今以て日本の戦争協力者、科学者や民族主義者にも目を光らせているわ」

 リサの答えは真壁を再び驚かせた。戦後四十年になっても尚、日本はアメリカの同盟国であるにもかかわらず、敵視するかのように歴史にこだわり続ける事などありうるのだろうか。



          5


 リサの正体を聞いて、これまでの疑問が思い出されてくる。入札会場での出会い、葬儀屋での再会、洪水の夜に秘書の家にやってきたことなど、どれもこれも偶然ではなかったのだ。

「ところで、なぜ君は僕を追いかけていたのか教えて欲しいな。僕は戦後生まれで戦争犯罪者ではないし、御用学者や民族主義者でもないぜ」

 リサの話には、まだ真壁は狐につままれた気分である。

「貴方は五年前、工作機械を輸出した担当者だったでしょ」

 またしても、意外な話がリサの口から飛び出してきた。勿論、真壁は覚えている。新人教育の一環として、入社早々に初めて行った仕事らしい仕事である。輸出先はシンガポールで、社長の懇意にする大手「優友商事」の副社長から譲り受けた商談と聞かされていた。

「あの工作機械は、紛争当事国や共産圏には輸出禁止になっているもので、水爆製造に必要な遠心分離機が作れる精密なものだったの。大手商社のカラチ駐在員がパキスタン政府から依頼を受けて、その大手商社の副社長が『東比』の社長へ商談を持ち込んだというわけね」

 リサの話を聞きながら、あの時の光景が如実に蘇ってきた。社長と部長がひそひそ話をしていたことだ。新人社員の真壁は見積もりの作成、シンガポール側とのメールのやりとり、乙仲や船会社の手配など基本的な業務しか任されておらず、しかも小物であるために大手商社が扱わないと聞かされていたので、ひそひそ話が自分の仕事と関係があるとは考えもしなかった。今から思えば、社長と部長が密談をしていたのは、紛争当事国、とりわけ共産圏への迂回輸出と認定されないよう「ココム(=対共産圏輸出統制委員会)の目をどうすり抜けるかだったのだろう。

「気になる話だな。すると、あの工作機械は、書類上はシンガポール向けだが、そこからからパキスタンへ再輸出されたというわけだね」

「違うわ。機械はシンガポールで荷揚げされたのだけれど、その後マレーシアへ陸路で運ばれ、北朝鮮傘下の工場に据え付けられたのよ」

「よくそこまで君は知っているね。ただの推測じゃないのかい」

 真壁は疑いの表情をリサに見せた。被爆国の国民である自分が、知らぬこととはいえ水爆製造の手助けをしていたとは信じたくもない。

「あなたは世界中の通信網をアメリカが握っていることを、知らないのかしら」

 余りの真壁の非常識さに驚いているのか、リサがあきれ顔を見せた。

 真壁の内心は穏やかでない。水爆製造の手助けをした後ろめたさだけではなく、日本の大手商社の裏の顔を思い知らされたからだ。しかも、「東比」のような弱小商社を操って、汚い仕事を請け負わせているのである。

「原子力の問題となると、やはり追及が厳しいんだね」

 知らなかったとはいえ、違法行為をしてきた自分を隠すつもりはなく、反省の意を真壁はリサに伝えた。

「原子力に緩いのは日本だけよ。平和的と思われる原子力発電にも国連の監視があるわ。なにしろインドのように、原子力発電のためと言いながら、いつの間にか原爆を持っていたりするのだから、どこの国の誰がどんな取引をしているか、血眼になってアメリカは通信を傍受しているのよ」

「しかし、僕が精密工作機械の輸出を担当したから君に追いかけられていたのは分かるけど、どんな関係が核の問題と『戦犯追及委員会』にあるんだい」

「よく聞いて頂戴。長井さんが殺されたことに私が申し訳ないと思うのは、マニラ市街戦の最中に日本へ運び出された可能性があるウランの話をしたからなの」

 またしても、リサの話は思いもよらぬものだったが、それと同時に、帰国する小川を見送った大晦日、リサと長井が会った理由の想像がつき、真壁は何故かほっとした気分になった。どんな経緯で知り合ったのかは分からないが、二人の関係は職業的なものなのだろう。

「それはおかしいよ。ウランの鉱脈など、フィリピンにはないぜ」

 二人の色恋沙汰を疑った後ろめたさを隠して、真壁は疑問の声を出した。

「勿論、フィリピンのものではなくて、チェコスロバキアのウラン鉱石らしいわ。40年前の1945年五月、日本へ向かうドイツの潜水艦が敗戦で降伏して、その潜水艦から560キロの酸化ウランが押収されたのをご存知かしら。東条内閣の日本は『理化学研究所』で原爆開発を急いでいたから、それ以前にも潜水艦で運ばれた疑いがあるのよ」

「確かに、ドイツへ派遣された『伊8号』が、日本へ戻った唯一の潜水艦だったと長井さんから聞いたことがある。ということは、バシー海峡の戦況が厳しく、日本本土を目前にして撃沈されることを恐れた日本海軍は、危険なウラニウムをマニラで一時保管し、潜水艦乗りだった長井さんの父親は、そのウラニウムを日本へ運び出すためにかり出された可能性があるね。

 追い詰められた日本は『カミカゼ』まで繰り出して時間を稼ぎ、戦局を好転させる最終兵器として原爆開発を急いでいたから、ウランを欲しがっていたのは頷ける。そのことを知った長井さんは、話の裏を取るつもりだったのかもしれないが、それにしたところで、なぜ長井さんは殺されねばならなかったんだろう」

「日本の右翼的過激組織が原爆開発の技術を持っていること、北朝鮮の原爆開発に協力していたこと、にもかかわらず日本政府の捜査が不充分であること、もしかすると一部のウランはまだフィリピンに残っていることなどを私は長井さんに教えたの。それで長井さんは影山のアジトを探して……」

 リサが声を詰まらせ、目頭を押さえた。

「相容れない思想の国と日本の右翼組織が結びつくとは僕には考えられないなぁ。一体、相互にどんな得があるのかはっきりしないじゃないか。きっと長井さんだって、君の話には半信半疑だったと思うよ」

 リサの話を信じかねた真壁は、いかにも疑り深い口調で疑問を呈した。長井が殺されたのは自分の責任だというリサの心を、少しでも軽くしてやりたい心情もある。

「日本人は原爆の被害者でしょ。だったら、原爆がどういうものか、現実がどうなっているかに関心がないのは、私には理解できないわ」

 信じがたい表情を真壁に見せ、リサが話を続けた。

「原爆は爆発させれば良いってものじゃないの。実験を繰り返し、そのデータを積み重ねて技術的に安全かつ小型化してこそ、ミサイルに積み込める実用的な兵器になるのよ。でも、日本で核実験は出来ない。そこで日本の過激派はミサイル技術を持つ『北』に目をつけ、インドに対抗するパキスタンに『北』を近づかせ、数度の核実験から貴重なデータを手に入れようとしているわけ」

 リサの口調は、説教調になっていた。

 リサの意図が伝わってくる。確かに、原爆は恐ろしい、残酷だといくら訴えても、核を必要とする国は存在するのであり、核の拡散を本気で押さえようとするなら、原爆がどんなものかを知り、世界に目を配らねばならない。真壁は己の不勉強を恥じた。戦争反対、原爆反対は、お題目であってはならないのだ。



          6


「こんな話はどうかしら」

 自分の話を信じない真壁の様子を見て、リサが表情を引き締めた。そんなに大事な話があるのかと、真壁も姿勢を正す。

「もっと世界の動きを勉強して頂戴。余りにも日本人は知らなさ過ぎるわ」

 リサがもったいぶった様子を見せた。日本人を軽蔑するニュアンスを感じ、おまけに、勉強しろとはよくも言うものだと、内心で真壁は憤慨した。

「右でも左でも、裏には裏があるのよ。例えば、北朝鮮にも通じている韓国の反日宗教団体に、日本の政権与党や一部の野党が選挙協力を頼んでいるのを、貴方は知らないの。もう二十年以上も前から続いていることなのよ」

 非難のような眼差しが、真壁に向けられた。

「そんなことはない。そもそも、もしそんなことが事実なら、日本のマスコミが黙っていないはずだぜ。昔とは違うんだ」

 真壁は気色ばんだ。目の前のフィリピン人、いやアメリカ人は、どこまで日本人を馬鹿にしているのだろうか。ふと長井の顔が浮かぶ。過去のマスコミを反省していると言った、初めて会った国内空港での姿である。 

 しかし、待てよと真壁は思う。ロッキード事件が頭を掠める。当時の首相の金脈ぶりなどは、ジャーナリストの誰もが知っていたことなのに、一人のジャーナリストが月刊雑誌に投稿するまでタブーであったではないか。

「情けないわね。日本に贖罪をさせる宗教団体の存在は、韓国では誰もが知っていることよ。だからこそ、日本の与党や野党が頭を下げているのを見て、朝鮮の人は反日に確信を持つようになっているんじゃないの」

 所詮は他人の国のことと思っているのか、あっさりとした口調でリサが言った。

「もしそれが事実なら、日本の政治は売国奴によって行われていることになる。あり得ない話だよ」

 なおも真壁は食い下がった。ことは政治のあり方だけではなく、一つの国家に対する存続の問題でもあろう。

 二十年以上も前に、韓国の反日宗教組織を日本に導き入れた政治家は誰なのか、気になって仕方がない。真壁が訊ねると、リサは元首相の名前を小声で囁いた。さもありなんと真壁は思う。その名は、かつて満州国を切り回した人物であった。その頃から彼は国際感覚に長け、阿片の売買によって四分の一もの満州国財政を切り盛りしたと言われており、戦後は台湾や朝鮮の裏人脈にも通じている。

 それにしたところで、選挙運動の協力を得るためだけに、彼らは政治家の魂を売ったのだろうか。確かに、選挙を利用して自分の派閥を大きくすれば、党内を支配し、総理大臣にも居座り続けられるわけだが、本当にそれだけだろうか。もし選挙協力の中に、外国の組織、それも反日団体からの献金が含まれていると明らかになれば、政党が解散しても不思議ではあるまい。裏金の問題をリサに問い質したいところだが、日本人としてあまりにも恥ずかしい話であり、真壁には聞き出す勇気が出てこなかった。

「なぜ日本のマスコミが黙認しているか、貴方は分かるかしら。これはアメリカのジャーナリストから聞いた話だけど、ある放送局のキャスターがその反日の宗教団体をニュースで批判したところ、その放送局に何千件もの抗議電話が、何日間も殺到し続けて、仕事が出来なくなったそうよ。それだけではないの。報道番組関係者の家族にまで尾行がついたり、嫌がらせがあったそうよ。もっとも、上からの圧力もあったでしょうから、うやむやになるのは、いつの世も商売を優先するマスコミの姿勢が変わらないということかしら」

 リサの話が一段落すると、真壁は黙り込んだ。戦前ならいざ知らず、現代の政治やマスコミにあってはならない話である。もし事実なら国を揺るがす大問題だが、ここで事実かどうかは確かめようがない。

 しばらくして真壁は気持ちを取り直した。今考えるべきことは、長井のこと、長井が殺された事実である。なぜ長井は殺されたのか、真壁が工作機械に関係したことが事実であっただけに、影山と原爆のリサの話は単なる推測だとは言い切れない。

 少しずつ納得がいった。なぜ長井が影山のアジトに忍び込む危険な真似をしたのかである。潜水艦乗りだった父親がマニラにいた謎、マニラ市街戦の隠された真相の謎を解きたかっただけではなく、日本の捜査が及ばないフィリピンの地で、「北」と通じて原爆技術を持つ過激派のアジトを、何としてでも自分の目で確かめ、世間に暴露したかったのではなかろうか。

 真壁は深呼吸をした。これまでの疑問に納得がいき、興奮も少しずつ冷めていく。にもかかわらず、体がほてり、気分が晴れないのは、長井の仇をどうするか考えてしまうからであった。

「これから君はどうするんだい」

 真壁はリサに訊ねた。

「明日、私はアメリカへ帰ることになってるの。今回のことも報告しなければならないしね」

 憂鬱そうであったリサの表情は、使命を帯びた軍人のように厳しくなっている。真壁の抱いた恋心は、完全に消えていた。



   エピローグ


 マルコス大統領の当選が発表されたものの、不正選挙で政情不安になっている二月二十二日の土曜日、国防省のあるアギナルド基地にエンリレ国防相が立て籠もった。テレビのニュース司会者は、改革派将校が大統領府を襲い、マルコス大統領の暗殺を企てたと興奮気味に伝えている。

 宿舎に近いこともあり、午後七時頃、ニュースを聴いた真壁は国防省に駆けつけた。報告の義務を負う駐在員としての立場以上に、個人的にエンリレ国防大臣のことが気になっている。顔見知りの仲というより、自分に自信を持たせてくれた強面の先生という気がするのだ。

 国防省の正門は閉じられていたが、門の外は民衆が押しかけ、鉄格子を通して見える構内は武装した兵士でごった返していた。肩につけた国旗のワッペンを逆さにし、機関銃を担ぐ迷彩服姿が見える。とてもではないが、エンリレ大臣との面会は適わない。

「真壁さんじゃないの」

 押しかけた民衆にもみくちゃにされている真壁に、日本語の女性が呼びかけてくる。「鳥羽屋」の女将であった。女将とは、つい昨日、昼飯時に鳥羽屋で会ったばかりだ。

「大変なことになったわね」

 女将がしかめ面を見せた。更に何かを女将が言ったが、騒がしくて立ち話どころではない。「アラネタ・コマーシャルセンター」に場所を移しませんかと、真壁は大声で叫んだ。

 近くのクバオにあるセンターのファースト・フード店で、真壁は考えていることを女将に伝えた。

「長井さんが殺されて、このまま帰国して良いものか迷っているんです。まだマニラに留まって、なすべき事があるような気がしているんですよ。というのは、私は長井さんに命を助けられたようなものなんです。影山のアパートで散弾銃を突きつけられ、死を覚悟したその時に、無線が入ったんですから。もし長井さんが影山のアジトに忍び込まなかったら、間違いなく私は射殺されていたと思います」

「そうだったの。そういうことなら、事件のことは忘れられないはずね。日本に戻って新しい人生を歩むとなると、貴方は心苦しいんでしょう」

 真壁に合わせるように、女将も思案に暮れた表情を見せた。

「でも、もう少し割り切ったらどうかしら。歴史の偽造を阻止しただけで、貴方は充分に役目を果たしたんだから」

 浮かない顔をし続ける真壁を見かねたのか、女将が言葉を続けた。

「そうかもしれません」

 完全に納得はしていないものの、勇気づけられるのを真壁は感じた。自分が出来ることには限りがある。これまでの経緯があるとは言え、出来もしないことをあれこれ考えたところで仕方のないことだ。

 暗闇の迫るエドサ大通りから、群衆のざわめきが聞こえてくる。

「どうなるんですかね、このクーデターは」

 表の様子が気になり、真壁は女将に尋ねた。

「参考になるか分からないけど、アキノさんは死刑廃止を承諾したそうよ」

 妙なことを女将は言い出した。死刑廃止とクーデターの行方がどんな関係にあるのか、真壁は怪訝な表情を浮かべる。

「これは大きな事なの。つまりね、キリスト教がアキノさんの味方についたということよ。死刑廃止はキリスト教の原理主義者が強硬に主張していたことだから、教徒を総動員し、体を張ってでも政府軍を阻止するはずよ。そうなれば大統領も迂闊に手が出せない。その結果どうなるか、私には想像がつくわ」

 女将の言葉が飲み込めない。確かにフィリピンはカソリック教徒の多い国だ。だからといって、マルコス大統領は手をこまねいているだろうか。真壁には半信半疑である。

「この国で宗教の影響力が強いのは承知していますが、そんなに死刑の廃止はキリスト教にとって重要なんですか」

「キリスト教で自殺が許されないのは知っているでしょ。人の命は神に与えられたものなのだから、勝手に生死を自分で決めることはできないの。死刑制度も同じ事で、いくら裁判官であっても、人の命を人が奪うのは、神を冒涜することになるのよ」

 女将の顔は確信に満ちていた。恐らく、フィリピンで暮らす彼女もキリスト教徒なのだろう。

 死刑廃止は人道主義に基づくものと思っていた真壁には、意外な話であった。いかに自分の知識が表面的であるか、思い知らされた気分である。

 世の中は分からないものだと真壁は思う。まだまだ勉強が足りないことを自覚させられる。気はせくものの、今後どうするかを決めるのは、現状ではおこがましいとすら思えてくる。

 マルコスの当選が発表されたことで未払い問題が残ってしまったため、まだ真壁の帰国する日は決まっていない。もっとも、女将の言葉を信じれば、クーデターは成功しアキノ大統領が誕生する。いずれにせよ、帰国の日は近いだろう。

 「さてどうするかな」

 女将を前にして、真壁は独り言を呟いた。


                   (終)



(この作品はフィクションです。いかなる団体、人物にも関係ありません)



<参考文献>


マニラ海軍陸戦隊 (新潮社) 小島襄

落日のマニラ (鱒書房) 村松喬

長崎の鐘 付「マニラの悲劇」 (人間叢書)長井隆

南西方面海軍作戦 (朝雲新聞社) 防衛庁防衛研修所

艦長たちの軍監史 (光人社) 外山操

 

大東亜戦史3 フィリピン編 (富士書苑)

昭和史探訪4 (角川文庫) 三國一郎、井田麟太郎編

昭和史 (平凡社) 半藤一利

昭和史の天皇 レイテ決戦 下 (角川文庫) 読売新聞社編

陸軍特別攻撃隊 1、2、3 (文春文庫) 高木俊郎

孫たちへの証言 第一八、二二、二三集 (新風書房)

レイテに沈んだ大東亜共栄圏 (角川文庫) NHK取材班=編

 

神聖国家日本とアジア (勁草書房) 鈴木静夫、横山萬佳 編

物語・日本人の占領 (朝日新聞社) 津野海太郎

フィリピンBC級戦犯裁判 (講談社選書メチエ) 長井均

戦中用語集 (岩波新書) 三國一郎

 

比島従軍日記 (善本選書10) 大森建道

ルソン島敗残実記 (美樹書房) 矢野正美

在留日本人の比島戦 (光人社NF文庫) 藤原則之

狂気 (徳間書店) 友清高志

山中放浪記 (中公文庫) 今日出海

ぼくの比島戦記 (光人社NF文庫) 山田正己

フィリピン戦線の人間群像 (勁草書房) 守屋正

モンテンルパの夜明け (光人社NF文庫) 新井恵美子

私の中の日本軍 上、下 (文春文庫) 山本七平

軍艦武蔵 上、下 (新潮文庫) 手塚正己

ルソンの砲弾 (光人社NF文庫) 河合武郎

決断 (講談社文庫) 深田祐介

いっさい夢にござ候 (中公文庫) 角田房子


マルコス王朝 上、下 (サイマル出版会) S・シーグレーブ

BREAKAWAY   Cecilio T. Arillo


阿片王 (新潮社) 佐野眞一

東条英機と阿片の闇 (角川ソフィア文庫) 太田尚樹

満州裏史 (講談社) 太田尚樹

児玉誉士夫ー巨魁の昭和史 (文春新書) 有馬哲夫

日本の地下人脈 (祥伝社文庫) 岩川隆

秘録 陸軍中野学校 (新潮文庫) 畠山清行

内閣調査室秘録 (文春新書) 志垣民郎

 

大本営参謀の情報戦記 (文春文庫) 堀栄三

参謀本部の暴れ者  (文藝春秋) 三根生久大

瀬島龍三ー参謀の昭和史 (文春文庫) 保阪正康

沈黙のファイル(新潮文庫) 共同通信社社会部編

源田実 (光人社NF文庫) 生出寿

山下奉文 (文春文庫) 福田和也

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駐在員と市街戦 南風はこぶ @sakmatsu

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