きらきら

棚霧書生

きらきら

 汗をかく麦茶のコップを指先でなぞる。縁側から差し込む陽光に雫が照らされきらきらと輝いて見えて、つい手が伸びた。ガチャン、とコップが倒れて大きな音が鳴ってしまった。たったったっ、と誰かがこちらに来る足音。

「あー!? お茶がこぼれてる!」

 いつもは優しい声音に驚きと少しの怒りが混じっている。俺は四本の足で素速く駆け、数馬の股の間をくぐり抜けた。

「待て、コン太!」

 数馬に見つかる前に生け垣に飛び込み、身を隠す。小さな獣の体はこういうとき便利だ。

「コン太、どこだ?」

 数馬は見当違いなところを探していた。その姿をこっそりと覗いているとちょっとした優越感が湧いてくる。俺は変化の術をつぶやきながら、彼の背後に忍び寄った。

「ここだ、数馬」

 人間の男の姿に変わった瞬間に数馬を後ろから抱き寄せる。

「わっ!? コン太、急に人間の姿になるなよ。誰かに見られたら……」

「俺は構わない」

「僕が構うんだよ!」

 人間の都合など知るか。うるさい口だ。

「駄目だってば!!」

 数馬は俺の口を手のひらで塞いでしまう。

「もうっ! この前も言っただろう。人間は特別な相手としか口と口は合わせないの」

「面倒な決まりだ。俺には関係ない。無視しろ」

「人間の僕にとっては大事な決まりなの! はあ……誰か来る前に早く離れて」

「ふん。つまらん」

 弱いくせに俺に命令するなんて、いつの時代も人間は生意気だ。特に凛堂家の者たちは。

 ふと、数馬を見ると随分前に死んでしまった彼の祖先のことを思い出す。もう名前も忘れてしまったけれど、彼は数馬によく似ていた。いや、数馬が彼に似ていると言ったほうが正しいか。

 数馬の色素の薄い茶色の髪が太陽の光に透けてきらきら光っている。俺はそれを綺麗だと思った。


 最初そいつは俺のことを狐の妖怪だからという単純な理由でコンちゃん、と呼んできた。家の名は凛堂、下の名は長い時が流れるうちに忘れてしまった。俺は薄情者かもしれない。色々な初めてを凛堂から教えられたというのに、彼の名を忘却し、彼との思い出に浸ることも年々少なくなってきた。

「それは仕方のないことだよ。どれだけ素晴らしい景色を見たとしても、鮮明に思い出せるのは短い間だけさ」

 凛堂の声が聞こえた気がした。優しいのにどこか冷めたところのある言葉。まさに凛堂が言いそうな、よくできた幻聴だった。

 ミーンミンとどこかで蝉が鳴いている。ねぐらにしている社のそばに生えている椿は青々としていた。夏も盛りのこの時期には一輪の花も咲いてはいない。だが、俺が凛堂を思い出すとき、そこには必ず真っ赤な椿の花があった。


 寒い寒い冬の日、常だったら来ないはずの彼が突然、俺の社までやってきた。

「コンちゃん、いるかい? コンちゃーん、コーンコンコンコン……」

 社のそばにやってきた凛堂は片手で狐の形をつくると四方に向かって、ふざけた調子でコンコン言い出す。

「おい、やめろ」

 たまらず草陰から飛び出し、人間の男の姿に変わる。俺は凛堂を前にして少し緊張していた。

「あら、そこにいたんだ?」

「お前のために出てきてやったんだ。感謝しろよ、凛堂」

「別に出てきてくれとは頼んでないよ。いるのか、いないのか問いかけただけ」

「ああ……、じゃあ俺に用はないんだな、それでいいんだな!?」

「用がないとは言ってないだろう。せっかちだなぁ」

 気の抜けるやりとり。俺はため息をつくと同時に体から無駄な力が抜けていくのを感じていた。

「凛堂……、あんた、その喋り方は改めたほうがいいぞ」

「どうして? 君はこういう物言いをする俺だから、興味を持ったのだと思っていたのだけれど、勘違いだったかな」

「……意地が悪いと指摘されたことは?」

「ははは、どうだったかな。正確には覚えていないけど、まったくないとは言わないよ」

 凛堂は不思議な男だった。まだ凛堂が幼かった頃、妖怪と友達になりにきたと言って、当時、呪いの社と呼ばれていた俺の棲家に現れたときと変わらない顔でけらけら笑っている。純真とは言い難く、どこか含みのある複雑な笑い方をする、それが凛堂という男の特徴だった。

「俺さ、ついに結婚することになったよ」

「……っ、そうか」

 俺は動揺した。凛堂が人間の女と結婚する、それは成人して仕事も持っている彼にとってはいたって自然なことだった。

「相手は商家のお嬢さんでさ、彼女のお父上が俺のことを随分と気に入ってくれて……。とんとん拍子にってやつ?」

「よかったじゃないか……」

 おめでとうとは終ぞ口にはできなかった。俺は凛堂に特別な気持ちを抱いていたから。そして、そのことは感のいい凛堂に気づかれていたらしい。

「だから、コンちゃんとは結婚できないって言いに来たんだ。椿の咲く寒い冬の間、もうここで俺を待たないでいいんだ」

 下を向いていた俺は凛堂がどんな顔をしてその台詞を言っているのか、わからなかった。でもきっと、見なくて正解だ。人間への恋をこじらせた哀れな妖怪に対する表情など、ろくなものではないだろうから。

「妖狐の婚姻は椿の咲く雪の中で行うって、コンちゃんは教えてくれたね。今まで冬の間、俺の前に自分から姿を現さないのはここで俺を待っていたからなんだろう? ごめんね、期待に応えられなくて」

「それはあんたの勝手な思い込みだ。俺は待ってなんかいないっ……!」

 視線の先で真っ赤な椿が雪の上にぽたりと落ちた。あの椿の命は終わり。そして、俺の恋も死んだ、あとは腐って消えるだけだ。

 それから、凛堂に会わずに数十年が経った。俺はあいつの元にはいかなかったし、凛堂も俺を呼ばなかった。このまま、凛堂に関わらず、いつ凛堂が死んだのかも知らないまま、時を過ごしていくのだと思っていた。あの日までは……。

 社の椿が美しく咲いていたことをよく覚えている。天気雨も降っていて、妖狐の結納の儀をするにはこれ以上なくいい日だった。凛堂が俺を呼ぶ声がした。弱々しく今にも消え入りそうな、か細い声が。

「俺を呼ぶからには、俺に用があるんだよな?」

 俺は凛堂に会いにいった。凛堂が前に住んでいた家とは違い、とても大きくて立派な屋敷の一室に凛堂はいた。昼間だというのに布団に横になって、憔悴している様子の凛堂。その姿は年老いてやせ細っていた。

「コンちゃん、よく来てくれたね……。もう俺のことは忘れてしまったんじゃないかと心配だったけど……ゴホッゴホッ……」

「おい、大丈夫なのか?」

「いや、大丈夫ではないだろうね。俺はもうすぐ死ぬ。だから、コンちゃんを呼んだんだ。思い残すことはないほうがいいと思ってね」

「……思い残すことってなんだよ」

「ふふ、こっちに来て。俺の手を握ってくれるかい?」

 俺は凛堂のそばに座り込み、言われた通りにした。彼の手はすぐに折れてしまいそうな枝のようだった。強く握りしめることは躊躇われて、柔柔と包み込むように両の手のひらの中に閉じ込める。

「コンちゃんって、優しいよね。いい子なのに、どうして俺なんか好きになっちゃったかなぁ」

 俺は言葉を失う。凛堂の真意が見えなかった。凛堂のことを好きじゃないとは時が経った今もとても言えないし、好きなものは好きなのだと開き直る勇気もなかった。唇が凍ったように固まってしまう。

「ああ、困惑させてしまったかな。ごめんね、コンちゃ……、ゲホッゴホッ……!」

「凛堂!?」

 凛堂が口から紅い血を吐き出した。咳はなかなか止まらず、俺はこのまま凛堂が死んでしまうのではないかと思った。

「だ、誰か呼んできてやる! 人間の医者を連れてくる!」

「行くな……、ここにいてコンちゃん。俺の頼みを聞いて?」

「頼みだって? そんなのあとでなんだって聞いてやる。でも今はあんたの体のほうが……」

「今じゃなきゃ駄目」

 本当は凛堂も妖怪で妖術でも使ってるんじゃないかと思ってしまうほど、彼の瞳には強い光があった。目を惹きつけられる宝珠のような輝き。これが俺のものになったらよかったのに。惚れた弱みもあり、俺は凛堂に折れてやった。

「コンちゃん、俺と結婚して?」

「……え」

 凛堂の頼みは俺が望み続けた願いと同じものだった。だが、だからこそ凛堂の考えていることがわからなかった。なぜ今更、結婚してほしいなどと言い出すのか。

「俺の子孫をコンちゃんに守ってほしいんだ。俺はもう死んでしまうから、彼らを助けてやることができない。すっごく我儘なことを言っているのはわかっているよ。だけど、コンちゃんが子どもたちのことを頼まれてくれるなら、俺はとても安心できる」

「……なんだとっ」

 なんて勝手な男なんだ。自分は間もなく死ぬくせに、婚姻を餌にして俺を釣ろうとしている。俺の力を自分の血筋のために都合よく使おうというわけか。凛堂の残酷な魂胆はわかった、だが、理解してもなお俺は彼を嫌いになることはできなかった。

 凛堂が再び咳き込み、布団に紅い染みが広がっていく。凛堂が死んでしまう。彼が死ぬ前に彼の頼みを聞いてやらなくては……。心臓が早鐘を打っていた。だが、頭は妙に冴え冴えとしていて凛堂が望むコンちゃんの言葉を淡々と吐き出す。

「あんたと結婚する。俺とあんたは今から夫婦で、あんたの子どもは俺の子どもだ。俺が必ず守護してみせよう」

「ありがと、コンちゃ……ん…………」

 凛堂の目から徐々に光が失われていく。その日のうちに凛堂は亡くなった。


 凛堂家の者の輝くような瞳が好きだった。硝子、宝石、花火、太陽、例えるならばその辺りだろうか。そのときの感情によって万華鏡のようにきらきらと光りながらその表情を変える瞳は、見ていてとても飽きなかった。

「数馬の目がほしい」

 食事を作る数馬の手元を見ながら戯れにそんなことを言ったら、彼は件の美しい目を大きく見開いた。だが、真面目に取り合う気もないのか夕飯の準備の手も止めないまま、あげないよ、と俺の要求を一蹴する。

「俺みたいな大妖怪を侍らせているのに、見返りもなしとは都合が良すぎるとは思わないか?」

 数馬があまりいい反応をしてくれなくて、退屈に思った俺は彼を少しいじめてやりたくなった。数馬は面倒そうにため息をつく。

「コン太のほうから勝手に守護してるんだろ。僕は君がいなくたって平気さ。ほしいものがあるのなら、別の人間につけばいい。僕よりは君になにかを与えてくれるかもよ」

 素っ気ない態度は俺を余計に惹きつけた。

「俺は数馬からの褒美がほしいんだ。こんなに一心に数馬に仕えて、数馬だけを見つめているのだから、それくらいは気づいてくれよ」

 俺はいつものように人間の姿になって、後ろから数馬に近づく。コンロの火を止め、やや強引に数馬をこちらに向かせる。

「……コン太は僕を見ているわけじゃないでしょ」

 短い沈黙のあと数馬から絞り出された言葉に俺は心臓を一突きにされた心地がした。数馬の言うことは図星だった。

 複雑な感情を孕んだ瞳は凛堂を思い出させる。不思議なきらきらとした輝きのある目は本当にあいつによく似ていた。数馬が凛堂の生まれ変わりならいいのにと思ってしまうのは数馬に対して失礼だとわかっている。わかっているのに、いつの間にか数馬に凛堂の姿を重ねて見てしまう。やめられない悪癖のようだった。

「ひどいやつなのは俺も一緒か……」

「どういう意味?」

「なんでもない、独り言だ。……数馬」

「なに? って、ちょっとコン太!?」

 俺は数馬を抱きしめた。あいつとそっくりの色をした髪に頬を寄せる。

「数馬は俺が必ず守る。これだけは本心だ」

 凛堂とかわした最期の約束に彼とうり二つの忘れ形見、俺が手放すわけがなかった。数馬がじっとりした目で俺を見る。

「コン太は優しくて冷たいね……」

 数馬がぽつりとこぼした言葉は雪に落ちる椿のように少しだけ寂しかった。


終わり

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