真新しい靴がステップ
森陰五十鈴
Shall we Dance?
マリーのデビュタントに合わせて、父が新しい靴を贈ってくれた。
レモン色の靴だ。レモン色は、ミルージュ家の家紋に使われている色だった。つまり、マリーは立派なミルージュ家の一員として認められたのだ。
その事実が嬉しくて、マリーは可憐な白いドレスのことなど忘れ、靴に浮かれた。真新しい靴の硬さなど気にならなかった。履き慣れなさに緊張することもない。王宮での儀礼もつつがなく終え、万全の調子で舞踏会に望んだ。
成人を迎えた子息令嬢は、さらに宮殿の大広間でも舞踏会のデビューを飾る。マリーは一つ上の幼馴染カラムのエスコートで、初めてのダンスに挑んだ。
ダンスは得意だった――はずだった。
実際、家庭教師のお墨付きはもらっていた。それなのに。
「――っ!」
カラムに、さんざん足を踏まれた。新品のレモン色の靴を、何度も何度も。
カラムとは何年もの付き合いがあり、それなりに仲良くしていたはずなのに、絶望的に息が合わなかった。というか、カラムが身勝手なのだ。気ままに足をさばき、マリーに無茶を強いる。マリーは転ばないようにするのがやっとで、踏鞴を踏んでばかり。そこにカラムの足が乗っかって――。もはや意図的に繰り返しているのではないか、と邪推するほどだった。
幼馴染の彼は、そこまで意地悪ではなかったはずだが。
だが、自分勝手なところはあった。独善的というか。
それが際立ったのは、なんとか転ぶことなく一曲を踊り終えたあとだった。
「なんだ。お前
マリーの頭に血が昇った。絶対にカラムのほうがダンスが下手だと確信した瞬間だった。
だが、周囲はそう思わなかったらしい。カラムの台詞を聞いた前後左右のペアは、マリーに嘲りの視線を向けて噴き出していた。ダンスが下手なのはマリーのほうであると、認識されたのだ。
大いに恥をかいたマリーは、あまりの事態に逃げるようにバルコニーに出た。暗闇から華やかな香りが漂う。ここは有名な薔薇園に面しているのだ。
だが、マリーの気分は浮上するはずもない。マリーは白い欄干を掴み、項垂れた。広間から漏れた明かりに、レモン色の靴が照らされた。さんざん踏みつけられたそれはすっかり光沢を失い、薄汚れているように見えた。
「せっかく、お父様が作ってくれた靴なのに……」
マリーの誇りを踏みにじられ、目の端に涙が浮かぶ。欄干を掴んだままの手に、目元を当てた。そうでもしないと本当に涙が零れ落ちてしまいそうだった。そうすると化粧が落ちて、もっとみっともない事になってしまう。
それでも、目元の熱さは引くことがなかった。喉の奥から悔しさが漏れる。
「そんなに悲しむことないよ、お嬢さん」
唐突に背中から声を掛けられ、マリーの肩が跳ねた。顔を上げる。が、振り向けなかった。無様を目撃された。そのうえ顔を認識されては、この世の終わりのような気がしたのだ。
身を固まらせるマリーを、背後の人物は小さく笑った。
「そう警戒することはないよ。あなたのことはもう知っているから。マリー・ミルージュ嬢」
口調は男のようだった。声もまた低い。が、女性のものだった。名前を知られている以上いまさら隠しても仕方のないこと、そしてその女性への好奇心が、マリーに振り返る勇気を与えた。
そこに居たのは、妖艶な美女だった。波打つ黒髪が、真紅のドレスにかかっている。強調された目元は力強く、朱唇は不敵に弧を描く。夜の女王のような人だった。
「あの……」
圧倒されたマリーは声を搾り出す。その女性に見覚えはなかった。少なくとも、今日デビューを迎えた令嬢ではない。このような存在感のある令嬢が居たら、儀礼のときから目を引いていたことだろう。
「臆することはないよ、マリー嬢。私は、君のお兄さんの知り合いだから」
マリーは目を瞬かせた。三つ上の兄は、仕事で手が離せなくて、妹の晴れの舞台に参加できなかった。兄が来てくれればマリーは恥をかかなかっただろうに、と少し怒りが再燃する。
ともあれ、目の前の美女だ。マリーは眉を顰める。兄とどのような関係だろう。
美女は、マリーの反応にさざめき笑う。
「安心して。お兄さんとは健全な関係だよ」
ラウラ・ヴィジー。彼女はそう名乗った。
「いや、まあ声をかけたのは、君があまりにも哀れだったからさ」
動機を口にされ、マリーは再び傷付いた。兄の友人の同情を買うほど、自分は無様だったわけだ。
「違う違う。あれはどう見ても君のパートナーが悪い。目も当てられないほど、リードが下手な男だったね」
あんなのと踊らされた君が可哀想だ。舞踏会に目を戻したラウラは、唾棄するように言った。視線の先では、カラムがまた何処かの女性を振り回している。彼女もまたレッテルを貼られるのかと思うと、相手の女性が可哀想に思えてくる。
「だから、名誉挽回の機会を提案しようと思ってさ」
「名誉挽回?」
「そう」
そうしてラウラは、マリーに手を差し出した。しなやかで綺麗な手だった。
「
マリーは目を瞬かせずにはいられなかった。だって、相手は女性だ。
「心配せずとも、私が男性パートを踊るよ。君は自信をもって、君の踊りをすれば良い」
「いえ、でもあなた、女性よね?」
「紛れもなく。女装癖のある男などではないよ」
そんな心配はしていない――と声を出すこともできなかった。呆気に取られすぎて。
パクパクと口を開け示して立ち尽くすマリーの手を、ラウラは取った。貴重な品であるかのように掲げる。
「さあ、君の栄誉を取り戻すときだ」
悪戯めいた笑みを浮かべるその女性の提案に、マリー強く心揺さぶられた。このままダンスが下手な汚名を被ったままでは居たくない――それ以上に、彼女に惹かれた。彼女と踊りたいと思った。
マリーは唇を引き結ぶ。ラウラはニッコリと笑って、マリーを広間の中心へと連れていく。
音楽はちょうど一つの曲を終わらせるときだった。手と手を離した男女が、訝しげに新参者たちを見る。その視線に唾を飲み込みつつ、マリーは新しい曲が奏でられるのを待った。
前奏。マリーとラウラは互いにお辞儀する。女性らしい魅力を備えたその人は、凛々しい男性の礼を披露した。
そして互いの手を取り、ステップ。曲はワルツ。ゆったりと美しく二人は舞った。
赤と白のドレスが翻る。広間の中央で花開く。
マリーとラウラは、衆目を集めた。女性同士の組み合わせ――それ以上に、そのダンスの華麗さに。
女性のラウラは、男性パートもそつなく熟した。ヒールを履いているとは思えないほどの安定的なステップに、安心して身を任せられた。
もちろんマリーも負けていない。カラムと踊っていたときとは比べ物にならないほど優雅な足さばきを披露する。指先だけでなくドレスの裾まで神経を行き渡らせたマリーの舞は、見る者を魅了した。
そして、マリー自身もまた胸の高鳴りが止まらなかった。誰よりも凛々しいステップを見せるパートナーは、マリーを上手く演出した。まるで
曲が終わる。互いに礼をする。上気した頬を抑えられずにラウラを見つめていると、周囲から拍手が沸いた。女同士が踊る奇天烈さを馬鹿にすることなど誰にもできず、ただ二人の踊り手を賞賛した。
その輪の端で、幼馴染が呆然としているのを見つけた。
ラウラもまた、カラムのことを見つけたようだった。マリーへと顔を寄せて囁きかける。
「これでどちらのほうが上なのか、彼も分かったことだろう」
遠くのカラムの表情が羞恥に歪むのを見たマリーは、気を良くした。
「そうね。……でも、これだけでは終われないわ」
首を傾げた女性に、マリーは手を差し出した。
「もう一曲踊りましょう、ラウラ様。……今度は貴女が主役よ」
ラウラは目を丸くする。妖艶だったその女性の顔が、少しだけあどけなく見えた。
「君が男性パートを?」
「侮ってもらっては困るわ」
ダンスは得意だった。男性パートも覚えるほどに。
幼馴染など目ではない。
「
マリーはラウラに手を差し出す。
ラウラはその手を取った。
新しい曲が始まる。一礼したマリーは、ラウラの手を取った。今度はマリーが彼女を引き立たせる番。
女性が女性をリードする。これまでの常識とはかけ離れた真新しい価値観に、マリーは新品の靴の硬さも忘れて、心と身体を踊らせた。
真新しい靴がステップ 森陰五十鈴 @morisuzu
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