11.権力関係から解放される場

 この書き手と読み手の関係はコタタマと作中のゴミたちとの関係とパラレルな関係にある。

 コタタマは、「俺の手はゴミとゴミを繋げるためにある。どうしようもないゴミどもを……(中略)泥舟に乗せ」ることを誇りとする。

 繋げるという関係性は、ゴミとゴミを序列化しない。横につなげていく。ゴミはゴミでしかないので、意味と理解によって人間を序列化してしまうコミュニケーションにはなり得ない。

 ゴミつまり弱さを抱える者同士の間に本来序列は存在しない。コタタマのコミュニケーションによってゴミ同士が並列にいられるようになるのである。それは、本作の文体が語の羅列性を指し示してしまうのと同様に、ゴミを羅列するのである。

 彼のいう「泥舟」は阿呆船のようでもある。

 そこでは、誰もが他人に理解できない行状と醜さを晒し合い、誰も勝者になりえないことによって、権力関係が成立しなくなってしまう場である。


 時代時代に新たに生成される権力関係があり、言説空間の中で人間は階層秩序化される。そこでは、誰かが劣った者とされてしまう。それは「弱さ」によるものではなく、弱さを序列化することによって成立するものである。

 その権力関係解放されるためには、コミュニケーションの別の様相、人と人とを分類整理しないコミュニケーションが必要になる。

 そこでは、コミュニケーションの理解に向けられた性質とは異なる性質こそが必要になる。つまり、人間を理解し合えない者同士であることを前提とする必要がある。

 しかしながら、全く理解し合えないならば、人と人とが一緒にいることはできない。理解し合えない最小単位でつながる必要がある。それこそが「弱さ」なのである。

「弱さ」に共振する。これは、単に傷を舐め合うといったことではなく、権力関係から解放される場を作ることなのである。

 そこでは、分かり合えなさや醜さを晒すことができる。晒さざるを得なくなる。


 人によっては絶望的にも見える場かもしれない。

 しかし、その場では、差し伸べられた手を振り払ってしまう者も排除されない。差し伸べられる手などなく、ただ、つなぎあうだけの手しかないからである。


 そして、そこでは単に情熱だけが存在する。それは、ナナヲが示した楽しい、面白いといった感情かもしれないし、時には嫉妬や恨みといった暗いものかもしれない。しかし、この情熱は時代の渦に「土砂を流し込む」ことになる。


 その土砂による変化の方向性は、その場に集まった人間にしか作ることができない。そこでは、誰もが当事者になる。誰もが当事者であるとともに、誰かが主体となるわけでもない場。それでいて、情熱があるために、どこかに向かってしまう場。


「弱さ」に共振する場とはそのような社会の変革の方向性を作り出すこと、権力を誰も取らずに社会を変える方法である。そうやって変えられていく社会が「良いもの」か「悪いもの」かを予め定めることはできない。だが、2020年の大衆文化は、誰かに対して「社会を悪いものにする者」というレッテルを貼ることからの解放を志向している。

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【サブカル評】「弱さ」を巡る物語についての試論 ナナヲアカリと『ギスギスオンライン』のこと とり @takuma2323

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