第4話 それぞれの道

結局、健一からのLINEはこなかった。少しがっかりはしたが、それで深く落ち込むほどではなかった。浩二は自宅のドアを開けると、異様な冷気が部屋全体を包んでいるのを感じた。彼は鍵を閉め、疲れた体をソファに沈めながらも、何かがおかしいことに心の奥で気づいていた。


静寂の中、時計の秒針の音だけがやけに耳につく。部屋の隅では、何かが小さく動く音がした。浩二は息を呑み、じっとその方向を見つめた。だが、視界に入るのは普段と変わらない家具と、窓の外から差し込む月の光だけだった。


しかし、その夜、部屋の空気は一層重く、彼の肩には見えない重荷が乗せられたように感じられた。独りの夜、彼の心は不安に押しつぶされそうになりながらも、何かがおかしいという感覚を振り払えずにいた。


眠りにつこうとベッドに入った浩二は、ふと天井に奇妙な影が映るのを見つけた。影はゆっくりと大きくなり、まるで何かが彼に近づいて来ているようだった。心臓の鼓動が速くなり、彼は恐怖で体が動かなくなった。


夜が深まるにつれて、浩二はベッドに横たわりながらも、どうしても眠りにつけなかった。新幹線の中でうたた寝をしたことが影響しているのか、あるいはまだアドレナリンが体内を駆け巡っているせいか、彼の心は休息を拒んでいるようだった。

部屋の暗闇の中で、彼はLINEアプリを開き、健一にメッセージを送るべきかどうかと迷った。彼は画面を見つめながら、明日の職場への出勤を思い浮かべ、ふとした疲れと共に苛立ちを感じた。「寝よう、本当に頼むから寝てくれ」と自分自身に呟いた。


浩二は家から飛び出し、心臓の鼓動が耳をつんざくように響く中、暗闇に足を踏み出した。不安と恐怖に心がかき乱されている最中、彼の足は急いで階段を下りる際にひび割れた一段を見落とし、その縁につまずいた。その瞬間、彼の体は前方に不自然に傾き、均衡を失った彼は地面へと無慈悲に叩きつけられた。


顔面が硬いアスファルトに激突した瞬間、鋭い痛みが浩二の全身を走り抜けた。鼻からは衝撃とともに血が噴出し、額にも深い切り傷ができ、血が流れ出した。彼の顔は一瞬にして血と泥で覆われ、冷たい地面に顔を押しつけられる形となり、口の中には泥と血が混じった鉄の味が広がった。


息が苦しくなり、一時的に意識が朦朧とする中で、彼は自分の状況を理解しようともがいた。痛みとショックで彼の心はパニックに陥り、夜の寒さが彼の血まみれの顔をさらに冷やしていった。地面に横たわりながら、彼は必死になって自分を支えようとしたが、痛みと恐怖で体が思うように動かない。


彼は痛みをこらえなんとか家にもどり家の大きな鏡で傷の状態を見た。血が顔中に垂れ下がっていた。特に眉間に血がたまっていた。眉間から鼻筋顔を洗おうとしても痛む。そしてまずこの惨事をいずれ誰かに見せるかもしれないと思って、写真を撮った。


だが今はもうこの自分の失敗を気軽に見せて笑ってくれるものはいない。かつては、彼の小さなミスやつまずきを笑い飛ばし、励ましてくれる友人たちがいた。しかし現在、彼の周囲にいるのは単に業務を遂行するために組み込まれた職場の関係者たちと、疎遠になりつつある同じ孤独仲間の健一だけだ。


過去の友人はそれぞれの人生の道を歩み、彼はこの暗く冷たい部屋で一人、傷だらけの顔を鏡越しに向き合っている。部屋の薄暗がりの中で、浩二はゆっくりと顔を鏡に近づけた。彼の顔には新鮮な傷跡があり、そこからまだ血が滲んでいた。彼はふとした衝動に駆られるように、指先にその血を取り、慎重に自分の頬をなぞり始めた。その血を用いて、自らの顔に一種の異形の表情を描いていくのだ。


彼の指は震えながらも確かな意志で動いていた。頬の傷口からわずかに滲んだ血を指にとり、口角から耳に向かってゆっくりと線を引いていく。血の線は、彼の顔に不気味な笑顔を作り出すかのように斜め上に伸びていった。彼はその行為がもたらす奇妙な満足感に心を奪われていった。


部屋の隅で、浩二はふと涙が頬を伝うのを感じた。彼の涙は、顔にできた傷口にしみ込んでいき、その刺激でさらなる痛みが走った。痛みは彼の心をさらにえぐり、涙は止まることなく流れ続けた。


痛みで眠れない夜は長く、彼の心は次第に疲弊していった。朝が近づくにつれ、今日は休もうという気持ちが強くなった。もはや耐え難い孤独と苦しみに押しつぶされそうになり、彼は自らに言い聞かせた。「もう無理だ...今日は会社を休むことにする。」

浩二はそっとベッドから起き上がり、わざとよろめきながらも仕事用の電話を手に取り、必死の思いで休みの連絡を入れた。電話を切った後、彼はただひたすらに自分の存在を呪った。


健一は岐阜の自宅に戻った。この一軒家は、彼にとっては広すぎる空間だが、彼は妻の生命保険金を使い、何となくこの家を購入したのだった。彼には大きな物欲がなく、ただギターを心ゆくまで弾きたかったからだ。家につくなり、健一はすぐにシャワーを浴び、スーパーで手に入れた半額の焼き鳥串六本セットと冷たい生ビールを用意した。テレビをつける気にもなれず、YouTubeで特に興味もない動画を流しながら、一人晩酌を始めた。


食事を終えた後、彼はリビングの隅に置かれたアコースティックギターに手を伸ばした。ギターを弾き始めると、音楽を通じて旅行の記憶が彼の心に流れ込んできた。広島での喧嘩、岡山の静かな夜、そして倉敷の美しい街並み。旅のすべてが彼のギターから生まれるメロディと共に、彼の心を満たしていった。


その感慨深い気持ちをさらに掘り下げたくなり、健一は旅行中に愛用していたカメラを取り出した。彼はカメラの中のデータをパソコンに移し、一枚一枚の写真を丁寧に見ていった。それぞれの写真には旅の瞬間が切り取られており、彼の心に深い余韻を残していた。


とった写真には浩二が移りこんだ写真が一枚もないことに気が付いた。それには健一は驚いた。まあおっさんをとっても絵にはならないが、一緒に旅行した友人の姿を一枚も収めていないことに、健一は少し後悔を感じた。特に浩二が写真を撮ることを嫌がっていたわけではないのに、彼から撮影を提案することもなかった自分の配慮のなさに、彼は自己反省した。


その時、彼は浩二が旅行中に自分のことばかりを考えていたのではないかと考えた。もしかすると、浩二は自分本位な態度に内心でいらだちを感じていたのかもしれない。二人の間であった些細な摩擦や、帰り際のややこしい雰囲気が、今になって理解できたような気がした。「浩二は今、何をしているんだろう」と健一はふと考えた。


朝、健一は目を覚ました。窓から差し込む柔らかな日差しと、清々しい空気が部屋を満たしていた。不思議と心地よい軽やかさが彼の心を包み込む、新たな一日の始まりだった。


彼は朝のルーチンをこなしながら、旅行から持ち帰った歯ブラシを洗面台の収納にしまうためにかがみ込んだ。そのとき、目に飛び込んできたのは、棚の隅にひっそりと残された、今は亡き妻の歯ブラシだった。時間が止まったかのように、健一はその歯ブラシを手に取り、ゆっくりとそれに顔を近づけた。


彼の鼻先には、かすかに残る甘い香りが漂ってきた気がした。健一はそっと歯ブラシを唇に近づけ、ほのかな甘さを感じると、その感覚が彼の心の奥深くに柔らかく響いた。




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 失われた時代への哀歌 清水 京紀 @kyouka29

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