約束の先にあなたと

槙野 光

約束の先にあなたと

 緩やかな傾斜を登った先にある高台で、ふゆはると立ち並んで夜空を眺めていた。

 春は明日、夢を追って冬の前からいなくなってしまう。それなのに、一度も願い事を言わせてもらえないまま星が流れては消えていく。


 ――春がいなくなる。


 考えると、胸が張り裂けそうになって泣き叫びたい衝動に駆られた。けれど、冬は必死に堪えた。

「冬を縛りたくない。だから、待たなくていいよ」

 そう言って泣きそうな顔で微笑んだ春に、心配をかけたくなかった。春のことが好きだから、春に自由に生きて欲しかった。

 冬が春を見ると、春はまっすぐに流れ星を見ていた。その横顔は掠れたように赤くなっていて、乾燥気味の唇の隙間からは白い息が立ち上っていく。


 儚さに、心が震えた。


 拳を握ると少し伸びた爪が手のひらを掠めて、泣かないと決めた筈なのに目の奥が熱くなって慌てて唇を小さく噛んだ。


「また見に来よう」


 不意に齎された声に顔を上げると、春が淡い笑みを浮かべて冬を見ていた。


「二年後、僕は冬の元に帰ってくるよ。その時、またこうして流れ星を見よう。だから、泣かないで冬」


 ――きみを愛してる。


 別れを告げた口で愛の言葉を囁いて、翌日、春は旅立っていった。

 冬は、高台にひとり立っていた。澄明な空に飛行機雲が走るように描かれていく。流れ星みたいなそれに、冬は願い事を言わなかった。冬はただ、空にぼんやりと溶け去っていく白雲をいつまでも眺めていた。



 大学を卒業し、冬は社会人になった。慣れない新生活に忙殺される中、春との連絡頻度は隙間だらけになっていき、気が付いた時には春の声や顔は霞んでしまっていた。


 あんなにも恋焦がれていたのに。

 胸が張り裂けそうなほど恋焦がれていたのに。


 もしかすると、春は知っていたのかもしれない。知っていたから、春は冬に待たなくていいと言ったのかもしれない。人の気持ちがこんなにも儚いのだと知っていたから、だから春は。

 心の中で、縋り付くように何度も春の名前を呼んだ。繰り返し繰り返し名前を呼んで、あの日交わした約束を思い浮かべた。


 ――二年後、僕は冬の元に帰ってくるよ。その時、またこうして流れ星を見よう。


 今はそれだけが、冬の希望だった。



 春から連絡があったのは、裸木が目立つようになった冬のことだった。

 金曜の夜、お風呂から上がると突然携帯から甲高い音が鳴り響いた。携帯の液晶に表示された名前に息を呑んで、落としそうになりながらも慌てて通話ボタンを押す。

「冬、久しぶり。……元気だった?」

 久しぶりに鼓膜を掠める春の声は雪解けを思わせるほど穏やかで、冬は泣きたい気持ちに襲われた。

 ……ああ、春だ。春の声だ。

 その声を捕まえていたくて、携帯を強く握り締めて言葉を探した。すると、春が言う。


「実はつい先日、こっちに帰ってきたんだ。だから冬」


 ――明日、流れ星を見に行こう。


 その言葉に、あの日から二年が経過したのだとその時初めて気が付いた。

 冬が掠れた声で「うん」と返事をすると、「楽しみだね」と柔らかい声が返ってきて、けれど、声を聞いても春の顔は霞んだままで、胸奥がひどく苦しかった。


 ねえ春。知ってる? 

 明日は曇りなんだよ。だからきっと、流れ星は見えない


 ねえ、春。

 私のこと――、今でも愛してる?


「じゃあ、おやすみ冬」

「うん。おやすみ、春」


 電話を切ると、ぽたぽたと歪な音が耳に届いた。それが雨の音なのか、頬を伝う涙の音なのか冬には分からなかった。分からないまま、冬は約束の日を迎えた。



 薄雲に覆われた空には、星ひとつ見えなかった。

 初めから分かっていたことだ。約束を交わした日から分かっていた。

 神様はきっと、流れ星を見せてはくれない。

 分かっていても想像以上に堪えた。でも、もう遅い。あの日の流れ星は消えてしまった。

 冬が、消してしまった。

 痛かった。痛くて痛くて堪らなかった。心が千々に引きちぎられていって、薄ぼけた空が滲んでいく。

 春に気付かれないよう慌てて俯くと、「冬、見てごらん」と穏やかな声が耳に届いた。手の甲でこっそり涙を拭って春を見ると、春は空に向かって人差し指を伸ばしていた。

「ほら、流れ星」

「えっ」

 冬は思わず声を上げた。迷いのないまっすぐな線を描く春の指先を辿って空を見るけれど、冬の眸に流れ星は映らない。映る筈がない。冬が当惑していると、春がまた口を開く。


「目には見えないかもしれないけど、この雲の向こうには沢山の星が流れてる。ねえ、冬。冬は今、なにを願う?」


 ――冬は今、なにが欲しい?


 春はもう空を見ていなかった。春は冬を見て、淡い笑みを浮かべていた。

 あの日と、同じように。


「わたし、わたしは……」


 喉元が熱くなって唇が震えた。引き摺るようにして表出した声は情けないほど掠れて引き攣れていた。けれど、春は馬鹿にしたりしなかった。春はただ、その胸に冬を抱いてくれた。


 ――おかえり、冬。


 耳元に届いた優しい春の声に、涙が冬の頬を流れていく。

 それはまるで、流れ星みたいな涙だった。

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約束の先にあなたと 槙野 光 @makino_hikari

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