怪談終幕

「ほろ苦い加加阿ここあをどうぞ。お子様には青い果汁をあげる」


 愛玩する言い様と共に、僕とマサトの前には人間用の“餌”が置かれる。柑橘系のストレートジュースらしき物で美味しそうだが、妖魔にとっては家畜の飼糧にも劣るのかもしれない。一口飲んでみると爽やかな甘みが疲れ切った心に沁みる。少しだけ酸味が強く、給仕の言った通り未熟なのだろうが、一杯飲むだけでも代金が心配になってしまうくらいの高級感があった。

 他の四つ、妖魔の面々にはココアが提供された。漂ってくる香りだけで張り詰めた気分が緩むくらいだ。どれだけ甘美なのだろうと、つい彼らを羨ましく見つめてしまう。


「あらまし詰まるところ、俺たちは山頂に到達した。これで帰れると?」


 シルヴィヲが喜びを噛み締めるように確認すると、傍に控える給仕が明朗な調子ではやし立てる。


「帰るも、旅立つも良し。六道諸世界へお望みの儘に。お客様方の偉業めでたきこと!頑張った頑張った頑張ったねだからねえ下山の前にごゆるりとどうぞ滅多に来れる喫茶じゃないんだから」


まくし立てるな、うぜえ。殴るぞ」


 そうだ。僕たちは今持て成されている。テーブルを囲んで甘味を飲んでいるのだ。どうしてこんな状況になっているのか未だに理解できない。霊峰の大御神に出迎えられ、ついに現世へ帰れると思ったら、この喫茶店みたいな所に通された。山中に建てられたとは思えない荘厳な建造物は四阿あずまやの形を模していて、さっき利用した品質過剰な四阿も襤褸屑ぼろくずに思える豪華絢爛。蛆に食われて溶けた屍を塗りたくってその上から毒蛇の血肉で穢し盡したように黒々とした木材で造られている。燃え盛る銀色の照明を受けて無数の金属片が多彩極彩に輝く中で、設けられたいくつかのテーブルに、僕たちの他にも人型たちが菓子を喫していた。和装に近いがそれにしては華やかな様式の服装で、皆が天人を想わせる高潔や、地獄から昇り来たかのような禍々しさを姿に帯びている。自分の意志でこの場にいるように見え、いとも楽しそうに笑っている。


「短く答えろ。この喫茶とやらについて。回りくどい説明をするならお前に用はなし」


「我よりも願ひたてまつる」


 苛立っているシルヴィヲと、何故だか興味を惹かれて仕方がない様子のユウヅキ様が尋ねる。給仕は困った様に腰の前で手を組んだ。軽く首を傾げて言葉を繰り出していく。


「砕いて言えば、観光名所ですよ。英傑の中でも更なる英が訪れる、一世界の秘境に御座います」


「山頂が然様さようなるとは。我らは如何で召し上げられきや」


 声は冷静な調子だが、言葉から、ユウヅキ様は事態を光栄に感じていることが分かる。登頂のために頑張って来たが、本当に成し遂げられて嬉しいのだろう。もしかすると、山を支配する者として格上の大御神に対して尊敬を抱いているのかもしれない。自力ではなく彼の意思による結果としても、この場にいられるのが誇らしいと。事実、最初にユウヅキ様が僕たちを助けたからこそ、奇想天外な今があるのだから。


「御主人はアユミ様を恐れておられるのです。事によっては霊峰に被害を受けるやもしれないと。故に敵意は無いと示すため、彼女と、彼女の羇旅きりょに関わった貴方方を歓待致しているということ」


「私の機嫌を取りたいならよお、大御神の爺さん、あんたが相手になってくれねえかな」


 ココアを飲むことなくつまらなそうに座っていたアユミが、不穏なことを言い出した。隣のカヴィヤは最早止めることを諦めて黙っている。誰も迂闊に彼女と口を利くことができない。価値観の違いが余りにも大き過ぎてどうにもできないのだ。


最後の大敵ラスボスはあんたがいい。とは言っても、他に敵はいなかったが」


『愚鈍めが』


「ああ?」


 大御神の姿は見えないが、含み嗤う彼の声が返ってくる。それを合図とするように、給仕が一瞬だけ姿を消し、白装束を着た青年を連れて戻って来た。彼はぼんやりとふらついており、麻酔を掛けられているようだ。嫌な予感を覚える。アユミの機嫌を取るつもりか?どうやって?まさか、それはない、ない。


「アユミ様、凡そ万物を凌いだ記念に、人肉はいかがでしょうか?」


 僕とマサトよりも、激しい反応を示したのはカヴィヤだった。恐れを忘れて怒鳴りつける勢いで意思を示す。


「人肉を彼女に振る舞うのは私です!祝ってあげる権利は先ず私にあるのだから、無粋なことしないで」


「あら、あらら。仲睦まじいこと。大変失礼致しました」


 謝罪した給仕は、手に取った肉切り包丁を一振り。悲鳴も無しに青年の腕が切り落とされた。微かに痙攣しただけで、苦痛は麻痺しているようだ。給仕は腕を極薄だが不透明な白いラップらしき物で包むと、カヴィヤに差し出した。


「お持ち帰り頂き、貴女の手で御馳走下さい。ヒトならざる実感を、文字通り噛み締められるように」


 怒りを鎮めたカヴィヤは微笑んで受け取るが、アユミは寧ろ嫌みな態度を取られているかのような不愉快を露に舌打ちした。大御神側の対応が逆効果になっているのは確かだ。


『愉しめばよいと言うのに。甘味を食せば、荒んだ気も和むのではないか?』


「...腑抜けた奴だ」


 戦意のない相手に掛かるのは流儀か何かに障るのか。大御神からは殺意を逸らしたものの、今度は他の客たちへ向けてそれを分散させる。どれだけの圧力を与えるものか、僕は身を以て知っているが、彼らが恐れ戦く様子はない。挨拶を返すかのように礼儀正しく睨み返す者。気付きもしていないのか一瞥もくれない者すら多い。そんな結果を目の当たりにして、アユミは歯を覗かせて笑う。玩具が選り取り見取りではないかと。


「踊りで奉仕させるのはどうだ?架を使って媚びるようにさあ」


「より醜怪に生々しく、毒責めはいかが?塗って浴びせて飲ませて滅茶にしよう」


「その後は汚辱の印を切り刻まん。天女を穢す慰みとは、さぞ徳に背きし業であろうや」


 少し離れた席で、三つの男女が一つの客に向かって不穏な言葉を並べ立てている。艶やかな儀式装束を纏い、端麗だが彫刻とは違う綺麗な女性。性的かつ暴力的に恐怖を煽られているが、冷然と虚ろな風格で揺るがず、無視して華やかなパフェを食べ進める。やがて脅かす口撃にも飽いた様子で、何の言葉も返されない苛立ちを沈黙の中に募らせる不良客たち。女は構わず悠然とした調子でパフェを食べ終えた。


「戯れ付くなら他にしてな。お互い面白い事ないから」


 ようやく女が口を開き、不良たちがそれを挑発と受け取ったのが明白だった。微かな怒りと膨大な悪意を含んだ笑い声が上がる。


「恐れ知らずも愚かしい程だな。精々が最下級の神仏風情が、俺らに抵抗できるのかよ?」


「さあ、ね。君らは英傑なのだから、そこは正しく測りなよ」


「貴女はこの場の誰よりも弱いわ。強弱見切る私たちの目に狂いはない」


 何を揉めているのだろう?客同士の衝突なんて、大御神が許すとは考えにくいのだが。不良たちも軽はずみにやっているのではなさそうだ。あの女性は弱いと言われ、怒りを買っているようだが、それだと僕たちはどうなんだ?心配を覚えて尋ねることにする。人間である僕にも答えてくれそうな給仕に。


「あの女の方、どうして絡まれているのでしょう?」


「弱いからと言わざるを得ません。英傑集うこの場に参加するべきではないと見做されている」


「じゃあ、俺らはどうなんや...?」


 マサトも同じことを思ったようで、身を縮めて周囲を見回している。いつ襲い掛かって来るか分からない脅威に怯え、警戒心が振り切れてしまっているのだろう。その様子を給仕は愛でるように笑って、優しく答えを与える。


「他の席の御客方が、矮小な只の人間に気が付くことはありません。カヴィヤ様も大丈夫ですが、ユウヅキ様とシルヴィヲ様が怪しいですね」


「おい、そこの」


白霧灯乃神しらぎりとぼしのかみと申します」


 突然、不愛想な呼びかけがアユミから給仕へと向けられた。咄嗟に名乗った給仕に構わず、アユミは今にも襲われそうになっている女を指差す。


「あんたのはいいから、彼女の名前を教えてくれよ」


神憑贄巫かみよるにえのかんなぎと、予約表には書かれています」


「そうか。多分、偽名だろうけどな。何かしらの本質は意味しているか」


 席から立ち上がり、諍いの火が付きつつある不良客たちの方へと歩き出すアユミ。何を考えているのか。いくら力が有るとは言え、迂闊が過ぎはしないか?まさか、か弱い者を助けてあげようと慈愛を掛けている訳じゃないだろうし。流石に誰か止めなければ。


「若気の至りと言うものだぞ。止まれ」


 穏やかだが低い声に、アユミの足は無理矢理に止められたように見えた。現れた大御神は呆れを露にして、咎める視線を彼女へ注いでいる。アユミはいつもの余裕の笑みを消し、少しだけ深刻な面持ちで彼と向かい合った。


「あんたはまた私を愚鈍だって言いたいのか?」


「一足飛びに力を得たのだから当然だ。侮辱するつもりはなし。これは警告であり親切と受け取れ」


「大した事しねえよ。弱い者虐めを懲らしめるだけで。可哀想で目覚めが悪くなるじゃねえの」


 とても下手な噓だった。だが、この状況において尤もらしい動機はそれくらいのものであり、違うならば別の理由が思い付かない。英傑なる同格の存在と戦いたい?いや、アユミはあれでも賢いから、刹那的な楽しみのために、高い危険に態々突っ込んで行くことはなさそうだ。


の胸懐は知れたこと。修羅が望みではないのだろう」


「私も、あの女に絡みたい。自分を弱く見せられるのは強者でしか在り得ない。なら気になるだろう、挨拶くらいさせてくれよ」


「好奇心は虎をも殺すぞ。無礼になるのも分かるだろう」


「あんたの言う通り、私はガキだからな。礼儀を欠いても多少は許してもらうさ」


 目に見えない拘束を振り解くように重々しい動きで、アユミは一歩、二歩と歩いて行く。大御神が溜息を零し、今度こそ声音に怒りを込めて、最後の制止を飛ばす。


「好きにしろ。だがその前に、周囲に気を払え」


 言葉を聞いた途端のこと、アユミの動きが凍り付くように止まった。そして、咄嗟の勢いで辺りを見回す。

 三日月形に歪んだ客たちの目がアユミを凝視していた。袖や扇子で口元を隠して嘲笑う。もしもアユミが次の一挙一動を間違えれば、終わりだ。一秒あれば何度だって彼女は殺される。戦いにもならない蹂躙が、後に影形すら残さないだろう。


『嗜好の邪魔をするな、小娘』


『大人の会する場では、行儀良くなさい』


 くすくすと嗤う幻聴が聞こえると共に、骨まで蝕まれるような邪淫の意思が一帯を満たす。


「この喫茶で俺の許容を超えることは、俺と給仕のみならず、より格高き客をも敵に回すことになる」


「あんたより、格上だと...っ?」


 驚愕の声を上げるアユミは、しかし大御神の言う事を確かに理解しているようだった。


「大敵にしようなどと、笑止千万。此処では俺など小者に過ぎん。一世界でさえ広いというのに、時に大千世界だいせんせかいから来店する気紛れ者もある。我々の想像が至る次元ではない」


「それは、彼女はまさか...」


「如何であろうな。不穏な予感がするとだけ言っておこう」


 アユミは見据える。迂闊に話し掛けようとしていた相手を。彼女は不良たちによっていよいよ襲われるところだ。誰も助けに入ろうとはしない。大きな過ちを冷たい目で蔑むだけ。その対象は不良たちの方であり、まるで被害者を見るかのようだ。


「取り敢えず殴って泣かせようぜ。女の泣き顔は綺麗でそそるから」


 リーダー格と思しき青年が乱暴に女の腕を掴んだ。


「離せ。これが最後だ。酷い事は嫌」


かよわい言葉だこと。もっと上手に命乞いできれば赦してあげる」


「苦を知らぬ天人風情、他愛もなく泣き叫ぶであろうよ」


 青年が拳を振り上げる。予備動作だけで大気が震え、放たれる殴打が対象を炭素の煙に変えるだろうことが目に見える。だが、彼は相手を嬲ると言っていた。その程度は痛めつける峰打ち程度なのだろう。女性を殴るなんて外道の行為だが、流石に顔は避けたのだろうか、拳は胸元へ向かって放たれた。動きは捉えられないが、直前の動作から分かる。加害は確かに、直撃を得た筈だが。


「あがっ――!!」


 悲鳴を上げたのは攻撃者の方だった。真黒な閃光。そう言い表すしかない力が迸り、殴り付けた青年の腕が蒸発した。弾き飛ばされた彼は塵芥の如く軽々と宙を飛ぶ。


「風上に置けぬ雑輩ぞうはいめ」


 更に続けて愚弄するように、客の一つが自身へ向かって飛んで来た青年を、手を振るって払い除けた。するとまた別の客へ向かって飛んで行き、そこでも同じく打ち飛ばされる。客たちは球戯でもするように何度か彼を飛ばした後、再び元の位置へと叩き付けた。彼が襲い掛かった女の前に。


「見誤ったというの...?そんなっ、何をしたの!?」


 狼狽えて疑問に溺れる加害者側は、とても英傑なんて気高い存在には見えない。殴られた筈の女は彼らと目を合わせることもなくメニュー表を眺めている。


「何も。微動だにしなかったけれど」


 そう、彼女は反撃もしなかったし、防御すら無かった。その事実が何だか自然と理解できる。圧倒的な力の働きは感覚の鈍い常人にも無条件に知覚させるのだ。まして端くれでも英傑ならば、分かり切ったことだろうに、関わらず疑問を発したのは、認識していた強弱の立場が覆されてしまった現実を受け止められていないということ。

 今起こったことを説明するなら、比喩にもならない抽象的なものになる。星に向かって手を伸ばした者が、その瞬きに焼かれた。存在そのものが鴻大こうだいなる威力を帯びている。


「俺は、止めろと言ったぞ」


 女の虚ろな眼差しが不良客たちへと向けられた。しかしその眼中に彼らは映っていない。何処か遠く、世界を越えた外側を眺め遣る。呑み込まれてしまいそうな奥深い瞳。目が合ってしまえば、何者であっても全てを無辺際の伽藍洞がらんどうへと溶かされるだろう。幸い、彼女は殆どあらゆる存在を、本当には見ていなかった。遍く有象無象から、やがて所望のものを見つけたように。何方どちらへともなく手を差し出し、手招く。

 爛熟した肉の焼ける香ばしい薫りと、叫喚を掻き消す嘲笑を乗せて暴風が吹き荒れた。喫茶店を除き霊峰の全域、そして数多の近傍世界までもが消し飛ばされ、四阿は光も物質も一切が無い真空の中に残される。この喫茶店だけが全世界となったのだ。幾つもの翼が羽搏はばたく巨大な気配。断末魔と紛う不良客たちの悲鳴が聞こえたが、息を吸って吐く程の間もなく遠ざかり消えてしまった。

 刹那も劫も等しく思える壊れた時間の後、無の闇を照らす黒い光が差し込む。破壊の痕跡も無く再生していく世界。継ぎ接ぎ繕われた空間に山が還元され、流れ出した時間の上で喫茶店に賑わいが戻った。しかし不良客たちだけが姿を消している。


「客を戻してくれ。代金を徴収せねば」


 超越した威力を見せつけられても、怯むことはなく、大御神が女に歩み寄り言った。空気を見透かすようにぼんやりとした目が彼に返される。『自分と口を利きたいなら、そちらがより饒舌であれ』と、高慢な意味を含んで。


「彼らを何処にやったんだ?」


 格の違いが明らかな者を相手にするなら、当然の礼節だ。否応なく呑み込まざるを得ない。大御神は彼女の思う儘に言葉を加えた。すると女は掌を上げ、その上に黒い炎が起こされる。違う、そんな生易しい現象ではなく、凄烈に致命的でいて、死を赦さない残酷な厳罰。

 

無間むげんより深みにしつらえた、俺だけの地獄へ」


 答えた彼女の掌の上から、微かに、だが鮮明に、拷つくされる被虐者たちの叫喚が聞こえてくる。あの炎は地獄そのものだった。人間が犯す如何なる罪でも堕ちるに至らないだろう。英傑や神格のように強大な者が、彼女の不興を買った愚かしさに限り堕とされるのだ。


「痴れ者共は躾けられて、其に感謝するべきだな。無礼の相手によっては殺されていたやもしれん。其は慈悲をやるのだろう」


「彼らが俺に言ったように、玩弄と凌辱を少しな。殴った彼は鐵棒かなぼうで踊らせ、ぞくりと感じる様だよ」


 片手を頬に当てて逆上せた気分を表現するが、彼女は無表情で顔色も変わっていない。自分を襲おうとした青年を、男性や人間以前に、無機物としか見ていなかった。人形をいくら辱めたところで興奮しないのだろう。まあ、そもそも、自分に悪意を向けた暴漢に対してそんな欲を覚えるなんて、普通じゃ考え難いのだけど。


「自業自縛とはこのことだ。刑期はどうする?」


「七万年で止しとする」


「待てないな。七秒で済ませろ」


「君の儘に従うとも」


 炎を灯していた手を閉じて、女は足下へと何かを放り捨てる。煙霧が弾け、不良客たちが再び現れた。奈落の奥底深々へと突き落とされたが、外傷は残っていない。精神の方は癒されておらず、痛ましく焼かれ膿を流す有様だ。彼らは自分の身を抱いて、恐怖に歯を鳴らし苦痛に涎を垂らして這い蹲っている。地獄で時間は意味を成さないのだろう。曰く万年、きっちり罰せられたのなら、仮にも英傑と言うべきか、辛うじて正気を保っているのは偉いものだと思う。


「しっかりしろ。憐れたらしく伏して、まだ誘っているのか?」


 淑やかな声にも、びくりと震えて顔を上げる青年。女は自分の膝を叩く仕草をする。青年は必死に身を起こすと、彼女の膝に撓垂しなだれ掛かり服従を示した。暴漢としての面影は最早、見る影もない。女は彼の頭を撫でながら、あくまで慰める優しい声で命じる。


「帰ってゆっくり休むといい。ささっと支払いを済ませないなら――」


 もう片の手で彼の腕を取り、手首に爪を喰い込ませて微かな痛みを与える。それだけで地獄の呵責を再生させ、彼の目から涙が流れ出した。


「七秒で七万年、同じ時間の流れで更なる七万年を喰らわせてやる。二京年、つまりは誅戮ちゅうりくだな」


 瞬時も早くと急いた勢いで不良客たちは大御神へと目を向け、近くにある空席を手で示した。テーブルの上に黄金よりも煌びやかな光沢のある硬貨が積み上げられる。店主を煩わせた不行儀に、せめてもの誠意を込めてチップを弾んだのだろう。彼らは掻き毟る動作で空間を引き裂き、拓いた逃走経路へと転がり込み、這う這うの体で下山して行った。


「何故に素性を隠している?手弱女たおやめを演じる趣味でもあるのか」


 大御神の言葉に棘はない。だが、言外に責任を問うか否か、判じるつもりが窺える。彼女が元より強大な威力の程をはっきりさせていたならば、絡まれることからしてなかったのだから。


「本来の俺が降りてしまえば、この店も山も踏み潰してしまう。故に抑えている次第だ。矮小な塵に触れるというのは、全能を以てしても無理な話」


「言葉を惜しまなかったこと、礼儀と受け取ろう。存分に喫して行け」


 納得し、女の傍を去って行く大御神。彼女はメニュー表を手に取って、その中から一つの品を指差した。


「“ねっとり頸髄けいずいぺいすとのくら鐙麦餅あぶみむぎもち”を一つ」


「俺に手ずからのまかないを望むか。受けてやるが、高く付くぞ」


 大御神自ら料理をするらしい。逸品物のジュースをお冷のように安々と提供するこの喫茶で、店主の腕で作る菓子とはどんな物か気になるところだったが、一刻も早く平穏な現世に帰る方が大事だ。


「さて皆様、恐ろしいものばかり見て気疲れなことでしょう。帰還を御望みの方は案内致します」


 給仕の言葉に僕たち五人は一斉に立ち上がった。座ったままのアユミに皆の視線が集まる。それから必然、彼女と唯一口が利けるカヴィヤへと移る。促されずとも分かっているようだ。カヴィヤはアユミの肩に手を置く。


「面白くて仕方ないのは分かるよ。でもアユミちゃん、長居は危険だと思うの。今は帰りましょう。また来ればいいじゃない」


「そうだな。とても有意義な経験だよ。自分の弱さを思い知らされて」


 アユミが席を立ち、ほっと息を付くカヴィヤ。すると給仕が何かを思い出した様子で、慌ただしく空中へ手を突き入れ、亜空間かどこかを探った。まだ何かあるのか、早くして欲しいのだけど。


「アユミ様、こちらをどうぞ」


 取り出されたのは一枚の紙だった。幾何学的だが絵のようにも見える模様が描かれている。アユミは訝し気に給仕を睨む。


「来店の際に必要な券となります。これが無ければ当喫茶に入れません。危なかったあ!御主人に叱られるところだわ」


「伝えておけ。次は幾段と強く鍛えて来るから、変わらず強者で繁盛させていろと」


「御主人は聞いていますよ。“大人へと成り出直すを待つ”だそうです。では、行きましょうか」


 自分に再来を期待する高みからの意思を汲んだアユミは、珍しく感情の読めない微笑を浮かべて受け取った。給仕が歩き出し、僕たちは幾つもの英傑の傍を通り抜けながら付いて行く。それぞれに殺気の一分いちぶでも向けられれば大気の中へ昇華してしまうだろう威力を感じながら。移動はほんの数秒だったと思うが、下山口への到着を早くと百度祈った心地だ。

 そうしてやって来たのは、真暗闇へと突き出した展望台のように開けた場所だった。


「絶景でしょう。百鬼霊峰の観光名所たる所以、お分かり頂けるかと存じます」


 見下ろせば、満天の星々が在った。

 可笑しい。星は見上げるものだろうに。荒唐無稽がどこまで行けばこんな事が有り得るんだ?幾ら高いとはいえ、山は山だぞ。宇宙空間じみた領域まで達しているなんて、理外の妖魔の力としても破格が過ぎる。地表で見られる星空の比ではない、確かに絶景の一言に尽きる眺めに魅了されながらも、僕は給仕を質問攻めにしたかった。聞かれるに及ばないと言った風に、給仕は話してくれる。


「御覧なられるは諸の六道、更には近傍の一世界。山頂は次元に遍く接続しており、望みの場所へと世界旅行が可能です。地理的利便性故に、霊峰へ迷い込んでしまった弱い妖魔たちは、山頂へ至ることで元の在処へ帰ろうとします。己が意思で登山に臨んだ英傑ならば、羇旅の出発点とするかもしれません。折角大勢が訪れるのだから、賑やかにしなければつまらないと、御主人に提言した者がいました。それから喫茶ができ、やがては高位英傑の間でも好評となって、今では大千世界の遠方からも――」


「ちょい、後半、話長うなり過ぎや」


 冗長になりかけた語りを、堪らずマサトが打ち切った。僕と彼はさっさと帰してくれという一念だけだ。これ以上少しでも恐慌する時間が続くなら、いっそ殺されても切願を喚き散らしてもいい。給仕は恥ずかしがるように顔を赤らめて目を伏せた。


「また失礼を、お許し下さい。口下手を御注意頂くのはよくありまして。直ぐに帰還を叶えましょう。希望を六道より選択願います」


 自分が存在していた世界を外側からの視点で伝えることなんてできるだろうか?地球は地球だ。太陽系の第三惑星で、それ以上は言いようがない。困惑する僕に代わって、ユウヅキ様が伝えてくれる。


「この子らは人間道のに。我は畜生道、へ頼む」


「俺は地獄道の黒縄、へ」


「どうするアユミちゃん?私は故郷を永遠に捨てる覚悟だけれど」


 各々の帰着先が決まった中、アユミは目を閉じて熟考している。否、それにしては集中してひそめているのでもないし、何をしているのか。作業でもしているように表情は冷めている。やがて彼女は目を開き、カヴィヤの手を引いた。


「行くぞ。修羅道の最高に荒れている処を見つけた」


「うわあっ!そんな、飛び出さなくたって――」


 悲鳴に構わず、アユミはカヴィヤを連れて展望台を飛び降り、星空の何処か遠くへと消えて行った。

 とっくに当たり前のことで、言うのも無意味なことだが、アユミが共に下山するなんて有り得ない結末だったのだ。別に、いいさ。友達じゃないし、彼女にとっては僕なんて微生物で、認識もしていなかったじゃないか。妖魔に成ってから、カヴィヤの他、遥か高みの妖魔や英傑にしか意識を持っていなかった。


「行ってしもうたな...」


 割り切っている僕と違って、マサトは心配の面持ちで彼女を見送った。こいつは阿呆だが、善い奴だ。澄まして格好付けてるだけの僕よりも、きっと強かな人間だろう。仲間想いに唾を吐きかけるような無下を受けたというのに、彼女の行く末をおもんぱかる。僕なら到底無理なことだから、マサトに感情移入するのは難しい。でも、彼が自身の優しさで傷付くのは見ていたくなかった。悲しみを拭ってあげたくて言葉を探す。


「幸せってのは人それぞれだろ、マサト」


 正常な価値観からは外れてしまうけれど、これが一番しっくりくる真実だと思う。


「アユミはイカレているけどさ。見方によっては、主人公みたいじゃない?なら、この旅は彼女の物語の始まりで、僕たちは端役はやくだったんだ」


「主人公?あいつはこの先、大勢殺すやろうに...」


「英傑と呼ばれる奴らを見ただろう。力有る者が主役で、善悪は関係ない。そういうものみたいだな」


 殺し合う生涯が幸せだなんて、信じられないし許されもしない。だが、彼女は何も気にしない。世界の意見など耳に届かず、寧ろ世界を振り回すだろう。

 刺激を欲する余りに万物から奪い、限り無い快楽を浴びて絶頂する。ソレを弱者は恐怖と共に褒め称えるしかなかったのだ、きっと。怪物の所業も極まれば崇高な概念に言い換えられる。魔は神と、災禍は天罰と、巨悪ならば“英傑”と。

 それ程までに大きな幸せを求める必要はないだろうに。平穏な人生だって、美味しい朝御飯で始まりふかふかの布団で終わる一日には、十分な充実を感じられるものだ。だからやっぱりどうしても、僕個人としてはアユミを理解できないな。


「俺には難しい話やけど、慰めてくれてありがとうな。せやけど、あいつの家族にどう説明したものかと思って」


「お前が誘って、僕は止めなかったからな。事実を話すしかないだろう。間違いなく正気を疑われてカウンセリングかな。山が一つ消えたんだ、村は暫く騒がしくなりそう」


「憂慮なさらず。現世へ帰れば、全ては恐ろしい夢となります故」


 いざ帰還を前にして、現実的な予想もまた浮かんできた時、ユウヅキ様がぽつりと言った。どうして呟く声音に落ち込んでいるのか分からなかったが、連ねられる言葉で、彼女の寂しさを感じ取る。


「最後に返礼を果たせて良かった。忘れ去らるるに悔いはなし」


 頭巾で隠れた彼女の目は、確かに僕とマサトへ向いている。それでいて、臨むのは久しい昔の風景。田畑、涼風、木葉、童謡、盃...断片的に垣間見えるのは、数百年前の村で、ユウヅキ様が人々と近しく暮らしていた記憶。僕は村の一人として、自分が受けた恩の範疇を超えて感謝を言うことにした。でないと彼女が報われないと、そんな気がしたから。


「ありがとうございました」


「こちらこそ」


 何てことのない一言だけでいい。ユウヅキ様は満足のいった様子で僕たちに背を向けた。

 給仕が手を叩き、大きな音が鳴らされる。景色がぐにゃりとマーブル模様を描いて、足元が覚束なくなり、方向の概念を失った。


「此度の御越しに感謝を。口伝えの際は、是非とも満点の好評を願い致します」


 その言葉を締め括りとして、僕は世界の果てから突き落とされる。果てしない空で華美な輝きを放ち漂う雲の間を縫って、只落ちて行く感覚だけが身を委ねる全てだった。色鮮やかで刺激的な体験は長い間続いたけれど、数舜の転寝のように感じられる。

 ――自分が横たわっていることに気が付く。背中に落葉の感触がある。眩暈めまいが治まるように意識がはっきりとしてきて、起き上がると、ここは山の中だと分かった。しかし、さっきまでの光源すら隠してしまうほどの暗黒はない。不穏な静寂もなく、鳥の鳴き声が聞こえる。そして、少し下った麓から先に見えるのは...。


「村だよな?やった...生きてるぞ!!呼吸、鼓動、痛い痛い痛いああ生きてる!!」


 喜びを超えた歓喜が全身を猛烈に流れ巡る。余りに幸せだから自分の身体を掻き毟り殴り付けて発散させると、この結末が本当に現実なのだと痛みが証明してくれる。可笑しくなりそうな安堵感を今直ぐに共有したくて、傍で寝ているマサトを叩き起こした。彼も同じように大喜びして、暫く声を上げて笑い合うと、僕たちは家に向かって駆け出す。存分に休むのが真先の欲求だ。他の事はどうでもよくて、後で考えればいい。時間はたっぷりとある。明日も明後日も残る生涯はずっと、妖魔のいない平穏な現世で生きていくのだから。



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二〇■■年■月■日 ■■村 自宅


 神隠しから一週間が経ち、心の整理が付いてきたので、日記を再開することにした。

 順を追って事実を挙げていこうか。僕たちが山を登るのにどれだけ時間が掛かったのかは分からない。体内時計が曖昧になっていて、恐怖による感覚の狂いなのか、それとも常夜の時間の方が違っているのか。身体の疲れからして、少なくとも数時間は歩いた筈だ。しかし現世に帰って来ると、時間は進んでいなかった。僕たちが行方不明と騒がれておらず、夜間外出を親から少し叱られただけで、日常はあっさりと戻ってきた。

 鳥居が目印になっていたから、忌み山が消失していることは直ぐに確認できた。物理的に消えたのではなく、存在を痕跡も残さず移動させられたのだ。大切な守り神の山が無くなったというのに、村の皆は気付いていない。言い伝えに纏わる信仰の一切が、人々に忘却されてしまった。であれば、この世から消え去ったのはユウヅキ様だけではない。

 彼の大御神の力に依るのか、あるいは妖魔へと変貌した故か、アユミもまた無き者となっていた。誰も無視なんてできないくらい悪目立ちしていた奴なのに、クラスメイトは愚か家族すらも彼女を覚えていない。そんな訳で、神隠しが妄想ではなく現実に遭ったことだと保障できるのは僕とマサトのお互いしかいないのだ。まあ、誰かに話すつもりはないし、僕自身忘れられるものなら忘れたいと思っている。

 けれど、僕は一生怯え続けることになるんじゃないかな。平穏な日常の陰から伸ばされた手が、また僕を捕えて引き摺り込むのではないかって。



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二〇■■年■月■日 京都府宇治市 ビジネスホテル


 社会人一年目も末になる頃のこと。ある日の夜更けに、胡乱うろんな奴が訪ねて来た。

 その時は窓際で座って本を読んでいた。車が行き交う騒音を背景音に読書するのは寛ぎの一時だ。弛緩していたから、コンコンと窓を叩く音がしたのには驚かされた。その次には更におののくことになったのだけど。

 窓の外に人が張り付いていた。ここは六階で、玄関の他に人と会うことは有り得ないのに。怪談なら陳腐過ぎて今時見ないネタだ。しかし、超常のものにトラウマがある僕は情けなく怖がってしまった。人物は中学生くらいの少年で、レースで装飾したワイシャツを着ている。窓を叩く勢いが段々と強まっていく。

『もし、開けて下さいなあ。窓が割れちゃいますよお』

 物質的な損害を出す幽霊とは恐ろしい。こいつが何者か知らないが、ホテルに迷惑を掛けないためには言う通りにしなければならない。渋々窓を開けてやると、少年は小さく会釈をした。

『お化けみたいに出て来て御免なさい。嫌な事、思い出させましたかねえ?私は歴とした人間で、怖いものじゃあありませんて』

 話し方といい仕草といい、胡散臭いばかりだ。怪しすぎて逆に、何も隠してはいないのではと思える。苛立たしいことは変わらないから、何の用だと話を急かした。

『大きな神隠しに遭ったことがあるでしょう。生還に至った冒険について伺いたく、“院”の方から参った次第で』

 あの事件を口にする者が人間にいる筈がない。やはりこいつは妖魔か何かだ。ならば高所から落ちるくらい大丈夫だろう。僕は少年を突き落とそうと彼の肩に手を置いた。

『貴方の体験は、墓まで持っていくには惜しい情報なんですよお。話して下されば、機密に抵触しない範囲でそちらの問いにも答えましょうや』

 常夜について知りたいことなんて無い。だが、これから妖魔と無縁でいるために知るべきことはあるのではなかろうか。少年から手を離し、僕は要望に応じることにした。

 地元の山から常夜に迷い込み、ユウヅキ様に助けられたという始まりから、アユミが妖魔に転換し、魔神の如き存在へと成ったこと。至った山頂で大御神に会い、超越した英傑たちが茶会を嗜んでいたことまでを、絶望に近い恐怖を一緒に再生しながら話した。荒唐無稽甚だしいが、少年は一笑に伏すことなく真剣に聞き続けていた。所々で詳細を深める質問をされたので、傷口を抉るように思い出すことになって辛かったが、将来の平穏に関わる大事な機会だ。

『大変なお話を聞かせて下さり、感謝申し上げます。当情報は必ずや、妖魔による被害者を一人でも減らすべく活用させて頂きます』

 少年は急に事務的な口調になって、聞き取りは終わりだと言った。ようやく僕の番だ。聞きたいことは既に決めている。

『あの霊峰のような地獄に、僕が迷い込むことはもう二度とないよな?千年に一度の大凶を引いてしまったのであって、後の一生は安心して過ごしていいんだと言ってくれ』

『妖魔の危険水準で御座いますね。百鬼霊峰とは、我々が四大怪異と数える“神災しんさい”の一つ。神隠しは極々稀な頻度であり、只の人間が迷い込んだ例もまた少数。その中で生還を果たしたのは、貴方とマサト氏が初となります。百度生まれ変わるとしても、二度あることではないのでご安心下さい。一般人が生涯の内に遭遇する妖魔で、致命的なものはそう多くありません』

『もしも万が一、危険な妖魔に当たってしまったら、助けを求められる組織はあるか?』

『当院にお任せを。日本国内において最有力を自負しております。我々の努力と、貴方の運が足りていれば、助けに駆け付けます。妖魔に対し“院”の一文字を示せば、下級のものは退くでしょう』

 それは有意義なことを聞けた。彼の話は一先ず信じるとしよう。信頼はどこまでできたものか分からないが、この先何事もなければ、院とやらを頼ることもない。

 少年は夜分遅くの来訪を詫びると、壁を捉える手を離して窓際から落ちて行った。見下ろしてみると、既に姿はない。彼こそ妖魔だったのではないかと思って不安になったが、友好的な妖魔ならば歓迎してもいいのか?少し考えたいから、書くのはここまでにしておくよ。

 ああ、それと、日記を読んでる将来の僕、彼女が来るまでにホラー映画を片付けておけよ。特にスプラッタ系!



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二〇■■年■月■日 京都府と滋賀県の境辺り 車で移動中、ユズハさんが一緒


 いつもは僕が運転するのだけど、今夜は助手席に座ることになった。聞けば、彼女の実家は運転して行くのが難しい場所にあるそうで、自分に任せてくれれば、助手席で寝ている間に到着すると言う。意外にも(言ってはなんだけど)免許はお持ちだったのでお願いすることにした。

 僕とユズハさんが交際を始めて二年弱。これから彼女のご両親に挨拶をしに行く。緊張するが、ドライブデートの時間を楽しまないのは勿体ない。二人でいつも通りに喋ったり、夜景を眺めたりして、あっと言う間に時間が過ぎていった。やがて会話が一段落した頃に、なるべく自然な流れに乗って、彼女の家族について尋ねてみた。僕の不安なんて見透かしたような、冷たいけれど優しい微笑みが返ってくる。

何時なんどきも仲良しで、笑顔絶えぬが我が家です』

 その言葉を最後に会話が止まった。お互い話の種が尽きてしまったのかな。それとも運転に集中しているのかもしれないから、邪魔しないように、僕はこうして日記を書き始めた。もちろん、彼女に許してもらった上で。しかし変だな?電波が死んでいるぞ。それに景色が黒一色、ヘッドライトが照らす車道は暗灰色の鉱物によって舗装されている。ここは何処だ?

 ...覚えている。恐怖を鋭敏にする静寂、何物が襲い来るか分からない暗闇。あの魔境と近しい。

 否、嫌っ、ユズハさんの本性がどうであれ、ずっと僕に幸せをくれていた。僕に酷いことなんてする筈ない!明日の僕よ、この日記を読んでいるよなあ!?全部杞憂だったと書き足してくれ。

 僕はユズハさんを信じる。誠心誠意ご挨拶に行く。怪談は終わったんだ。その結末が死ではないことを願おう。






◆  ◆  ◆  ◆  ◆


ここまでお読み頂きありがとうございました。本話を以て、『百鬼霊峰』は完結となります。

限られた舞台で壮大な世界観を表現するという当初の着想通り、一つの怪談から大小たくさんの話の種を派生させることができました。それらについて、裏設定という形で以下に挙げておきます。


・【鳥居】

忌み山に建てられた四つの鳥居は、ユウヅキが用いる高次空間移動装置。六道世界間を渡ることができる。

・【真黒な装束の女たち】

言い伝え通りユウヅキの遣い。植物性の人形に過ぎず、無意思であり妖力は微弱。百鬼霊峰を彷徨う妖魔によって喰い散らかされていた。

・【サンスクリット語】

カヴィヤは生まれ付いての妖魔だが、出身はインド。人間の言葉を使うのは、幼少期に修行僧から教えられた読み書きが楽しく人語に愛着を持ったから。

・【目隠れ】

普段隠しているユウヅキの目は、昆虫のような四つの複眼になっている。畜生道出身者として、彼女が蟲の妖魔であることの表れである。

・【糧とした過去】

アユミの生みの親は彼女を毎日のように殴り虐待していた。過酷な日々は、“弱ければ死ぬ”という理不尽を幼くして悟らせる。同時に、“強ければ全てが赦される”などと邪悪な希望を抱いた。ならば手始めだと両親を惨殺し、その時の阿鼻叫喚は、彼女がヒトとして得た最大の喜びとなった。

・【四阿の品質】

道中の四阿は元々、妖魔の誰かが休憩のために造り、片付けずに捨て置いた小さなものだったが、通り掛かる妖魔たちが面白がって増築と改良を重ねた結果、品質が過剰なまでに引き上げられた。

・【恋愛事情】

シルヴィヲは俗に言うヤンデレに好かれる。首に掛けたドッグタグには、付き合いが拗れた果てに正当防衛で殺すことになった恋人たちの名前が刻まれている。

・【権能】

妖魔と成ったアユミの力は“荒廃より汲む環獄門”。終末を迎えた世界へ繋がる業火の環から妖力を受け、自身より上位の実力者にも攻撃を直撃させる瞬間的強化を発現する。

・【白霧灯乃神】

マコトたちを担当していた給仕は女性。接客に難有り。彼女は名前の通り神格であり、他の給仕も神に類するか、それに匹敵する上位存在である。

・【架で踊る】

妖魔や英傑の間では、異教の十字架を使ったポールダンスのようなものが流行っている。

・【小者英傑】

不良客の三つは英傑としては最下級の実力。それでも運では覆せない域の死線を越えてきた猛者には違いなく、単騎で一軍に相当する武力を誇る。

・【ねっとり頸髄ぺいすとの暈り鐙麦餅】

鐙麦餅とはベーグルのこと。眩暈がする美味しさ。

・【世界符】

六道の諸世界は“安(あ)”~“无(ん)”までの文字を組み合わせ符号付けされている。

・【庇護の動機】

ユウヅキがマコトたちを助けたのは、彼ら村人への純粋な善意によるもの。人間の誰にでも友好的である訳ではなく、本来は寧ろ邪神の類。彼女が神として祀られる以前、我が子を失った悲痛に病んでいた心を救ってくれた村人たちへ報いるため、最後の義理として身を挺した。

・【地理観】

百鬼霊峰の麓は下界に位置し、標高十二万メートルの頂は、時空間を歪めて欲界上層まで達している。神隠しに遭わずとも、人間が自力の徒歩で到達することが可能ではある。実際、“院”は何度か精鋭の遠征部隊を送ったが、部隊が全滅することなく登頂に成功した唯一の例を最後に、英傑級の実力者を除き探索を凍結している。

・【院】

現世から全ての妖魔を永久に絶滅させるという大望を掲げる自衛者の結社。政府非公認であるが高度な組織形態を有し、武力に特化していながら多岐に渡る専門分野を扱っている。構成員は人間でありながら妖魔に匹敵する異能を振るい、組織としては英傑に対して協力を求める交渉を掛けられる程の力を持つ。自分の平穏は自分で掴むという、基本的にはあくまで“自衛”のための集団であるため、彼らが一般人を護るのは功利的な理由からでしかない。

・【ユズハ】

とある名家に属する英傑の一人。マコトから怪異の残り香を感じ取り接触、それから交際に発展した。

・【妖力、異能の比較】

最下級の妖魔を一として、カヴィヤは十、ユウヅキとシルヴィヲは数千。

ユウヅキを一として、給仕は一千弱、アユミは数千万。

アユミを一として、大御神は五十前後、喫茶の客たちは平均概算で数万、最高位の客層は垓の単位で測る必要があり、神憑贄巫に至っては不明。

・【神憑贄巫】

この名は偽名であり、他にも“密葉ひそは(秘密の言葉)”という仮称を使うことがある。また、女装して性別も隠している。本名を名乗らないのは、相手にそれだけの礼を払う価値がないと断じているからで、女装は単に趣味。

・【英傑の中でも更なる英】

英傑とは測り知れず、常人の視座からは等しく強大であると思える。それでも、高みには高みの上下、強弱が存在する。百鬼霊峰の喫茶に会していた者の多くが、上には上がいるという概念を突き付ける怪物であった。


上記のいくつかは次回作の候補になるかと思います。気になる要素がございましたら、是非とも感想をお聞かせください。

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