第2話 俺が猫化する日

 傷口が腫れてきたので、医者へ行った。

 猫の牙には、ばい菌があるらしい。

 薬を塗ったら脛毛までベトベトになった

 でもまあ、しばらくのことだから我慢しよう、その時はそう思っていた。


 だが、一週間経っても治らないどころか、痛みが広がっていた。

 授業中も痛みが気になってしょうがない。


 誰もいないのを確認してから、ガーゼをそっとめくった。

 赤いところが広がっていた。

 じんじんする。

 顔をしかめただけだったが、心の中ではもっと盛大に痛みを訴えていた。


 俺は痛みや辛さには弱かった。

 三十七度二分で、入院を考えるタイプだ。


 「完璧にやられたな」

 「玉ちゃん、やっちゃったねー」

 俺の目の前に野木美月と牧田翡翠がいた。

 俺は椅子に座ったまま、気持ちだけは後ろに十メートルほど飛んだ。


 「な…」

 なんでそこにいる。


 「け……」

 気配がなかったぞ。


 過呼吸気味になって、言葉が出なかった。


 牧田翡翠が、腫れたところにそっと触れた。

 「い……」

 痛いと言おうと思った。

 だが、痛くなかった。むしろ気持ちいい。


 目が合った牧田翡翠は、まん丸のお目々を和ませた。

 「痛いの、ちょっと消えた?」


 半分空気みたいな声に、俺は何度も何度も頷いた。

 牧田翡翠の手が、俺の腫れた足をすりすりした。

 牧田翡翠のお手々の隙間で、俺の癖毛のすね気が、かくれんぼしては飛び出していた。こんにちはー、さようならー。


 おお、痛くない。


 「ありがとう牧田」

 「また痛くなるかもだけど」

 俺の中の牧田翡翠の地位は急上昇していた。強いだけでなく、癒しまでできるのか。


 「一時しのぎだが」

 野木美月が言った。

 「す…すみません」

 なぜあやまる、俺。

 だが野木美月は気にした様子もない。


 「どうしてこの怪我のことがわかったん、ですか」

 「匂いだ」

 「怪我の匂い、ですか?」

 「お前から玉ちゃんの匂いがした」

 「タマちゃん?」

 サザエさんの?


 会話を引き取ったのは、牧田翡翠だった。

 「玉ちゃんはね、あの茶色の猫なの」

 ああ、俺をひっかいて噛みついた猫相にゃんそうの悪い猫のことか。

 あの猫は二人の猫か? それともあの道場の主の猫か?


 「噛み傷から匂いが? そんなことあるのか?」

 牧田翡翠はゆらゆらした声で答えた。

 「傷からじゃ、ないの。体から匂いがするの。東堂君、あっちのね、いい匂いがするの」


 えっと、何を言ってるのかよく分かりません。

 俺は牧田翡翠から答えを導くのは諦めた。


 「野木さん、こ…これって、治らないんですか。医者では猫のばい菌だって…」

 「無理だ。ちょっと考えるから、しばらくは翡翠に撫でてもらえ」


 俺はそれだけ言って去っていった野木美月の背中を目で追った。


 もう少し情報が……ほしい……


 「美月ちゃんが考えるって言ったら、考えるよ」

 牧田翡翠はまた俺の足をすりすりした。


 「医者でも無理なのか」

 「そっちじゃないの」

 「そっち?」

 どっち?


 牧田翡翠は小首を傾げた。

 「玉ちゃんね、違うから」

 「何が?」

 「本当は玉ちゃんね、あっちの猫だけど、こっちでも猫なの」


 えーっと、こいつは何を言いたいんだ?

 三歳児か?


 「明日も撫でてあげる」

 牧田翡翠はバイバイした。

 俺もバイバイ返しをしたが、手は途中で虚しく下に降りた。


 俺、重症なんだろうか。


 これは凡人が天才に近付いた罰に違いない。

 俺の背中に「後悔」の二文字が大きく書かれていた。

 

 だが朝起きたら、痛みがなくなっていた。 

 ブラボー、治ったのか?

 足を見たら、噛まれた所から産毛が生えていた。脛毛よりも、もっとふわふわな。

 薬の副作用か?それとも牧田翡翠の副作用か?


 ふわふわの毛は、夕方には茶色の猫毛に育っていた。

 どう見ても、玉ちゃんと同じ色の毛だった。


 帰り道で二人を捕まえた。

 ズボンの裾を上げて足を見せると、道場へ来いと言われた。

 「玉ちゃんの毛だね。玉ちゃんがうつったのかな」

 牧田翡翠が俺のふわふわの毛をさすさすする。

 ああ、気持ちいい。牧田翡翠に懐いてしまいそうだ。


 「美月ちゃんは、どうなるって思ってた?」

 「こんなのは初めてだから、予想のしようがない」

 うーん、その通り。と思いながらも、俺は眠くてしょうがなかった。


 「寝ていいぞ」

 野木美月が言った。なぜ分かったんだろうと思いながら、俺は野木美月の腕の中に倒れ込んだ。

 野木美月の腕は野郎の腕よりは細いけど、ホールドがかなりしっかりしている。

 さすが俺の野木美月。

 そっと床に下ろしてくれた。

 強いだけでなく優しい。寝顔の俺はきっと笑顔になっていたに違いない。


 「猫って、たくさん寝るもんね」

 俺のことか? 俺は猫になってしまうのか?

 二人はオーサブローがどうした、あっちではどこで手に入れられるかというような話しをしていた。


 どうやら俺が元に戻るには、薬のようなものが必要らしい。

 それは「あっち」でしか手に入らないこと、それにはオーサブローというやつが関わっているらしいこと。


 なんとなくだが、野木美月はそのオーサブローというやつを信用していない気がした。


 「東堂、起きろ」

 野木美月の声だ。そうか、野木美月は俺の名字を知っていたんだ。


 目を開けると、ふた組の目が俺を見下ろしていた。

 「もう遅いが、ここに泊まるか?」

 ここというのは、このぼろぼろの道場のことだ。

 「帰るよ」

 とは言ったものの、足の毛がだいぶフサフサしていた。


 「完璧に玉ちゃんの毛だ」

 牧田翡翠が俺の足を撫で撫でした。

 ああ、やっぱり気持ちいい。

 野木美月に撫で撫でしてもらったら、どんな感じだろう。


 「この毛、増えてくのかな」

 俺は牧田翡翠にきいた。

 「わかんない」

 猫毛に浸食されるってことは、あそこの毛も茶色の猫毛になるんだろうか。

 あそこの毛だけが俺のオリジナルだったら、けっこう笑える感じになる。いや、猫毛になっても笑えるけど。


 俺は玉ちゃんのふわふわ毛と俺の剛毛が共存しているところや、全部玉ちゃんのふわふわ毛になったところを、頭の中で丁寧にシミュレーションした。

 一種の現実逃避かもしれない。


 俺の沈黙をどう受け取ったのか、野木美月が言った。

 「早いうちに、手を打った方がよさそうだな」


と、おっしゃいますと?


 野木美月は足の毛をじっと見ていた。


 もしかしたら俺、全身猫毛になっちゃうの?


 家主はいないから、泊まっていいと野木美月が言った。

 道場の奥には小さな住居部分あって、一応客間もあるらしい。家族か?というような気楽さだった。


 不安だったが泊まることにした。


 俺の猫毛は、太ももの半分の所まで伸びていた。

 一人っきりになると、不安が大きくなった。

 俺はいったいどうなってしまうんだろう?


 俺は、鳴きたくなった。

 いや、泣きたくなった。


 しかし俺にかけられた猫の呪いは、心配や悩みを凌駕した。


 つまり、爆睡していた。



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