第3話 猫化した俺、猫毛の脱毛に心悩ます(改)

 脛毛が撫で撫でされている。


 牧田翡翠か?

 いや違う、牧田翡翠のような可愛い気配ではない。


 もっとやましい何かが……


 俺は飛び起きた。

 暗闇の中に誰かいる。


 「君、だあれ?」


 声と同時に明かりがついた。

 そこには見知らぬ男がいた。


 「ど……どなたですか」

 「ここの家主だよ」


 男は俺の猫毛のすね毛を見て笑った。

 「玉ちゃんの飼い主…さん?」

 「そうだよ。君は美月ちゃんと翡翠の友達?」

 「同じ学年です」


 ほんとは友達と言いたかった。


 「玉ちゃんと、どうしたの?」

 「噛まれて……」

 男はズボンの裾を大胆にめくり上げると、再び俺の猫毛を撫でた。

 俺を見上げて、にやっとした。

 「けっこう柔らかい毛だね」


 なんでだろう、鳥肌がウェーブをしながら、かけ上がってくるんだが。


 「二人はどうしたの?」

 「寝ている間に、どっか行ったみたいで」

 「君をここに残して?」

 「うっかり寝てしまって。帰ります」


 俺はバッグをつかんで部屋から出ようとした。

 だが俺の背中に、ピッタリと貼り付く気配があった。


 そう、絶対に振り返ってはいけない気配が。


 「嘘ついちゃだめだよ」

 「————————!」


 俺は声にならない悲鳴をあげた。


 やめてくれ! 俺に近づかないでくれ。

 唇が耳朶をぷるぷるするだけでも気持ち悪いのに、声が妙な波動になって細胞が震える。

 気持ち悪くて、石化しそうだ。


 それだけじゃない。

 あああああ、今度は素足で俺の猫毛をさわさわしてきた。


 「玉ちゃんは僕の猫だから、君の足は僕のものだよ」

 「き……切り売りはしてません」

 「大丈夫、全身玉ちゃんになったら人間の意識が薄れて、玉ちゃんみたいに僕になつくよ」


 「う……」


 うっそーーーーと心の中で絶叫した。

 俺はこの男に身も心も奪われてしまうのか?


 奪われるなら野木美月か、牧田翡翠がいい。


 野木美月の足台か、牧田翡翠のソファーなれれば、それこそ本望だ。

 野木美月に踏みつけられたい、牧田翡翠に体の上でゴロゴロされたい。

 なんだか混乱しているが、だからこそ生まれる本性がある。


 ああそうだ、俺は変態だ。M気の多い変態だ。

 だがこいつには負ける。


 こいつは本物だ。


 男の手が俺のシャツの中に入り込み、背中を撫でた。

 これはもしや、セクハラか? いや、まじで身の危険が迫っているのか?


 背中がざわざわした。

 肌の下で何かが成長しているような……


 「ほら、もう生えてきたよ」

 「な…にが?」

 「触ってごらん」

 男が優しくささやいた。


 俺はおそるおそる、自分の背中に手を伸ばした。


 柔らかな猫毛に触れた。


 「君、とっても反応がいいね。名前は?」

 「わ……忘れました」

 「忘れた? 困ったね。仕方がないから僕がつけてあげよう」

 「いやです」


 男の手が背中から滑り降りた。

 手の通り道の毛根が、ざわざわしている。


 背骨を伝って、更にその下へ……


 あああ、そのあたりは触ってはいけない場所。

 逃げたいのに、なぜか全く動けない。


 「名前は……なにがいいかな」

 足の間に男の片足が入り込んだ。


 きゃーやめてー。


 恐怖で体が強ばってしまって、叫ぶことも、逃げることもできなかった。


 ベルトが外され、ファスナーがわざとらしく、ゆっくりと下ろされた。

 これは俺を怯えさせる演出か?


 ああ、下半身が受け入れ自由になってしまった。


 男の手が素肌を滑り、後方に回った。


 臀部がざわざわし始めた。

 ああ、俺の臀部は猫毛になってしまうんだ。


 来年の修学旅行はどうしよう。前日に脱毛すればなんとかなるか?

 きっと尻毛処理では済まされないほど、毛が生えるんだろう。

 処理する時は、できれば誰かに手伝ってもらいたいが、その時の体位を想像するだけで、涙が出そうだった。


 ああ、臀部のざわざわが止まらない。猫毛が生えているんだ。

 玉ちゃんだから、短毛種だよな?

 長毛種だったら、毎日ブラッシングしないと毛玉ができて、更に大変なことになる。


 男の手は大きめで暖かかった。

 探るような動きが、恥辱と鳥肌を誘う。

 男の手の感触で、自分の臀部の形を知りたくなんてなかった。


 でもでも。


 お願いだから境目から谷底には降りないで。

 そこは絶対に処理できないデリケートゾーン。


 あーーー降りないでーーーーー。


 心の声が声に出たわけではないだろうが、男は遠慮してくれた。

 俺は詰めていた息を吐いた。

 まあ、男の尻なんて、そんなに触りたい場所でもないだろう。


 ほっとしたのもつかの間。

 今度は側面からなぞられ、少しずつ前面に移動してきた。


 目をぎゅっと閉じた。

 俺のモノは、俺同様、恐怖で縮こまっていた。


 前面の皮膚がますますザワザワする。

 ああ、猫毛が生えているんだ。

 俺のオリジナルの毛は生き残れるのか、それとも猫毛に負けて、抜けてしまうんだろうか。

 いやいや、あの辺りの毛根は逞しそうだから、混合樹林となるのか?


 いや、そんなことより、そんなことより。


 あーーー


 触らないでーーー


 そこは俺の大切な秘密の花園。


 「……」


 幸い方向が反れた。


 「ほっとした?」

 また生ぬるい息が、耳の中に入ってきた。

 俺は声を出せず、頷いた。


 「可愛いね」

 可愛くない可愛くない。可愛くない自信がある。

 そういう言葉は牧田翡翠につぶやいてくれ。

 やつなら可愛い。

 でも二人にはこの姿を絶対に見られたくない。


 なのに

 なのに


 「やめろ、変態」


 有無を言わせぬヒーローの登場!


 俺の心の中は喜びにあふれ、妄想で野木美月に駆け寄り、ハイジとクララみたいに手をつないだ。


 あくまで妄想だ。


 野木美月は男の襟首を掴み、俺から引き離してくれた。

 俺は安堵のあまりへたり込み、ズボンを押さえて膝で這いながら、野木美月の後ろに隠れた。


 変態男は野木美月に流し目をくれた。

 「美月ちゃんは、いつもつれないね」

 野木美月が「当然だ」というと、変態男は「ふふっ」と笑った。

 漫画の吹き出しみたいな笑い方だった。


 「僕ほど君を理解できる人間は、いないと思うけど」

 「他人の考えが理解できるという思い込み自体が、変質者の証だ」

 「間違いないね」


 男は笑った。自覚があるんだ。


 「でも僕を必要とする日が、絶対来るよ」 

 「その通りだ、実はお前を探してた。こいつを元に戻したい」

 「この子は美月ちゃんの、何なの?」

 「同じ学年のやつだ」


 俺と同じことを言った。

 そうだよな……猫毛のことがなければ、俺なんて意識することもなかっただろう。

 近付いてたと思ってたけど、よく考えたら距離は全然変わっていないんだ。


 「対価はなに?」

 「なんで対価がいるんだ。お前の猫の責任だろ?」

 「玉ちゃんは、理由がないと噛みついたりする猫じゃないよ」

 「そういえば経緯を聞いていなかった」

 突然矛先が俺に向いた。


 「……お、俺は、牧田がここに入るのを見て興味が湧いて、窓から覗いたら野木さんもいた」

 はい、ただの覗きです。


 「二人は何してた」

 「稽古? 戦ってた」

 「それで噛みつかれた?」

 「突然足によじ登ってきて、びっくりしてふり払おうとしたら、噛みつかれた」

 「ふーん」


 男は分かったとは言わなかった。

 出来ないのではなくて、野木美月の言うことを聞きたくないか、困らせたいかのどっちかだろう。


 だが男は晴れやかな笑顔になった。

 「そうだね、飼い主の責任だから、玉ちゃんの責任は僕がとらなきゃね」


 野木美月はただでさえ険しい目つきを、さらに険しくした。

 「王三郎おうさぶろう、変なこと考えてんだろ」

 「美月ちゃんは、僕を疑いすぎだよ」

 「学習能力があるから、当然だ」


 これが噂のオーサブローか。

 この男はそこまで怪しいのか?

 「僕はこの子が気に入ったんだ。彼の体は素晴らしいし、君たちのお気に入りだし」


 「—————」


 え、なになに? 何て言った?

 俺が野木美月たちのお気に入りだって?

 違う、その前の言葉に耳が自動的にピー音を入れたんだが……。


 俺の体が素晴らしいって、おっしゃいました?


 野木美月は黙っていた。


 もしかして、そうなの?

 本当に俺の体がワンダフルだから、野木美月と牧田翡翠のお気に入りなの?

 俺は恥じらいつつも、笑顔になるのが押さえられなかった。


 「実に素晴らしい匂いだ。僕でさえ体が震えるようだから、君達はたまらないだろう?」


 ん? 匂いって言った?

 体じゃなくてスメル?


 母・ルリ子が「納豆臭」と言う、俺のスメルが?

 夏になると「腐った納豆臭」に進化する俺のスメルが?

 てか、納豆って最初から腐ってるのに「腐った納豆臭」ってなに?


 そういう話しじゃない。

 牧田翡翠にも「いい匂い」と言われたような気もする。


 野木美月が言い返さないのを、男は面白そうに眺めていた。


 「僕としては、完全に猫化してもらった方が嬉しいんだけどね。彼は素晴らしい仲間になると思うよ」

 「こいつは『こっち』の人間だ。お前が決めることじゃない」

 「綺麗事だね。翡翠のためにも、彼のような能力を持った仲間が欲しいのは、君の方だろう?」


 襖に手をかけたオーサブローの背中に、野木美月が言った。

 「王三郎、『あっち』に戻る前に、薬を置いていけ」

 「いま僕が薬を渡したとして、それが彼の猫化を治す薬だって、信用できる?」

 「……糞野郎」

 「正解だ」


 襖が閉まる音と同時に、野木美月の舌打ちの音が聞こえた。

 

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