インステッド・オブ

てゆ

一話 穏やかな

「誕生日、おめでとー!」

 照明を落とした暗い室内、ホールケーキに刺されたロウソクの光が、美玖みくさんの笑顔だけを暗闇に浮き彫りにする。頬に空気を溜めて、僕はロウソクが倒れるくらいの息を吐いた。吹き消されたロウソクの放つ匂いは、消えかけた幼い頃の記憶を連れてきた。

「二十二歳の抱負はなんですか?」

 急いで照明をつけ、戻ってきた美玖さんは、握りこぶしをマイクのように差し出して、インタビュアーのような口調で僕に今年の抱負を訊いた。

「えーと……大人になること、ですかね」

 それに合わせて、僕も初めてのインタビューに緊張している人を演じる。

「なるほど。大人になること、ね」

「うん。今日で二十二歳になるのに、まだ大人になったっていう実感がないんだよ」

 美玖さんが急にいつもの口調に戻ったから、僕もそれにならった。美玖さんは、自由な人だ。口調やテンションをコロコロ変える美玖さんに、僕が調子良く合わせる。その掛け合いが、淡々としている僕らのコミュニケーションのスパイスになっている。

「まあ、二つ上の私でも、まだ大人になったって実感ないから、焦らなくて大丈夫だよ」

 頬杖をつきながら、ホールケーキを切り分けもせずに食べ始める美玖さん。何か腹が立つことがあった時、腕を組みたくなるように、会議をしている時、テーブルの上で手を組みたくなるように、美玖さんは僕の前に座ると、頬杖をつきたがる。

「……まあ、社会人になる来年の誕生日には、実感も湧いてるか。そういえば、二十三は素数だな。ロウソクは何本にしようか」

 今年のロウソクは十一本。二十二本じゃ多すぎるから、一本二歳の計算だ。去年は、一本三歳で七本だった。

「来年の誕生日に考えよう。それよりもまず……ケーキ、今年も頑張って食べ切ろうね。はい、イチゴあげる」

 美玖さんが、イチゴを一つ一つ指でつまんで皿に乗せ、僕に差し出す。

「食べ切るの大変なのに、誕生日は毎回ホールケーキ買うよね」

「うん、私のこだわり。ホールケーキじゃないと、誕生日って感じしないから」

 キャベツの葉を一心不乱に貪る青虫のような、その食べ方に反して、美玖さんの容姿は、本当に美しい。長いまつ毛、くっきりとした二重、力強さと美しさを兼ね備えた目、雪を固めてつくったみたいな白い肌、ラプンツェルみたく綺麗な髪……顔だけでもこんなに褒められる上に、モデルのようなスタイル。きっと、これまでもたくさんの人に好意を向けられてきたのだろう。

「明日の朝ごはんも、ケーキだな」

 美玖さんのすごいところは、容姿だけじゃない。社会人としての能力まで、トップクラスなのだ。実際、僕たちの生活費は、ほとんど美玖さんの給料で賄っている。美玖さんはキャリアウーマンで、勤務先はなんと、外資系のコンサルティング会社だ。

「だね。たぶん、おやつも」

 ……どんな幸せでも掴めるような完璧な人だからこそ、美玖さんは僕じゃない人と、付き合うべきだった。僕との未来に、美玖さんの望んでいるようなストーリーは、きっと生まれない。

「ボーっとしてないで、ちゃんと食べて」

 促されるまま、イチゴを口に運ぶ。小皿に並べられたイチゴたちは、「食べて食べて」と言っているようで少し不気味だった。

「すっぱい」

「そうでしょ。だから朝陽あさひ君に任せた」

 美玖さんは微笑みながら、右腕の袖をまくった。頭ではどうするか考えていたのに、僕の体は結論が出る前に右腕の袖をまくっていた。……右腕の袖をまくる。それは、同棲してすぐに美玖さんと決めた合図で、夜のお誘いだ。受け入れるのであれば、右腕の袖をまくり、断るのであれば、左腕の袖をまくって返事をする。だけど、僕から右腕の袖をまくったことは、一度もない。

「かわいそうだから、ケーキ本体もあげよう」

 スプーンでケーキを豪快に抉り、それを小皿に泥のように落とす美玖さん。……夜の誘いにオッケーを出した時の、美玖さんの幸せそうな笑顔を見る度に、僕の心には熱い金網が押しつけられる。


 女性と交わって、その中で果てる時、僕はいつも家の近くの山で聞いたウグイスの鳴き声を思い出す。「ホー」はできるだけ長い方がいい、「ホケキョ」はできるだけ先延ばしにした方がいい。

「……どう? あの時とどっちが良かった?」

 一度目の「ホケキョ」が終わると、美玖さんは必ず僕にそんなことを訊く。僕はその時、右腕の袖をまくって返事したことを決まって後悔する。……毎回、僕はその質問に答えられない。答えはもう決まっているけど、それを言うことができない。

「……そう」

 今日もまた、押し黙ったままで回答時間が終わる。ベッドの縁に腰掛けている美玖さんは、肩を落として残念そうに呟く。

「もう一回、いけるよね?」

 耳にかかる息が熱い。僕が答える前に、美玖さんは僕の体を押し倒して、馬乗りになった。重いけど、低反発のマットレスみたいに柔らかい体。美玖さんに馬乗りになられると、「人間の体重の六十パーセントは水だ」というのは本当なんだと実感する。

「うん」

 無心で僕の体を貪っている美玖さんに、僕の返事はもう届かない。

「口、開けて」

 行為中の美玖さんは、自分の世界に入り込んで遊ぶ子供に似ている。……美玖さんは、羽化に失敗した蝶のような人だ。

 言われるがまま口を開けると、ねっとりとした唾液の絡まった舌が、口の中に入り込んでくる。カタツムリの交尾のようなディープキスと、さっき食べたケーキの甘ったるい味に、少しめまいがする。


「……朝陽君、明日は女の子と遊ぶ日だっけ?」

 僕の耳にかかった髪をかき上げながら、平然とした顔で訊く美玖さん。……昔は死にたくなるほどの罪悪感が湧いたけど、今ではもう、後ろめたい感情すら湧かなくなってしまった。

「そうだね」

 口の中を満たすねっとりとした唾液のせいで、ねばついた声になる。

「じゃあ、少し元気を残しておかないと。……早く、見つかるといいね。朝陽君の探し物」

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