二話 鮮明な

 十三年前の十月四日、僕のお父さんは人を殺した。その日、我が家は、産業革命やフランス革命、二度の世界大戦が同時に起こったくらいの衝撃に襲われた。「禍福はあざなえる縄の如し」ということわざがあるけど、僕は「福」にあたる麻紐を、生まれてからあの日までの九年間で、使い切ってしまったのかもしれない。

 お母さんは「何かを殺す」ということに極端な抵抗を持ち、文字通り「虫一匹殺せない人」になってしまった。小学四年生の頃、家に帰ると台所から泣き声が聞こえて、急いで様子を見に行ったことがある。すると、そこにいたのは、間違って蚊を潰してしまい、床に崩れ落ちて泣いているお母さんだった。……その姿は、惨めを通り越して狂気的ですらあった。僕はその時、生まれて初めて死にたいと思った。

 もちろんと言うのも変だけど、僕はあの頃、苛烈ないじめに曝されていた。靴に画びょうを入れたり、机に落書きをしたり、集団で罵詈雑言を浴びせて暴力を振るったり、金を持って来いと命令したり、ひと気のない公園に呼び出して服を脱がして写真を取ったりといった、悪意を結晶にしたような行為の数々。もちろん、最初は辛かった。だけど、紙を何回も折ると、途中でそれ以上折れなくなるように、徐々に何とも思わなくなっていった。……絶対に屈しないぞと思って、ずっと耐えていた。だけど、僕の気持ちとはうらはらに、体が先にギブアップしてしまった。

 ――小学六年生のある朝、服を着替えているとなぜか涙が溢れてきて、止まらなくなった。これは流石にまずいと思い、僕はその日、学校を休んだ。するとその次の日は、目覚めた途端に、更にたくさんの涙が滝のように流れてきた。……結局、僕は小学六年生の秋のあの日から、中学三年生の冬まで、ずっと不登校を貫いた。


 不登校になってから二か月、僕の家には、定期的にカウンセラーの先生が訪れるようになった。その先生は、三島みしま美琴みことと言って、若くて背の高い女の人だった。美琴先生と初めて話をした日のことを、僕は今でも鮮明に憶えている。


 美琴先生が家に初めて来た日、僕は自分の部屋に立て籠もっていた。「カウンセラーなんていらない。これ以上、僕の生活を乱さないでくれ」と思いながら、諦めて帰ってくれることを一心に願っていた。

「入りますね」

 だけど、僕の願いは届かず、美琴先生はお母さんから僕の部屋の鍵を受け取って、無理やり中に入って来た。

「朝陽君、こんにちは。カウンセラーの三島美琴です」

 美琴先生はその大きな体を窮屈そうに畳み、身ぐるみを剥がされたみたく呆然として床に座り込む僕の目を見つめて、自己紹介した。

「朝陽君、好きな食べ物は?」

 唐突な質問と無表情な顔、前かがみになったまま訊く美琴先生に、僕は思わず笑いそうになった。

「……カレー」

「カレー嫌いの人なんていないです。別の食べ物で」

「じゃあ、回鍋肉です。……あ、あと、どうぞ座ってください」

「回鍋肉ですか。私はシーフードカレーが好きです」

 そう言いながら、僕の前にゆっくりと正座する美琴先生。いいや、シーフードカレーだってカレーだろと心の中でツッコミを入れる。

「……好きな動物は?」

 その高身長と無表情が相まって、目の前に正座している美琴先生は、何とも言えない圧迫感を放っていた。漫才のステージのようだった雰囲気が、一気に面接会場のような緊張した雰囲気に変わる。

「僕は犬が好きです。素直で、かわいいからです」

 自然と国語のテストみたいな回答をしてしまう。

「そうですか。かわいいですよね、犬。……まあ、私は猫派ですけど」

 ぼそっと言った最後の一言が余計だということに、きっと美琴先生は気づいていない。

「……さて、自己紹介はこれくらいにしておきますか。それでは朝陽君、今から私がする質問に答えてください」

「はい」

 きっと、これまでの「おとぼけ」は全部、僕の緊張をほぐすための作戦なのだろうと思っていた。ここから、プロのカウンセリングをしてくれる……なんてことはなく、やっぱりここは、漫才のステージで、僕はツッコミ役の芸人だった。

「不登校の原因は?」

 ……なおも無表情な美琴先生。その口調は、被疑者に取り調べをしているかのようだった。ツッコミたいことが、どんどん溢れてくるけど、必死に耐えた。

「お父さんの人殺しが原因のいじめです」

「お父さんの人殺しの原因は?」

「……先生、本当にカウンセラーなの?」

 心の中で言ったつもりだったけど、気がつけば声に出していた。

「……ごめんなさい」

 叱られた子供みたいな、しょんぼりとした顔。そのとき初めて、美琴先生は表情に色をつけた。

「じゃあ、その、お父さんが人を……あの世に旅立たせた? 原因を答えて……もらえると助かるけど無理なら答えなくてもいい」

 キョトンとした顔で、「ねえあってる?」と尋ねるように、僕の顔を見つめる美琴先生。……何かが吹っ切れて、僕はもうツッコムのをやめた。

「会社の上司の失敗を肩代わりさせられそうになって、口論になって、エスカレートして、先に殴ろうとしてきた上司を突き飛ばしたら、当たりどころが悪くて、死んじゃったらしいです。世間では、『自らの失敗を責められた部下が、逆上して上司を殺した』っていうことになってますけど」

「……それは、なんというか、すごく理不尽な話。裁判とかは……?」

「負けたから、今こうなってるんだよ!」

 ものわかりが悪すぎて腹が立ったから、思わず大きな声を出してしまった。すると、美琴先生は怯えた子猫みたいな顔をして、少し後ずさった。大の大人を相手に、僕は赤ちゃんを泣かせてしまった時のような気持ちなった。

「……他に、何か訊きたいことある?」

「じゃあ、最後に一つだけ。もう一度、学校に通おうと思ってる?」

 だけど、すぐに元の無表情に戻ったので安心した。

「……いいえ」

「そう、わかった。……じゃあ、来週もまた来るので、そのつもりでいてください」

 そう言い残し、立ち去ろうとする美琴先生。

「えっ、これだけなんですか?」

「うん。私は、朝陽君の苦しみを理解しようとしているわけじゃないから。事実だけを淡々と述べていた朝陽君は、きっと『辛かったよね、わかるよ』なんて言われたいわけじゃないでしょ? 次回は、ボードゲームを持って来ようと思う。私は、朝陽君とたくさん楽しい時間を過ごしたい。受けた傷を治してくれるのは、きっと楽しい時間だけだから」


 ……あの日、最後にとてもかっこいい言葉を言い残した美琴先生だけど、逆に言えば、美琴先生がカウンセラーっぽいことを言ったのは、あれが最後だった。美琴先生は、感情表現や人の気持ちを考えることが苦手で、その点においては、僕の方が何倍も優れているくらいだ。だから、他の子のカウンセリングをする時のことを考えると、とても不安になって、「他の子のカウンセリングも、こんな感じでやってるんですか?」と訊いたことがある。すると美琴先生は真顔で、「他の子にはもっと気を遣って、ちゃんとやってる」と答えた。

 なんだかんだ言っても、僕は美琴先生が好きで、美琴先生と過ごす時間は、僕に生きる気力をくれた。人によって、「幸せ」の定義は違うけど、僕の定義に当てはめると、あの頃は間違いなく「幸せ」だった。そう、僕は確かに、幸せを掴んでいたんだ。……なのに、その幸せは、美琴先生の手によって、ある日突然、壊されてしまった。


 ――十四歳の冬、一月二十日。おばあちゃんの誕生日を祝うため、お母さんが実家に帰省していた日のできごと。僕は、美琴先生に犯された。それは、僕が精通を迎えてから、約二か月後のことだった。


「今日は、無表情じゃないんですね」

 いきなりベッドに押さえつけられ、無言で服を脱がされたのに、僕はなぜかとても冷静だった。……前後の過程はあまり憶えていないのに、行為中の記憶だけはやけに鮮明で、行為の内容はもちろん、美琴先生の息の熱さ、肌や舌や生殖器の感触に至るまで、昨日のことのように思い出せる。

「……ごめんね、朝陽君。私、小児性愛者なの。出会った日から、ずっと朝陽君をそういう目で見てた」

 目に涙を溜めて、申し訳なさそうに謝りながらも、僕の体を押さえる力は、一向に弱まらない。自分でも触ったことがないようなところを、マーキングするかのようにベタベタと触る美琴先生の姿を見ながら、僕は「地球ドラマチック」だとか、「ダーウィンが来た!」で見た大自然の動物たちの狩りを思い出した。

「……親友にも家族にも打ち明けられない『本当の私』を、朝陽君には打ち明けられた。私、今とっても幸せ」

「こんな汚いことをして?」

 嘲笑しながらそんなことを訊いたけど、実際は、僕も理性が揺らぐくらいの快感を覚えていた。怖かったんだ。美琴先生側に立つことが、こんな汚い行為を楽しんでいる人の一員になることが。

 あの時、恥じらいもプライドもかなぐり捨てて、「ゆっくり話し合ってからだったら、僕だって嫌じゃない」と言っていたら、未来はどうなっていたんだろうか?


 ――目覚めると、窓の外は夜の闇に包まれていて、美琴先生はもういなくなっていた。重い体を持ち上げて起き上がる。机には、走り書きのメモが、ポツンと寂しそうに置き去られていた。

「申し訳ない気持ちはありますが、後悔はありません。朝陽君に会えて、私は幸せでした。ですが、もう会うことはないと思います。私のことは、早く忘れてください。」

 そのメモを読み終えた僕は、天井を仰いでポツリと呟いた。

「ああ、終わったんだな」

 後を追って流れてきた涙は、剥き出しの体を伝って、みぞおちの辺りまでを濡らした。


(汚いけど、気持ちいい。こんなことに快感を感じていること自体、気持ち悪いのかもしれない。だけどそれは、大人になったっていう証拠。大人はみんな、普通にこういうことをしてるんだから)

 美琴先生の剥き出しの本能を受け止めながら、考えていたこと。

(……いいや、気持ち悪いかどうかなんて、どうでもいいか。美琴先生、満ち足りた幸せそうな顔をしてる。美琴先生の幸せそうな顔を見てると、僕……生きていて良かったと思える)


 ――色々な女の人と付き合って、愛し合って、交わって、その幸せそうな顔を見て、確かめる。「生きていて良かった」と、あの日のように思えるかどうか。学校に再び通い始めてからの人生の全てを、僕は恋愛に費やしてきた。あの感覚を、もう一度味わいたくて。なのに、あの日から何年も経った今でも、探し物は見つかっていない。

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