三話 曖昧な
いつものカフェで、僕は亜美とコーヒーを飲んでいた。BGMの洒落た歌は、何度訪れても、何語で歌っているのかすらわからない。
「今日は人が少なくていいね」
いつもなら、自分の方から積極的に話す亜美だけど、今日は思い詰めたような表情で、無言のままその長い茶髪を撫でている。
「ところで、この後は……」
「私、伝えたいことがあるの」
亜美の少し震えた声が、僕の言葉を遮る。ハッとして亜美の顔を見つめた僕は、瞬時に次の展開を悟ってしまった。
「……朝陽は優しくてさ、私との約束を破ったり、私のことを雑に扱ったりしたことなんて全くなかった。だから、こんなのクズが言うことだって、わかってるんだけど……私、朝陽と一緒にいても、満たされた気がしないの」
満たされた気がしない。亜美が言ったことを、心の中で何度も復唱する。復唱する度に心を締めつける罪悪感と、全身を這う気味悪さで、せめてもの罰を受けたかった。
「ごめんね、本当に。自分でも、なぜかわからないの。だけど、ただ一つ確かなのは、この関係をずっと続けても、お互いが不幸になるだけだってこと。だから……別れよう」
――亜美の幸せそうな顔を見ても、僕はあの感覚を思い出せなかった。その長い茶髪を、一重まぶたの下の澄んだ目を、礼儀正しい性格を、最後まで愛せなかった。僕は今、別に傷ついていない。だって僕は、「亜美のことが好きで」亜美と付き合ったんじゃなくて、「あの気持ちを思い出せるか確かめたくて」亜美と付き合ったのだから。……なのに、亜美のこんな悲しそうな顔は見たくないと真に思っている。
矛盾しているようで、どちらも本当のこと。だからこそ、僕は自分自身が気持ち悪くてたまらなかった。
「……ちょっと待って、考える時間がほしい」
神妙な顔でそう言ってみるけど、本当は考える時間なんていらない。こういう場面は、もう何度も経験してきた。
「……僕は亜美に幸せになってほしい。だから、亜美が僕と別れることを望むのなら、僕はそれを受け入れようと思うよ」
幸せになってほしいから、なんて便利なセリフだろう。
「……ありがとう。こんなこと、言える立場じゃないけど、全て水に流して、お互い幸せになろうね」
大粒の涙が、彼女の澄んだ両目から一粒ずつ流れ落ちた。亜美はコーヒーをぐいっと飲み干し、席を立った。そして、いつもより薄い口紅をつけた唇に、コーヒーの雫をつけたまま、会計の方へと歩いて行く。
――こうして、「恋人の背中」が「他人の背中」に変わる瞬間を、僕はどれだけ見送ってきただろうか。きっと今日のことも、たくさん積み重ねてきた別れの中の一つとして、すぐに忘れる。全てをさらけ出してくれる相手に、一番重要なことを隠して上辺の言葉で接する自分。体を重ねた相手すらも知らない卑怯な自分が、僕は大嫌いだ。だけど、もう、心のどこかで割り切ってしまっている。
だって僕には、もうこういう生き方しかできないから。
亜美が去って行ったカフェ、コーヒーをもう一杯頼んで少しずつ飲みながら、僕は亜美との思い出を振り返っていた。
中島亜美。彼女は僕と同い年で、僕が所属している演劇サークルの一員だった。サークルのメンバーの中では、誰よりも劇が好きで、交際中は、二人で色々な劇団の公演を観に行った。彼女は僕を心から愛してくれたから、僕もその愛に応えて、精一杯の「一番大切な人と同じ扱い方」を心がけた。だけど……僕のそれが作り物だと、亜美は無意識のうちに気づいてしまったらしい。
「おかえりー。早かったね」
僕が家のドアを開けると、美玖さんはゲームのコントローラーを持ったまま、僕の方に駆け寄ってきた。
「……中島さんに別れを切り出されたから、別れてきた」
「おお、そうなんだ。じゃあ、次の相手は誰がいいかな……」
軽く明るい口調で言う美玖さんに、僕は相変わらず気味の悪さを感じてしまう。だけど、こんな歪んだ関係を生み出したのは、他の誰でもない僕だ。
「いいから、早くゲームに戻って」
……強く噛んだ舌からは、少し血が流れた。
「はーい」
カーペットの上にあぐらをかき、テレビ画面を見つめながら、美玖さんは今日もFPSをやっている。無表情のまま、無駄のない手さばきでコントローラーを操作し、敵を撃ち殺していく様は、ゲームをしているだけなのに少し怖い。
「相変わらず上手だね」
「そうでしょ」
ゲームに集中したがっているのがわかるから、いつもより会話が弾まない。ぼーっとしてソファに座る僕は、テレビを食い入るように見つめる美玖さんの丸い背中を眺めながら、つまみも食べずにビールを飲む。
ゲームが終わり、リザルト画面が表示される。美玖さんのチームは四位で、美玖さんのキル数は十を超えていた。
「……ねえ、朝陽君」
ゲームを終了することもせず、足元に置いてあったリモコンで、バツンとテレビを消す美玖さん。
「私が朝陽君に告白した日のこと、憶えてる?」
高めの位置から腰を落として、美玖さんはドスンと僕の隣に座る。
「もちろん、憶えてる」
――美玖さんに告白されたあの日は、「あれから」の人生の大きな転換点だった。
「朝陽君ってさ、プレイボーイだよね」
その日、僕は大学の図書館で、同じ学部で演劇サークルの先輩だった美玖さんに、勉強を教えてもらっていた。
「えっ? そんなことないですよ、どうしてそう思うんですか?」
当時、僕は大学二年生。美玖さんは、大学四年生だった。
「オーラ、かな。だから、ちゃんとした根拠はなかったんだけど、今の反応で確信した」
今よりも長かった髪、派手だった服、濃かった化粧。その見た目は今とだいぶ違ったけど、その頃の美玖さんも、今と変わらないハッとするような美人だった。
「……実は私、朝陽君のこと好きなんだよね」
シャーペンの芯が、ポキッと折れる。美玖さんは、平然とした様子で僕の顔を見つめていた。
「ああ、そういえば、これを言わないと勘違いさせちゃう」
僕の耳元に口を近づける美玖さん。「まあ、冗談なんだけどね」とか、そんなことを言うのだろうと思っていた僕は、美玖さんが放った言葉に、気を失いそうになった。
「……私、一番じゃなくていいからね」
――言わなければならないと思った。この人に美琴先生とのことを話さなかったら、僕は既に越えているかもしれない人間としての一線を、確実に踏み越えてしまうような気がした。
『……なるほど。朝陽君が色々な人と付き合うのは、探し物を見つけるためなんだね。……さっきも言った通り、私は別に一番じゃなくていいからさ、私と付き合っている間にも、色々な人と付き合うといいよ』
「……夢を見たの。朝陽君が、美琴さんと一緒にどこかへ行ってしまう夢」
『えっ? これまで、新しい人と付き合うのは、前の人とちゃんと別れてからだった? 朝陽君、浮気したことないの?』
「私、美琴さんには感謝してる。だって朝陽君、美琴さんに出会っていなかったら、今日まで生きることなく、自殺していたかもしれないから」
『……じゃあ、今は恋人いる?』
「だけど、ああいう夢を見ると怖くなる。流石の私も、美琴さんには勝てないからさ。……まあ、あんな夢が現実になるなんて、ありえないんだけどね。何度も言っていることだけど、美琴さんが現れない限り、朝陽君は……」
『いない、か。……ふふっ、私はラッキーだね。言っとくけど、どんな女の子と付き合ってもいいし、なんならそっちに乗り換えて、私のことを捨ててもいいから。でもまあ、朝陽君が私を捨てるなんてことは、絶対に起こらないだろうけど。これは女の勘なんだけどね、朝陽君はきっと……』
「永遠に、私から離れられないよ」
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