四話 運命的な

「あっ、ライン……矢田さんからだ。こんな時間にどうしたんだろう?」

 いつもの倍くらいのお酒を二人で飲んで、僕たちはおやつの時間の三時から、「昨夜の続き」をしようとしていた。

「今は、他の女の名前出さないで」

 水飴を思わせるような、甘いとろっとした声。微かな赤みと熱を帯びた美玖さんの手が、僕のスマホを取り上げる。

「他の女って……確かに矢田さんの性別は女だけど、そういう関係にはなってないよ」

 矢田若葉。彼女は三年生で、僕が所属している演劇サークルのリーダーだった。

「わかってるけど、嫌なの」

 他の女の名前を出さないでなんて、普段の美玖さんなら絶対に言わない。体中を巡るアルコールが言わせたそれは、冗談なのか、それとも……。

「そうか、ごめん。……じゃあ、カーテン閉めよう」

 僕のスマホを掴んだまま、化石になったように固まった美玖さんの手を、できるだけ優しく引き剥がし、スマホの電源を切って棚の上に置く。

「……いいや、いいよ。このままで」

 僕が「どうして?」と訊く間もなく、僕の体は、美玖さんのものとは思えないほどの強い力で、ベッドに押し倒された。骨が軋むくらいの力で両手首を押さえつけられ、若干の恐怖を感じる。

「ほらね、明るいとお互いの顔がよく見える」

「ちょっと、力が強くて怖いんだけど」

「女の子みたいなこと言うね、かわいい」

 力を少しも弱めないまま、僕の服を脱がそうとする美玖さん。その目は据わっていて、僕が何を言っても、聞き入れてくれなさそうだった。……だから、僕は無言のまま、美玖さんの体を精一杯の力で押し返した。

「ふーん……」

 美玖さんが急に力を抜いたから、僕が美玖さんを押し倒したような形になった。すると美玖さんは、そのまま微動だにせず、僕の目をまじまじと見つめた。酔いが徐々に醒めていって、その表情は段々と冷たくなる。

「美琴さんに犯されるのはいいのに、私に犯されるのは嫌なんだ」

 ぽろっと零した言葉が、僕の耳から心に入って、どしんと落ちた。


 ――いつか、美玖さんの口からこういう言葉が零れることを、僕は予想していた。だけど、頭の中で美玖さんの声を再生してシミュレーションするのと、面と向かって実際に言われるのじゃ、痛みが何倍も違った。


「……いつまでぼーっとしてるの? 早くきてよ」

 さっきまでのことが嘘だったかのように、美玖さんの顔には、酔いの火照りがすぐに戻った。

「……うん」

 恐竜好きの少年が、生まれて初めて化石の発掘をするように、僕は無心で美玖さんの服を脱がせていった。その時の僕を突き動かしていたのは、「性欲」なんかじゃなかった。……僕はただ、現実から逃げたかったんだ。


 すやすやと眠っている美玖さんを起こさないように気をつけながら、僕は棚の上のスマホを取って電源をつけた。二十時十六分、スマホが起動した瞬間、視界に飛び込んできた時刻に面を食らう。二人とも酔っていたから、行為を終えてシャワーを浴びた後、ベッドに戻った途端に眠ってしまったんだ。

 しょぼしょぼしている目を頑張って見開いて、矢田さんのラインを確認する。

「中島先輩から、サークルを抜けるって連絡があったんです。どうして抜けるのか、理由を聞いても教えてくれなくて……。坂本さかもと先輩、何か話を聞いてませんか?」

「あと、来週の日曜日の劇で、中島先輩はメインキャラクターを演じることになっていて、その代役が中々見つからないんです。先輩にお願いできますか?」

 送られてきた二つの長文ライン。大変なことになったなと困惑する脳を無視して、僕の指は流れるように動き、返信を打ち込んでいた。

「色々あって、実は今日、亜美と別れたんだ。亜美がサークルを抜けた原因には、そのことが関係しているかもしれない。それと、代役の話だけど、僕でいいなら引き受けるよ。明日から、猛練習する」

 返信を送り、スマホを棚の上に戻す。そして、振り返ると……そこには、自分の膝にかかっている布団を見つめながら、服も着ないまま、体育座りをしている美玖さんがいた。

「おはよう。今、何時?」

 酔いは、もうすっかり醒めているようだった。

「夜の八時二十分くらい」

「……もうそんな時間なんだ。夜ご飯、食べないと」

 どこか他人事のようにそう言って、中々立ち上がろうとしない。小さい海のようなベッドの上、艶やかな白い肌を月明かりにさらして、裸のまま佇んでいる美玖さん。その姿は、なんだか人魚姫のようで、僕はその神秘的な美しさに、状況を忘れそうになった。

「……ごめんね、朝陽君。私、酔ってたから変なこと言っちゃった。……あっ、やばい、勝手に流れてきた。ほんと、気にしなくていいからね」


 ――神秘のベールを突き破って、現実が戻ってくる。その両目から溢れ出た雫を、僕は最初、月光の結晶だと思った。だけど、そんなことはありえない。それは、間違いなく、美玖さんの涙だった。夢じゃない、見間違いじゃない。その時、僕は初めて、美玖さんを泣かせたんだ。


「……もう、やめようと思う」

 思考を置き去りにして、声が勝手に出てきた。

「なんとなく、悟ったんだ。僕が探しているのは、死ぬまで探し続けても絶対に見つからないものなんだって。もうこれ以上、人を騙したくないし、美玖さんを傷つけたくない。だから……」

 僕の方にゆっくりと倒れてきた美玖さんの体が、自然と前のめりになった僕の体を、垂直に戻す。じかに伝わってくる美玖さんの体温は、どこまでもぬるかった。

「……ねえ朝陽君、わかってるでしょ? そんな約束、守れないって」

 僕の心を見透かすように、美玖さんは囁いた。全身から、フッと力が抜ける。美玖さんの体の重みに負けて、垂直だった体が、段々と後ろに倒れていく。

「あなたよりも二年長く生きている、お姉さんからのアドバイス。守れない約束は、しない方がいいよ」


 「そんなことわからないじゃないか」とか、「決めつけないでくれよ」とか、そういう言葉が出てこなかったのは、美玖さんの言っていることが正しいと、本当はわかっているからだろう。


 今の美玖さんの短い髪が好き。シンプルな服が、薄い化粧が好き。人前では大人びているのに、僕の前だと子供っぽくなるのが好き。行為の時、呼吸すらも忘れるくらい夢中になる姿が好き。美玖さんの「好きなところ」のほとんどは、僕の記憶に焼きついてる美琴先生の特徴だ。ずっと前から、そうだった。ただ、認めたくなかっただけだ。

 ――所詮、僕にとっての美玖さんは、美琴先生の「代わり」なんだ。


    *


 友達の明菜に誘われて、私は演劇サークルの劇を観に来ていた。歴史が長い上に人気なサークルだから、専用の劇場まであり、劇場の入り口で配られたパンフレットも、だいぶ本格的だった。

「それで、明菜のお目当ては誰だっけ?」

 キャストが載っているパンフレットのページを、ずっとニヤニヤして眺めている明菜に話しかける。

「この人、西島麗奈役の坂本朝陽先輩。元々は女の人が演じる予定だったんだけど、その人が急にサークルを抜けちゃって、代役が誰もいないから、坂本先輩が抜擢されたんだって」

 アウトドア派の明菜が、こうやって劇で盛り上がっているのを見ると、なんだか違和感がする。もちろんだけど、明菜が劇を観ようと言い出したのには、ちゃんと理由がある。

「……女装している男が好き、か。中々、歪んでるよね」

「わざわざ言葉にするなっ! ……まあ、その通りなんだけどさ」


 開演を告げるブザーが鳴り、一瞬で場のざわめきが静まる。声がよく通る女のナレーターが、パンフレットにも書かれているあらすじを軽く説明する。

 タイトルは、「四人」。「ある田舎町に生まれ育ち、幼馴染同士だった四人の少年少女時代と、大人になって果たした再会、流れる時が生んだすれ違いの物語」と説明されている。明菜のお目当ての坂本先輩が演じる「西島麗奈」は、その四人の中の一人だ。

 夏の縁側を思わせるような穏やかな音楽が、低音質で流れて劇が始まる。徐々に明るくなっていくステージの上には、坊主頭で背の高い男の子と、眼鏡をかけていて少し太っている男の子と、髪の長い活発そうな女の子と、坂本先輩が演じる髪の短い女の子、「西島麗奈」が、横並びになって立っている。明菜のお目当ての坂本先輩は、遠目から見ると身長以外の違和感は何もなく、少し内気な女の子「西島麗奈」としてそこに佇んでいた。

 坂本先輩が、ここまで違和感なく少女を演じることができているのは、単にメイクやウィッグのお陰ではない気がした。きっと坂本先輩は……オーラそのものを、少女のものにしているんだ。


 ――きっと、面白い劇になる。そう思って、私は誘ってきた明菜よりも集中して、劇を鑑賞した。


 時間はあっという間に過ぎていき、気がつけば劇は終わっていた。期待通り、坂本先輩の演技は凄まじいもので、空想の世界に住む「西島麗奈」を、その身に憑依させたようだった。ストーリーはシンプルだけど、テーマが一貫していて面白かったし、坂本先輩以外の人の演技も、それぞれの個性が出ていて良かった。

 良いものを観たなと終演のブザーに余韻を感じていると、「夏希なつき、来て!」と明菜に腕を引っ張られた。

「どうしたの?」

「カーテンコール、間近で見たいの」

 エンディングの透き通った音楽が流れる劇場、客席の間を縫って、ステージの前へとずんずん歩いて行く。劇が終わってから、まだ少ししか経っていないのに、先客たちはもうステージの一歩手前に一列に並んでいた。


 満を持して始まったカーテンコール。他の人と同じように、役名と本名を言った後に軽くお辞儀をした坂本先輩は、裏方の人からメイク落としシートを受け取った。そして、近くで見ると流石に違和感があるそのメイクを落とし、丁寧にウィッグを外した。


 ――その次の瞬間、私の目の前に広がる世界は、その輪郭をぐわんと歪めて、大きく揺らいだ。私の口からは、「ある人の名前」が零れた。


「……想大そうた?」

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