五話 賢明な

 感動の名作と言われている映画を観たら、ちゃんと涙が出る。人に優しくされたら、ちゃんと温かい気持ちになる。だけど、好きになることはできない。私は、昔からそんな人間だった。


「夏希ちゃん、どうしてそんなつまんなそうな顔するの?」

「いや、つまんないなんて、思ってないよ……」

「バレバレの嘘つかないで。夏希ちゃん、いっつもそうだよ。みんな盛り上がってるのに、一人だけ白けた顔する。大人ぶってるの?」

 小学校時代のある日、友達と下校している時に、言われた言葉。おでこの広い活発な女の子、ゆいちゃんがむすっとした顔で言った言葉。それは、今でも私の頭の中で響いている。

 結ちゃんが見抜いた私の本性は、あっという間にみんなに知れ渡った。言葉は徐々に消えていき、残ったものは沈黙だった。秋風が枯れ葉の山を吹き飛ばすみたいに、私の周りにいた色々な人は、あっという間に私から離れていった。


 みんな思っているだろう。「何も好きになれない人生なんて、しけった乾パンみたいなものだ」って。だけど、正確に言えば、それは少し違う。「好きなもの」は一つもない私だけど、「好きな人」なら、たった一人だけいた。

 ――その人の名前は、牧原まきはら想大そうた。想大は、私の幼馴染で、私の恋人で、私の全てだった。


 少し長いまつ毛の下の、風船を追いかける子供みたいな目が好きだった。落ちているごみを無意識で拾うような、真面目さが好きだった。体格にも性格にも似合わない小さくて冷たい手を、握って温めるのが好きだった。

 想大を幸せにすることが、私の人生の意味だと思っていた。想大の死ぬ日は、私の死ぬ日だと心の底から信じていた。……だけどそれは、間違いだった。


 ――今年の夏に、私は二十歳の誕生日を迎えた。蝉の声が鳴り響く公園で、想大に告白したあの日から六年、飲酒運転で暴走した車に、想大が轢かれてから三年が経った。


 人が自分の命より大切なものを失っても、人が世界の終わりに等しいような絶望に襲われても、世界は一緒に悲しんでくれない。何事もなかったかのように、変わらない明るさの朝と、変わらない暗さの夜をループさせていく。これに励まされるか、絶望するかは人それぞれだけど、少なくとも私は、想大の死を知らされた日の星の綺麗さに、眠れないまま迎えた朝焼けの明るさに、心を殺された。


「想大、それでね……」

 想大がいなくなった後の日常を、延々と続く無味乾燥の「今日」を、仏壇の変わらない笑顔の遺影に向かって、あの頃のように話す私。想大の葬式が終わった日から、毎日続けている習慣。

「……すごく面白い劇だったよ」

 私は映画や本の主人公じゃない。大切な人の死を乗り越えることができる強い心も、寂しさを埋めてくれる何かも、持ち合わせていない。もう諦めているんだ。私は、想大以外の誰かを、この世に溢れている色々な面白いものを、一生好きになることができないと。


「……カーテンコールで、その坂本先輩が、メイクを落としてウィッグを外したの。そしたら……」

 不思議と、言葉が出てこなくなった。……いや、「不思議と」ではないか。私の口を塞いだ「何か」の正体を、私はもう知っているのだから。


「私が愛してるのは、『牧原想大』であって、『牧原想大のような人』ではない。そう、絶対に違う」


    *


「……最近は、本当に大人しくなったね」

 この前買ったティーカップの縁を指でなぞりながら、美玖さんが呟く。

「いびきのこと? うるさいって言ってたもんね」

「……もう、わかってるくせに」


 ――美玖さんに「守れない約束は、しない方がいいよ」と言われたあの日から、僕はできるだけ美玖さんとの時間や、演劇サークルでの活動を増やし、「探し物」とは無縁の日々を送った。あの日はまだ秋だったのに、時間はあっという間に過ぎていき、気がつけばもう十二月の下旬だ。


「今日の夕方から、演劇サークルの忘年会するんでしょ?」

 ティーカップの紅茶をぐいっと飲み干すと、美玖さんは、変形したクッションが元に戻るような自然さで、また頬杖をついた。

「うん。できるだけ、早く帰るよ」

「……いいね。今の会話、なんだか夫婦みたい」

 にこっと笑う美玖さんの白い歯が、窓から差し込む冬の日差しに輝いた。


 ――喪失感は、埋まらない。だけど、今の僕は、こういう美玖さんの笑顔を、後ろめたさを感じずに「綺麗だな」と思える。きっと人は、こういうことを「幸せ」と呼ぶんだ。


「田中先輩、和田先輩、香川先輩、瀬戸先輩、坂本先輩。今日まで、ありがとうございました」

 部長である矢田さんが、今日で引退する僕たち四年生の方を向いて、深々と頭を下げる。

「みんな、私たちがいなくなった後のサークルを頼んだよ」

 サークルの中でもお姉さん的な存在だった香川さんが、一人一人の顔を順々に見つめながら言う。大学の四年間も、いま思えばあっという間だった。来年の三月頃、僕は「学生」を卒業する。「誰かのため」を考えて生きないといけない、社会人になるんだ。


 大学を卒業したら、僕は内定をもらっている食品メーカーに勤める。そして、少しずつお金を溜めていって、ある程度になったら……美玖さんと、結婚することになるんだろうな。僕たちの給料なら、きっと家も買えるだろうし、子供も養えるだろう。

 ……こう考えると、案外ちゃんとした人生だ。


「――さあ、今日は楽しもう」

 矢田さんの明るい声で、意識が引き戻される。一度、何かを考え始めてしまうと、中々止まらなくなるのは、僕の昔からの悪い癖だ。


 宴会は思ったよりも盛り上がった。夕方の五時から始めたのに、終わったのはなんと、夜の九時頃だ。まあ、長引いただけなら良かった。だけど、それ以上に大きな問題があった。


「……雨、やばくない?」

 異口同音に、何名かが呟いた。無駄に防音性が高い居酒屋だった上に、みんな忘年会に集中していて、外の音なんて気にしていなかったから、外に出てやっと気がついた。

(どうしよう? 行きは地下鉄で来たけど、ここから地下鉄の駅まで歩くだけでも、風邪を引くぐらいの雨だし。……申し訳ないけど、美玖さんに迎えに来てもらうか?)

 できるだけ早く帰ると言ったのに、全然早く帰れなかったことを謝ってから、迎えに来てとお願いしてみる。既読はすぐについた。返ってきた答えは……「ごめん、もうお酒飲んじゃった」だった。


「……仕方がない。駅まで走るか」

 びしょ濡れになる覚悟を決めて、一歩踏み出した次の瞬間のことだった。

「先輩、私の家にある傘、使いますか?」

 少しびくっとして振り向くと、そこには、僕が女装させられたあの劇の次の日から、サークルの一員になった黒川くろかわさんが立っていた。

「えっ?」

「先輩には、たくさんお世話になりましたし、私の家、あのアパートの一室ですので」

 雨で煙った道路の向こう側に、ポツンと立っているアパートを指さしながら、黒川さんが淡々と話す。……まあ、おかしな話ではない。黒川さんの演技の指導をしたのは、主に僕だったから。

「……じゃあ、お言葉に甘えようかな。明日、返しに行くよ」

「わかりました。ついてきてください」


 ――傘を借りに行くだけとわかっているのに、「ついてきてください」という言葉に少し足が竦んだのは、僕が自分を信用していない証拠だろう。だけど、ためらう必要なんてないんだ。だって、僕はもう変わったのだから。

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