六話 幸せな
枯れ葉の貼りついた玄関タイルの上、靴箱に立てかけられていたビニール傘を受け取る。
「傘、ありがとう。それじゃ、また明日」
不自然なほどに明るい裸電球は、懐かしさを呼び起こした。僕も美玖さんと同棲する前は、こういう古い部屋に住んでいた。今でもその部屋は、美玖さん以外の女性に「家に行きたい」と言われた時のため、解約せずに放置している。
「はい、また明日」
(あの部屋も、今の僕にはもう必要ないんだよな。家賃が無駄になるから、早く解約しないと……)
そんなことを考えながら、ドアノブに手をかけた次の瞬間のことだった。僕は得体の知れない強い力に、腕をぐいっと引っ張られ、玄関マットに尻餅をついた。
「痛っ! ……黒川、さん?」
脳の処理が追いつかなかった。すぐに立ち上がろうとしたけど、その頃にはもう、黒川さんは僕に馬乗りになっていた。
「……えっ? ……どうし」
ホラー映画の化け物に襲われるシーンを、疑似体験しているようだった。分厚いミミズに口の中を這い回られて、まともに言葉を紡げない。
「どうしたんだよ急に!」
やっとの思いで、その前のめりになった体を押し返した僕は、自分のものとは思えないほど、荒々しい声を上げていた。黒川さんは、僕に馬乗りになったまま、俯いて黙り込んでいる。
「……もういい、帰るから」
突き飛ばしてやりたくなったけど、お父さんのことが頭をよぎったから、できるだけそっと床に降ろして、立ち上がった。
――その時、僕の顔を見上げる黒川さんと目が合った。数秒のタイムラグを経て、僕は心の底から湧き上がってきた「何か」の正体に気がついた。ゾッとした僕は、借りるはずだった傘も持たずに、雨の降りしきる夜の街へと駆け出した。あの夜のことを、僕は一生忘れられないだろう。
~その後、黒川夏希~
あの翌日、私は坂本先輩に、長文で謝罪のラインを送った。正直、許してもらえるとは思っていなかったけど、返ってきたのは「もう気にしてない。だけど、ああいうことは、もう二度としない方がいい」という、あっさりと私を許すラインだった。
――あの時、私はどんな気持ちだったのだろうと、今でも考えることがある。いくら考えても思い出せないし、思い出したくもないのに、夜中にふと目が覚めた時とかに、考えてしまって眠れなくなる。もう考えないようにしよう、とは思わない。軽すぎるような気もするけど、これはきっと、私が受けないといけない「罰」だから。
今日も私は、ステージの上に立っている。
「黒川さん、そこのセリフ、もう少しハッキリと言って」
今年度からリーダーになった尾崎さんの指示に、「はい!」と大きな声で答える。去年の秋から演劇サークルに入った私は、夏の蒸し暑さとステージの照明の熱が入り混じった中での練習を、初めて体験している。
「どんな無謀な夢だって、私たちなら、絶対に叶えられるよ!」
お腹から声を出して、人生で一度も発したことのないような青臭いセリフを言う。
「いいね、そんな感じ」
想大は、「私がこれまでの人生で好きになれた唯一の人」であって、「私が好きになれる唯一の人」ではない。「好きなものや、好きなことを今まで何も見つけられなかった」ということは、「私は一生、何も好きになれない」ということではない。それは、昔から知っていたことだ。だけどその上で、私は「でもどうせ」と諦めていたんだ。
あの雨の夜の過ちを経て、私はその「でもどうせ」と諦めていたことに、挑むことにした。その第一歩が、今日まで続けている演劇だ。道のりはきっと長いし、そもそもゴールなんてないのかもしれないけど、私は進むのをためらわない。この挑戦が失敗に終わっても、別にいいと思っているんだ。
――この先、私がどんな人生を送ろうとも、私の心の真ん中には、いつも想大がいる。愛おしく輝いている思い出がある。それだけで私は、十分すぎるほど幸せだから。
〜その後、坂本朝陽〜
「ただいま」
家に着いた頃には、下着までびしょ濡れになっていた。
「おかえり。お風呂沸かしておいたから、早く入って」
いつもと変わらない様子の美玖さんを見た途端、僕の喉には頑丈な空気の膜ができた。その膜は、僕が出そうと思っていた言葉たちを頑なに遮る。
「……その前に、言わないといけないことがあるんだ」
力を振り絞ってその膜に穴を開け、言葉を捻り出す。僕のその言葉に、美玖さんは振り向いた。もう後戻りはできないと、僕は自分に活を入れた。
「……探し物、見つかったんだね」
美玖さんがぽろりと零した言葉に、虚をつかれた。
「えっ?」
「朝陽君のことなら、何でもお見通しだよ。……で、詳しく聞かせてくれる?」
絵画のように、穏やかで綺麗な顔。美玖さんは、どんなに高い場所から飛び込んでも破れない分厚いマットレスのように、「どんなことを言っても、受け入れてくれるだろう」と思わせる安心感を漂わせていた。なのに、僕の胸に溜まっている言葉たちは、鉄球のような重さのまま、口まで上がっていってくれない。
「――サークルの後輩の黒川さんに、『傘を貸すから、ついてきて』と言われた。それで、居酒屋の近くにある黒川さんのアパートまで、ついて行ったんだ」
喉に指を突っ込んで、自分で自分をえずかせるような強引さで、僕は言葉を紡いでいった。
「そして、玄関に入って、傘を受け取ってお礼を言って、外に出ようとした時、突然、腕を引っ張られた。……黒川さんは僕に馬乗りになって、僕を犯そうとしてきたんだ。精一杯の力で、脱がされる前に押し返した。そして、逃げようと立ち上がった。……その時、床に座ったまま僕の顔を見上げる黒川さんと、目が合ったんだ」
時の流れが、ピタッと止まる。言葉にしてしまえば、もうごまかすことはできない。だけど、ここで言葉にしなければ、僕は人としての大切な「何か」を永遠に失ったまま生きることになる。
(逃げちゃ、ダメなんだ)
心の中で呟いた言葉は雫になって、時の水面にポチャンと落ちた。それをトリガーにして、時は再び動き出す。それからはもう、あっという間だった。
「――僕は『探し物』を見つけた。色々なものを犠牲にして、僕が探していたものは、『僕を犯した誰かの満ち足りた顔』だったんだ。美琴先生じゃなきゃダメなんてこと、なかった。ずっと前から、僕はそんな汚らしい人間だったんだ。……もう、どういう顔をして生きていけばいいか、わからないよ」
情けなくて死にそうだ。酔いがまだ残っているのもあり、終いには泣き出してしまった。どうぞ気の済むまで罵ってと、僕は自分の目よりも低い位置にあるはずの美玖さんの顔を、見上げるように見つめていた。
「――別に、どんな顔でもいいんじゃない? それ、けっこうメジャーなセイヘキだよ?」
「えっ? セイヘキ?」
僕は、自分でもバカらしいと感じるほどのすっとんきょうな声を上げていた。僕だって、もう二十二歳だ。その言葉を知らなかったわけじゃない。だけど、あまりにも予想外な言葉だったから、少しの間、意味を理解できなかった。
「……罪悪感に苛まれながらも、朝陽君が今日まで探し物を続けてきたのは、美琴さんに犯されたあの日に、『尊くて美しい何か』を失ったと思っていたからだよね。だけど実は、朝陽君が探し続けていたのは、尊くもないし、別に美しくもないただの『性癖』だった」
物語のあらすじを読むみたいに、すらすらと僕の心の中を読んでいく美玖さんを、僕は黙って見つめていた。
「きっと朝陽君は、そのことにすごく動揺していて、自分が今までしてきたことを深く後悔していると思う。……でもさ、私からしたら、『だからなんだ?』って話だよ」
再び放たれた予想外のセリフに、また呆然とする。
「……えっ?」
美玖さんは、壁に肘を押し当ててもたれかかり、立ちながら頬杖をついた。その姿は、僕は今も日常の中にいるのだと教えてくれる。
「だってさ、私が朝陽君の『探し物』に協力していたのは、『朝陽君が失くした何かが、崇高なものだと思っていたから』じゃなくて、単純に、『朝陽君が探し物を見つけたいと思っていたから』だよ? 自分でも、なぜかわからないんだけどさ、私、朝陽君のことめちゃくちゃ好きなんだよね」
少し顔を赤くしながら笑った美玖さんは、僕に手を差し伸べた。
「でも、僕が今までしてきたことは……」
その手を握ろうとせずためらう僕に、美玖さんは言った。「めんどくさいなあ、別いいじゃん」と。
「朝陽君はさ、付き合ってきた女の子たちに、何か酷いことをしたわけでもないし、私の許可を得て浮気してたでしょ? 別に誰も傷つけてないじゃん。それでもまだ気持ちが収まらないって言うならさ……」
美玖さんは続きを言いかけて俯いた。そして少しすると、また口を開いて、小鳥に話しかけるみたいな小さい声で呟いた。
「……私と結婚してよ。大学を卒業したら、すぐに」
――温かくて愛おしい感情の塊が、心の底から込み上げてくる。いま思えば、僕の心の底からこういうものが湧き上がる時、そばにはいつも美玖さんがいた。……美琴先生と一緒にいる時でさえも、込み上げてこなかった「それ」の価値に、僕は今、やっと気がついた。
手をズボンに擦りつけ、ついた水滴を取って、僕は差し伸べられたその手を強く握った。
「美玖さ……いや、美玖」
「朝陽、どうしたの?」
僕はその時、自分が最も納得できる「愛」と「幸せ」と「大人」の定義を発見した。
「浮気なんて、もう絶対にしない。これからは、美玖だけを愛し続ける。美玖の幸せを第一に考えて生きる。だから……僕と結婚してください」
愛とは、今この胸を満たしているもののような、心の底から湧き出てくる温かくて愛おしい感情の塊のことだ。
「……ぷっ。ちょ、ちょっと待って、なんかツボった」
幸せとは、どれだけ不器用に伝えた愛でも受け入れてくれる人が、すぐそばにいることだ。
「笑わないでよ、恥ずかしい」
そして大人とは、幸せを自分の力で守れる人のことだ。
「そりゃ笑うよ。ついさっきまで泣いてたくせに、いきなり男らしい顔になって、プロポーズし始めるんだもん。……ああ、一応言っとくか。もちろんオッケーだよ」
「うわっ、あっけない」
「だって私は、朝陽と付き合った日から今日までずっと、結婚する気満々だもん」
「そ、そうなんだ。……美玖、ちょっと近づいて」
美玖の頬に手をあてて、その唇にそっとキスをした。僕はその時、「好きな人とするキスは、幸せな気持ちになるものだ」と初めて知った。
――このキスは、僕にとっても美玖さんにとっても、ファーストキスではない。だけど遠い未来、どちらかの命のロウソクが溶け切る少し前に、美玖さんと僕は、今みたいな幸せな気持ちで、お互いにとっての「ラストキス」をするのだろう。
それまでには、僕も大人になっていたい。
インステッド・オブ てゆ @teyu1234
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