短編集

nanana

アルジャーノンへの手紙

アルジャーノンへの手紙

 忘れていくばかりが人生だ。

 したり顔でふんぞり返りながら嘯くばかりの連中の、その全ての顔に唾を吐きかけてやろうと。成し得ぬ瑣末な復讐心を押し殺しながら超えた夜が、もう何度あっただろうか。お前らに私の苦悩が、身を切る様な苦悶が。身悶えるほどの懊悩の、一体何が理解できると言うのかと。泥を掛け、足蹴にして。あらん限りの罵詈雑言を突きつけてやろうと。叶わない反逆に首を絞められながら迎えた朝が、もう何度あっただろうか。


 年を経て、歳を重ねて。上っ面の賢さばかりをせせこましく掻き集め積み重ねて。そんな毎日を延々繰り返すその只中、目指した地点の場所すらわからなくなって。そんな段になって、ようやっと。霧が晴れる様に明瞭になった視界の彼方。遠方切り立つ頂から伸びる影が足元まで伸びるのを目の当たりにして、遅すぎる気付きに打ちひしがれる。


 私に才能なんて無い。

 私は特別な何者かなんかでは決して無いし、きっとこの先、後世史実に名を連ねる程の何某かを産み遺すなんて事は生涯ない。


 書き連ねた言葉が。苦心の果て搾り出した物語が。誰かの心を揺らす一陣の風にでもなればと、願って止まずに紡ぎ落とした思いが。私の願いそのままに、多くの誰かの心を射止めるだなんて絵空事は、忌むべきこの現実が続く限り到底訪れない。

 だけど。だから、知っている。この連綿と続く呪いの様な不甲斐なさに蓋をして、まるで自分はひたすらに幸福なばかりの大衆の一派であると、自分を誤魔化すその手段を、私はすでに持っている。


 筆を折ってしまえばいい。


 自らの内。決して何人も立ち入ることの出来ない私自身の内側に広がる、荒唐無稽な絵空事。心躍る空想の全て、血の湧き立つ夢想の一欠片まで。余すことなくおしなべて、心の最も深い水底に沈めてしまえばいい。それらはどうせ、自身以外のこの世の全ての他人にとってはどうしようも無く無価値な物語に過ぎず。日の目を見ずに途絶えたとて、それを惜しむ何者なぞありはしないのだから。


 わかっている。

 才無き言葉の連なりが、日々の暮らしの糧になり得る訳もなく、生活の寄る辺はまるで見当違いなところに在る。

 垂らした汗も、薄汚れた掌すらも。ただの一度も進んで望んだものなどではまるで無く。やむに止まれぬ、やむを得ず流れ着いたに過ぎぬ産物でしかなかった。夢を叶える為の労働は、今日一日を生きながらえる手段に成り下がっていた。なればこそ、芽のない望みに希望を抱きながら暮らすなどと言うのは、最早愚かとしか言い表せやしないだろう。


 筆を折ってしまえばいい。

 夢は夢のまま蓋をして、心の深い奥の底…淀みの果ての泥濘の渦中に置き去ってしまえばいい。しまえばいい。


しまえれば、どんなにいいか。



 夢見た物語があった。

 思い描いた形なき空想の世界を、我こそは世界の主役だと言わんばかりに躍動する虚構の人々が在った。それは紛れもない、この自らの心の内ただ一つ箇所だけに。

 物語は世界。数多の解釈の下、無限に等しい広がりを有する閉じた宇宙。その只中にしか居場所を持たない言葉達を、生まれる前から殺す権利が、たかだか創造主程度でしかないこの身に何故あると言えるのか。


 その物語はフィクションであり、実在の人物・団体・事件とはいかなる関係もない。この世界は今ここに在る私の中にしか存在しない。


 この言葉は、誰の目にも触れないかもしれない。或いは誰の心の片隅にも遺らない、取るにも足らない路傍の石でしかないのかもしれない。伝えたかった思いの幾つかはまるで届かず、結局独りよがりの自己満足に終始する未来ならば、いっそ朝焼けの太陽程に鮮明に視界を焼いている。

 それでも私は、また筆をとる。

 私の内にしかない、私が描き出したいと望んだ世界の物語が厳然と実存しているから。


 薄っぺらで空っぽな、己の中の賢さが歩みを縛る楔で在るならば。私は愚かなばかりで構わない。私に才能がなくとも、その不在を突き付ける他人の評価などに邪魔立てされてやる義理はない。私以外の誰かが私の可能性を決定付ける事を、私は断固として拒絶する。

 

 強いてこの身を強張らせるものがあるとすれば。描いた世界がたった一人に届くことすらなく風化して、砂漠の丘の一欠片となることだろうか。私の描き出す幾つかの思いが、どう足掻いても何処にも届かない事。結局未だ自らの手で折ることの出来ない筆を手に、ただそれだけには確かに、恐れ慄き怯え震える。

 けれど、それでも描くのだ。きっと元より、それらの怯えこそ、物語を紡ぐ事を胸に誓った全ての書き手が踏み越えるべき、気高く尊い恐れなのだから。


 忘れていくばかりが人生だ。

 それでも消えない想いが一つ。いつか朽ち果てるこの身の奥、実存すら不確かな魂に宿る事ばかりを願いながら。きっと私は、また何か一つ、物語を描くのだろう。




 きっと、貴方もそうだろう。

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